第56話 その灯火に近づきたる者は
左の頬を撫でさすり、髪を乱していく風があった。それは“紫雲海”から水気を含んで流れくる南風だ。四季を問わずにしばしば吹くもので、いつであっても奇妙に冷え冷えとしている。首筋に絡みつき、甲冑の狭間から服をもすり抜け、疲労含んでべたついた汗を乾かすでもなく刺激していく。
ベルタは馬上に身を震わせた。肘や肩の部位が欠損した甲冑は重量の均衡が悪く、むしろ重かった。豪奢な戦外套も裂かれ、穿たれ、外気から己を密閉することなどできやしない。凝り固まり冷え切った体にこの南風は毒だった。心までも凍えさせる。歯噛みする気力をも根から削ぐ。
行禍原の薄闇を進む行軍だった。未だ明けやらぬ空は大きく紫色を滲ませていて、それは背から陽の色が迫ることを教えている。ベルタは不意に泣きたくなったが、しかしそんなことが許されるわけもない。
大敗北だった。
十万を超える大軍勢でもって軍旗も誇らしく攻め入った東の地から、何もかもを失って逃げ落ちて行くのだ。今、昇る日に追われて惨めに歩む者は幾人いることだろうか。原野に散り散りとなった同胞たちを思い、ベルタは切なく息を吐いた。食いしばった歯に当たってそれは口の端から白く散っていく。
彼女の周囲には百五十人ほどの人の群れがあった。騎馬の数十騎は黄金剣騎士団の面々で、それは馬を失って歩く中にももう数十人がいる。残る者は帝国軍であることが分かるのみで所属も知れない。あの最後の会戦においてどこに位置していたかも分からない。壊走し、生きるために必死になる中で、ベルタらの騎影に生存への僅かな可能性を見出した者たちだ。
もはや軍ではない。ヨタヨタと歩む者たちに武装などあったものではない。飲む物も食べる物もなく、傷つき倒れた者を助け起こす者とていない。誰もが黙々として西を目指す。実のところその歩みは帝国本土を目指していない。中継地点だ。飲食物と味方のいるはずの補給中継地点。そこに辿り着きたかった。
やがて朝日が一行を照らし、冬の空の酷薄な青天に背をチリチリと焼かれながら、休むこともなく進み続ける。止まる気になれなかった。止まれば呑まれる。あの炎に呑み込まれてしまう。
マルコという、あの恐ろしい炎に。
会戦に先だって王国側がその少年を代表に出してきた時、誰もが訝しげにする中でベルタは強い関心をもって注目したものだ。マルコと言う名には聞き覚えがあったからだ。ベルタが唯一無二の技として磨きに磨くところの槍術……魔人サロモンの用いていたその技を、あるいは正当に受け継いでいるかもしれない者の名だ。
同じ戦場に相対した。たとえそれが不利な状況であり、決死の覚悟をもって当たらなければ勝利など望むべくもない窮地であったとしても、縁あれば一槍を交える瞬間が訪れるかもしれない。ベルタはそんなことを思ったが、今となっては己の蒙昧を自嘲してもし足りない。
十四歳の若武者の口より放たれた刃は帝国軍をズタズタに引き裂いた。まるで炎の巨人が現れたかのようだった。巨人はベルタらを爪と牙とで好き放題に破砕し、毒に浸して、最後には焼き尽くした。あれは魔力の光景であったとベルタは思い返す。怖気が蘇って身を苛んだ。あの者一人の力によって、落ち延びる今がある気がしてならなかった。十万の軍勢で勝てない一人がいるとしたならば、それはもう魔の物だ。魔人サロモンの槍術を使うか否かなど余りに些細だ。新たなる魔人かどうかを疑うべきだった。
事実、あの時、帝国軍三万二千余りは彼一人によって敗因を作られた。あまりの口撃の前に、皇帝が半ば正気を失ってしまったのだ。返答の使者を立てる間もなく、あれを射よ、あれを殺せと叫び出した。狂乱状態になってしまった。
前には魔の弁舌を振るう少年が火を吐いていて、後ろには隠しようもなく狂い様を見せる皇帝がいる。どうして戦意を保てようか。どうして士気を高められようか。どうして帝国軍人としての誇りをもって武器を握れようか。
しかも皇帝の勅命として全軍に攻撃が命じられてしまった。敵の斜形の陣に対していかなる戦術をもってぶつかるべきか……あるいはぶつからずに済ますべきか……ベルタらが苦慮していた全てがその命令一つによって泡沫と消えた。親征とはそれがある。いかに将官たちが万策を用意しようとも、それを一顧だにせず君命がまかり通る。しかも皇帝を護ることは絶対条件だ。あらゆる動きが制約されて、そして敵はその弱点を容赦なく衝いてきた。自軍左翼が敵最右翼とぶつかるその前に、会戦は既にして勝敗を決していたようにベルタは思う。
だから、ベルタは苦戦に耐えつつ負け方を考え続けていた。勝ちはあり得ない。マルコという少年が口上を始めたその瞬間に敗北は決定していたのかもしれない。いや、あるいはそれよりももっと以前から……絶望に心を冷やしながらも、いかにして負けるかを考えていた。被害計算だ。皇帝を戦場に討ち取られるなどということだけは避けなければならなかった。
左翼側の側面に敵が回り込んだその時、ベルタは負け方を決めた。王国軍の押し方は半包囲のそれとは異なっていたからだ。押し過ぎていた。それは正面から新たにぶつかってくる軍を信用していないように思えた。斜形の最後方に恐るべきマルコが下がったため惑わされたが、やはり後に当たる軍ほど練度が甘い……ベルタはそこにつけ入る隙を見出したのだ。
ベルタは軍を自ら崩した。軍旗を倒し、一気に下がることによって、意図的に味方の潰走を誘発させたのである。
味方の優勢を見つつ押し出してきた後軍とも言うべき敵軍は、そこに勝利を確信し、逸った。追う者の快感に酔ったのだ。無秩序な追撃が始まった。戦場は帝国軍の兵数を削り切られない内に乱れた。会戦としては敗北だが、しかし、その混乱の内にこそ皇帝の玉体を逃す道が生まれる……ベルタはそう考えたのだ。精鋭を自負する騎士団を率いて一気に昇龍の大旗の下にまで後退し、行禍原へ走ることを提案した。
皇帝は茫然としていた。その在り様はベルタに衝撃的だった。彼女にとって皇帝とは常に厳かな迫力を持つ存在だった。その白髪は白刃の閃きを思わせ、その眼光は歴戦の武人としての威を感じさせるものだった。それら全てが幻であったかのようにして、その時、皇帝は一人の老人でしかなかった。覇気は失われていた。
近衛兵に運ばれるようにして、皇帝は撤退を始めた。ベルタら黄金剣騎士団はそれを援護すべく強敵とぶつかることとなった。剣角騎士団である。その練達の槍襖と弓射は撤退しつつ捌けるものではなかったから、自然、敵中に孤立しかねない状況となった。しかし追撃させるわけにはいかない。ベルタは覚悟を決めたものだ。
そこへ疾風のように来援したのがバルセロ軽騎兵旅団である。かつては旅団として五千騎であったはずのその数は会戦に参加する段階で半減しており、そこから更に千五百騎ほどにまで減じていたが、しかし先頭にあって猛然と槍を振るっていたのは間違いなくテレンシオ・バルセロ帝軍准将その人だった。
言葉を交わす暇などなかった。しかし動きによって意図が伝わった。バルセロは敵の混乱を助長すべく犠牲を厭わない突撃を繰り返していたのである。秩序だった隊伍を組む敵がいたならば、目につく端からぶつかっていく。その無謀を重ねる度に数十騎ずつ脱落していくが、しかし隊としては強固にまとまっており、まるで一匹の黒い蛇が王国軍という草原に踊り狂っているかのようだった。
あの恐るべきマルコの参加する“火撃”の騎兵隊と対決していたのではないか……ベルタはその答えをすぐに知ることができた。遠く逆翼方向で他と一線を画する機動戦が戦われていて、それは血煙を噴霧するが如き苛烈さで周囲を圧倒していたからだ。
火の色の戦旗をのみ掲げる騎兵隊が、まさに黒衣の軽騎兵たちを血祭りにあげていたのだ。その中にはバルセロはいない。黒蛇は千五百騎と千騎とに分かれていたのである。バルセロ率いる千五百騎が味方全体を援護する働きを為すために……残る千騎は死兵として火中へ飛び込んでいたのだ。
そう、それは死兵だった。火撃は少数で対抗できる敵ではなく、ましてやバルセロを欠いているのだから勝てるわけもない。千騎がいかに高機動の旋回や分離、突撃や迂回といった戦術を駆使したところで、そのことごとくが通じずに殺されていった。遠目にも敵の凄まじさが伝わった。もう一匹の黒蛇は火炎の中に悶えつつ殺されているように見えた。死は避けられず、ただ、いつ死ぬかだけの問題だった。
そして、二匹の黒蛇の献身をもってして、ベルタは死地を脱することができたのである。与えられた命の時間を呼吸して、ベルタもまた黄金剣騎士団の死力を発揮させた。混乱の撤退戦の中に一個の軍としてまとまる選択肢を捨てたのだ。敢えて幾隊にも分かれ、敗走の戦場を拡大することに努めた。時に味方を糾合して敵にぶつけることもさせた。時に味方を導いて敵の囮にすることもさせた。できることは何でもさせて、その度に死んでいかせて、ベルタはそれを見送るのだ。将が死ぬのは最後である。
誰も彼も死んでいった。いかにして効果的に死ぬかをベルタが決めて、仲間たちはそれに従って。そうやって稼がれた時間を呼吸して、今があった。皇帝がどこまで行けたのものかは分からないし、バルセロの生死だって分からない。何もかもが分からないままに、それでも呼吸をやめない。原野を西へと進む。
蒼い蒼い空の下、誇りなどかなぐり捨てた懸命によって、ベルタは行禍原を行くのだ。
やがて見知った地形が見えてきた。初めは王国軍が補給路の中継地点として設営し、その後帝国が奪って利用していたものだ。仮設の拠点だが数百人は常駐する兵がいるし、何よりも物資がある。人も馬も飲食せずに原野を越えることなどできはしない。
それと気付いたものか、集団から駆け出す者が次々と出た。転倒する者も多い。上半身ばかりが宙を掻くように前に出てしまい、足がついていかないのだ。ここまできて馬蹄で蹴倒すわけにもいかないから、ベルタは騎士たちに合図して馬の歩を止めた。それが命運を分けることとなった。
矢が飛来した。
十や二十では済まない、百を越える矢が拠点方向から放たれたのだ。走り出した者たちが次々と射殺されていく。逃れる術も防ぐ術もなかった。誤射であるわけもなかった。ベルタは掠れ声でもって号令した。
「退避! 拠点は王国軍の手に落ちているぞ!」
ベルタは言いつつも信じがたいことだと感じていた。ここは行禍原の中間地点とも言うべき場所だ。西の砦群は勿論の事、先頃まで東の砦群もまた帝国が占拠していたのである。どうして今この時点でこんな状況が生まれるというのか。ベルタにはそれが分からない。分からないが、しかし、今のベルタらが拠点を奪還する戦力を持たないことは分かっていた。迂回するよりなかった。
そして、更に落ち延びた先でもって、ベルタは拠点の謎の答えを得ることとなった。林の中に休む集団と合流したのである。それは近衛軍の一部隊だった。
「赤い布を巻いた軽騎兵、だと?」
「はい。どうやら会戦の準備に集中する我らの隙を衝いて、南の海岸線から行禍原へと抜けた部隊があったようです。警戒はしていましたから、少数でしかないとは思いますが……」
近衛軍の兵士は悔しげに語った。一個小隊からなる彼らは補給拠点の奪還を試みて失敗したらしい。少なくとも二個中隊規模の王国軍が防衛しており、豊富な物資でもって散々に矢を射掛けてくるとのことだった。それはベルタに謎かけとして聞こえた。
「僅かな騎兵が抜けて、今は中隊規模だと……まさか、帝国領へ侵攻してきた者らの生き残りか!」
「はい。どうもそう思われます。赤布の軽騎兵が糾合したものではないかと」
ベルタは思わず天を仰いだ。それは敵の驚くべき策の存在を示していたからだ。
先の会戦がベルタら帝国軍にとって数的不利があった。その差は一万以上もあり、それが別働隊という選択肢を生むことは想像に難くない。しかし監視網にすらかからない少数を後背へ回らせたところで脅威とはなりえない。ではその意味するところは何か。
まさに、今の状況のためだ。会戦にて決戦を挑むにしろ、端から各個に行禍原へ撤退していたにしろ、いずれにせよ必ず補給拠点を経由することになる。それを当てにして退くのは当然のことだからだ。敵はそこに先手を打とうとしたのだ。
もしも軍が退いてきたのならば物資を焼き捨てていたのだろう。そして、今のように敗残兵がバラバラに寄って来たのならば矢を放つのだ。既に勝敗の決した状況でそんなことをする意味は明らかだった。
「陛下は!? 陛下はどこに……!」
「落ち着いてください、イグナシオ将軍。無事です。無事ですとも。別な場所に隠れておいでです。しかし今は合流できません。日が落ちてからでないと……」
「……その、軽騎兵か」
「はい。拠点に詰めているのは我らと同じような身なりの者たちばかりでした。赤布の軽騎兵たちは、拠点を中心にして広く巡回しているようです」
状況はベルタが想像するよりも酷いものだった。背からのみ追ってくるはずの敵が、既にして先回りしている。しかも原野を彷徨う同胞たちにとって垂涎の場所でもって罠を張っているのだ。死地は未だ周囲にあり、決して脱してなどいなかった。
空腹と疲労、そして恐怖の時を過ごして、夜となった。ベルタらは闇の中を急いだ。誰もが息を殺していた。馬にも枝で作った枚を噛ませた。蹄の跡も可能な限り誤魔化した。今更かもしれない。しかしそうせずにはいられなかった。僅かな物音でも過敏に反応した。
そうして行った先において、ベルタはしかし皇帝に拝謁することが叶わなかった。
岩場の隙間という寂寞たるそこにおいて……白髪白髭のその老人は息を引き取っていた。
死因は枯死か。ベルタが咄嗟にそう考えてしまうほどに、あまりにも弱々しい姿だった。まるで何かの抜け殻のような在り様だった。死して魂が抜けるのは道理だが、死する前からして掛け替えのない何かを失っていたのではあるまいか……ベルタはそう思えて仕方がなかった。
「イグナシオ将軍がこの場に辿り着きましたことは、陛下がその最後の御力にて手繰り寄せた奇跡かもしれません……御言付けがございます」
兵装の侍従が近寄り、何事かを重々しく語り始めた。ベルタはそれをただ呆然として聞いていた。聞き流していた。侍従もそれを察したものか、何度か繰り返し語ったようだった。それで次第次第に意味が伝わってきて、そして己が未だ死ねないことを知った。
ベルタはここに旧い使命を捨て、新たな使命を生きることとなる。
行禍原に皇帝は崩御するも、帝国は未だ在り、終わってはいないのだから。




