表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/148

第51話 蛇の先駆けて西龍ぞ来たる

 黒い疾風が吹く。その風向きは西から東へ。


 馬蹄の音を連続させ、砂塵を巻き上げながら、行禍原を疾走する五千騎の軽騎兵があった。その誰もが黒い戦外套をまとい、人も馬も剽悍たる様相にして、掲げる旗には刀剣住蛇の印章。テレンシオ・バルセロ帝軍准将の率いる軽騎兵旅団である。


 まるで放たれた矢の如く原野を駆けるその集団の先頭にあって、バルセロはその口に干し肉を食んでいた。腰の革袋には三日分の水が吊り下げられている。それを最小に舐めつつ、肉を飲み下す。便意を催せば馬上のままに排泄する。止まらない。馬を止める間隔は厳格に定められており、今はまだその時ではない。戦意を研ぎ澄ませたままに駆け続ける。


 バルセロは己の背に見えない力の後押しを感じていた。それは彼の長い戦歴の中でも、向かい風として感じこそすれ一度として追い風になることのなかったものだ。彼という機動戦術の専門家をしてその速度を援けられるもの……無形の力は名を軍略と言う。


 ドナルド・コレトスという老いたる戦傷騎士が行禍原に描いてみせた軍略は、バルセロにかつてないほどの戦功をもたらした。それは即時の兵権拡大に繋がって、今、彼は己の軍人人生における最大兵力を指揮下においている。


(これがあの男の用いていた力か。勝てんわけだな……)


 バルセロは口中には肉の旨味を、心中には軍略への感動を味わっていた。機動戦に没頭し、手信号の鋭利の先に勝利の達成感を味わう用兵家としての自分を、改めて刀剣の類であると認識してもいた。いかなる名刀名剣も、振るう剣士の腕前次第で敵に勝ちもすれば負けもする。これまでの自分はその刃の交差する世界にしか武威を発揮してこなかった。それしかやりようがなかった。しかし今は違う。今の自分は、ドナルドという軍略家の手腕によって刃筋も鋭く剣線も鮮やかに、アスリア王国という巨体を正に斬り裂かんとしている。興奮を感じていた。


 行禍原に戦われた大規模会戦は、その始まりからして全てが王国軍を欺くものであった。


 王国側に好戦的な指揮官による大軍を用意させる……多くの犠牲を払いつつも、ドナルドはその難事を見事にやってのけた。そしてその大軍を帝国領深くに引きずり込むため、帝国側には一人の殉国者が用意された。バルセロも知る老中将である。目立たずとも陰から帝国軍を支え続けてきた宿将だ。


 老中将の役割は苦々しく悲惨なものだ。主力を潜ませ温存するために無能を演じ、練度の低い後方兵と最低限の兵糧物資でもって会戦へと臨まなければならない。両軍の嗤い者になりつつ愚図愚図と大軍を移動させ、会戦地点を少しでも帝国側へと変更していかなければならない。稼いだ距離がそのままに敗走後の兵士の生還率を左右する。また、撤退が大損害とならないための要たる黄金剣騎士団とベルタ・イグナシオを心ならずも罵倒し、冷遇し、全軍の批難を一身に浴びなければならない。


 何よりも、皇帝が十万余の兵士を囮にしたという事実を隠蔽しなければならない。全ては老中将の愚昧から招いた失敗と危機であり、皇帝はその危機を救う者でなければならない。全軍まさに奮い立ち、王国軍を蹴散らして栄光を打ち立てるそのために……老中将は生き残ることすら許されない。


 死ぬのだ。敗軍の将として戦場に惨めな屍を晒すのだ。そのことが王国軍に勝利を確信させる。初の帝国領侵攻に躊躇うその心へ陶酔をもたらす。周到に用意された殲滅の罠の中へと巨体を投げ出させる。引きずり込めるのだ。


 一人の老いたる職業軍人の、その名誉と命とを自ら貶め投げ出させることによって、大なる軍略の要の一押しとする……それを発案し、それを実行させるドナルド・コレトスという男の凄まじさにバルセロは震えたものだ。


 サロモンだ、それは。


 かつての戦乱においてサロモンが最後に見せた軍略を思う。突出し孤立した勇者の軍を救援するどころか生餌として利用し、むしろ彼らの全滅の可能性を高める戦い方でもって帝国軍の掃滅を図る……その凄まじさに匹敵するものをバルセロは感じていた。命の支払い方が壮絶なのだ。


 バルセロもまた戦いの中に兵の死を勘定に入れるし、時には死兵を使うこともある。しかしそれは死地の風に我が身を晒す中での判断に過ぎない。サロモンやドナルドはもっと遠い所で、例えば戦いの始まる前に焚き火にでも当たりながら、死地でも何でもない空気を呼吸しながら味方の死を決めてしまう。その意味を知った上でそれを行っている。それは人として越えてはいけない一線を跨ぎ越しているようにバルセロには感じられた。人を半ばやめている。それをあるいは勇者や魔人というのだろうか。


 かくして策は成り、王国軍十二万は帝国領において包囲殲滅されつつある。皇帝自らが近衛軍を率いて戦場に立ち、英雄たるイグナシオ将軍及び黄金剣騎士団も勇躍して戦っている。行禍原への退路を断った数万の軍にも数多くの騎士団が含まれており、各々が戦功を競うかのように王国軍へと襲い掛かっている。王国軍は総大将を既に討たれた上、敵地に分断され、それぞれが孤立して右往左往している。その惨状には同情すら覚えるほどだ。もはや全滅は時間の問題である。


 彼らを救う者があるとすれば後詰めの軍勢であるが、それすらももはや壊滅しているのだ。前線が大きく帝国側へと移動し、長大となった補給線を保つため行禍原の半ばにまで出張ってきていたところを、他ならぬバルセロが先鋒となって叩きのめした。自身でも他に覚えがないほどの激烈な攻撃でもって王国軍を蹴散らし、食べやすい切り身に分けて友軍の食膳に並べたような形だ。崩す、という意味では殆どバルセロらのみにて三万余の王国軍を崩しきったのである。


 その際、バルセロは帝軍大佐として二千五百騎を率いていた。そして戦闘終了後、その場にいたドナルドにより即座に帝軍准将への昇進を告げられたのである。そのための皇帝の署名入り文書を彼は所持していた。追加に配属する二千五百騎をすら伴っていた。その時点でバルセロを五千騎の旅団長とするためだけに、ドナルドは動かぬ足で馬を駆ってきたのだ。夏の夜の約束を果たしてみせたのだ。


 鹵獲した山のような軍需物資は、十二万の王国軍を補給するためのそれらは、僅かな欠損もなくそのまま帝国軍の侵攻作戦用物資と変貌した。ドナルドはその場に留まりそれを差配している。待つのだ。本来の持ち主であるところの十二万将兵を掃滅した後の帝国軍が、その勢いのままに行禍原を東進してくることを。中継地点だ、そこは。


 ドナルドは王国侵攻の本命たる主力軍を待ちつつも、東へ向かって一矢を放った。未だ王国軍計十五万の末路を知らない前線砦の、その隙だらけの咽元を刺し貫くための高速の戦闘集団……バルセロ軽騎兵旅団である。この一矢こそは侵略の嚆矢だ。征服の先触れだ。


 ……見えた。


 原野の風景の先にそれはある。アスリア王国軍の前線砦だ。バルセロは手を上げただけで五千騎の隊伍を密にさせた。調練は秋を通して施してある。十分であるとは言い難い。しかし仕上げた。そして戦勝とは訓練の数週間に優る研磨を兵馬にもたらす。勢いも乗っている。


 あとは、この手を振り下ろせばいい。


 それが、この侵攻の最初の一撃となるだろう。


「…………征け!」


 振り下ろし、そしてバルセロは黒い刃の先端と化した。


 砦の外に疎らに散っていた王国兵たちを蹴散らす。早くも追加の物資を搬送する用意をしていたようだ。甘い。そして遅い。バルセロは槍先に血を滴らせつつ砦へ迫った。笑殺すべし。その門は開いている。白い咽元が無防備にさらけ出されている。突かずにおこうか。


「制圧しろ! 兵という兵を突き殺せ!」


 意図して声を張り上げ、バルセロは砦の内部へと突入した。一気に中庭まで駆け込み、通りすがりに多くを突いた。事前情報で砦の大まかな構造は分かっている。前もって選抜しておいた二個中隊が下馬して建物内へと突入していく。バルセロらはそれを援護しつつ厩舎を押させた。道すがら戦闘員と非戦闘員との区別なく槍を振るっていく。丁寧に制圧している時間はない。


「騎兵は逃がすなよ! それ以外は手近なものからでいい! 蹂躙しろ! 乱せ!」


 刃をやり取りする喧騒は未だ聞こえてくるが、不意を突いての強襲である。後詰めを吐き出しているから駐屯する兵数も僅かだ。最後にぐるりと砦を巡り、バルセロは頷いた。ここはもうよし。次だ。


「担当中隊、物資の集積はしなくてもいい。砦を掌握した後は半数を騎乗させておけ」


 言い残すなり、バルセロは四千五百騎を率いて再び出発した。そこで更に二個中隊五百騎を遊撃部隊として切り離し、四千騎が次の砦へと向かう。やることは同じだ。快速の進撃によって前線砦を逐一襲撃していく。兵なく警戒なき砦など容易いにもほどがあった。ただ物資のみは潤沢にある。収穫だ。これは収穫なのだ。敵に食んで敵を殺す。バルセロは大軍の先駆けとして穂刈りをしているに過ぎない。


 時に合流し、時にまた分かれ、バルセロは駆けた。速度を最大限に活用して広く戦域を支配し、ついには砦のことごとくを制圧したのである。そしてその砦群へとやってくる軍は東からではなく西からであった。


 数多の軍旗をたなびかせ、十万余の大軍が行禍原を越えてくる。大なる旗には昇り龍が躍動し、翼竜たちを従えているかに映る。煌びやかで意匠を凝らした印章もまた幾つもはためく。騎士の栄光もまた龍の宝玉のように輝いているのだ。親征である。エベリア帝国の皇帝が行禍原の東へ初めて足を踏み入れようとしている。かつての戦乱においても皇太子が来るのみで自身は行禍原の西に留まったというのに、今、ついにその玉体をアスリア王国領へと運んだのだ。


「露払い、大義である」


 ただ一言のそれは、帝国軍全体に響き渡る意味を持っていた。ライムンドが、長く長く一人の軍人を嫌い抜いていた皇帝が、とうとうその軍人へと声を掛けたのである。それが許しであったのかどうかは分からない。しかし認可ではあった。その軍人の能力と功績に対する評価ではあった。そしてそれは夏の行禍原に帝国軍の守護者とまで謳われた男が英雄になったことを意味する。“黒蛇”の武名はこれまでと異なる意味でもって帝国軍人たちの口に叫ばれることとなったのだ。


 今、皇帝と精兵十万余がアスリア王国の玄関口に存在した。


 そして“雷将”と“黒蛇”の二英雄が並び立ったのである。


「征服せよ」


 皇帝ライムンドが号令したならば、ここに十五年ぶりとなる侵攻軍が進発するのだ。砦群に一万余の軍を後軍として残し、九万の大軍が東へと征服を開始した。アスリア王国の前線二領を諸共に平らげようという動きだ。その後のアスリア王国王都への征路は三通りがあるが、全ては二領を抜いた後の話である。


 今や戦場と相成ったサルマント伯爵領、ペテリウス伯爵領は領軍を総動員して徹底抗戦の構えをとった。しかしその兵数はそれぞれ一万五千でしかない。地の利についても、かつての侵攻により帝国軍は王国領の地勢の詳細を知る。拠点防衛力でもって抗うより他に術は残されていない。


 前線二領の後背にあってそれを支えるのは北東ヘルレヴィ伯爵領、中央北側マルヤランタ侯爵領、中央西側ユリハルシラ侯爵領の三領である。帝国軍の見解としてヘルレヴィ領軍、マルヤランタ領軍は物の数ではないとされていた。後方軍であるばかりでなく、総数にしてもそれぞれ掻き集めたとして八千ほどしかないと調べはついている。問題はユリハルシラ領軍だ。


 クラウス・ユリハルシラ侯爵。


 その名はかつての戦乱を知る者には国軍元帥という階級名と、国軍最高司令官という肩書きでもって思い出されるものだ。帝国軍の侵攻に粘り強く抵抗し、後の反攻作戦のための時間を稼ぎ出した過去を持つ。敵ながら見事な将帥であるとして、その武名は“勇者”や“魔人”と比べても遜色がない。


 そして王国最強の領軍として知られるユリハルシラ領軍は、その数一万五千。前線二領と同数を精兵で揃えている。また、傘下の騎士団として名高き剣角騎士団を有し、その精強なる三千は秋以降を領内にて待機していた。合計一万八千の兵力を常備軍として鍛え抜いてきたのだから侮れない。


 王国の他領については行禍原から遠いということもあり、領軍の少なく弱々しいことは言うに及ばない。それは帝国においても同様のことだ。注意すべきがあるとすれば騎士団である。四侯六伯それぞれにより養われるその固有戦力は侮れない。


 しかし、その騎士団も多数が既に撃破されている。行禍原を越えてきたところを包囲撃滅したのだ。カリサルミ伯爵などは騎士団はおろか自身も首級を槍先に掲げられたほどだ。好戦的で知られた伯爵がそれなのだから、王都以南は総じて脅威足りえないと見て間違いないだろう。


 最大の脅威と言えば王国正規軍がそれであるが、これこそまさに十万以上を一時に失った直後である。散逸するなりして幾許かの兵卒も残っていようが、たとえその者たちが行禍原を横断できたとして、東の砦群は旗を代えて在るのだ。一万余の軍を抜けられるわけもない。予備役や待機兵もあろうが、再編以前の混乱に王都は揺れていよう。まず間違いなく身動きがとれない。討伐軍を編成するなど今は夢のまた夢だ。そうさせるための軍略である。アスリア王国は今再び亡びの予感に打ち震えているのだ。


 懐かしき風景を眺めやりつつ、馬上にあってバルセロは思う。


 ここからだ。


 ここから本当の戦いが始まるのだ。


 帝国軍全軍にとっても、彼個人にとっても、ここまではかつても成し遂げたことである。状況は以前より優位であり、この先にも様々に策が成されているが、だからこそ失敗は許されないのだとバルセロは考えていた。この侵攻作戦で終いにしなければならない。大陸統一を成し遂げなければならない。


 バルセロは油断していない。何故ならば二つの軍旗を未だ見ていないからだ。一つに四剣方形の軍旗。一つに長くはためく白流旗。どちらもが行禍原に出てこなかった。前線砦にも駐屯していなかった。つまりはこれから進む先にいるのだ。どちらも座して死を待つ軍であろうはずがない。片方とは確実に、もう片方ともどこかで対決することになるだろう。バルセロは因縁をすら感じていた。


(俺はもう、負けん……!)


 青く高く透き通る空の下、王国領を帝国軍が行く。


 その軍列は自信に満ちていた。寒さまでが彼らを避けて通っているかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 その軍列は自信に満ちていた。寒さまでが彼らを避けて通っているかのようだった。 上手い文章だなーと思います。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ