第110話 その疾走を責めることなど
「若、よろしいのですか!?」
副官の声を背に聞きつつ、ルーカス・ユリハルシラは領城の廊下を行く。既に戦装束だ。いつになく腰の剣が音を立てている。左手で柄を逆さまに握り、音を堪えさせた。
「王都からの指示では、勇者および聖杯騎士団を通過させるべしとありました! よもや忘れていませんよね!? わかっているのですよね!?」
一度だけ大きく頷く。口を開きたくなかった。開けば火を吐いてしまいそうだった。
「わかっていて、出るのですね!? あれに槍を向ける意味をわかっていて……出るのですね!?」
答えずに、靴音を強めて進む。食いしばる歯の隙間から熱息が漏れ出でている。
「若、よろしいのですね!? それでこそです! それでこそ、若だ!!」
扉を開け放った。
城庭には勇ましき光景が広がっていた。
鎧甲冑の剛毅を戦外套で颯爽として覆い、兜を小脇にして整然としつつも勇猛の気炎が煙のように立ち昇っている。重装の者も軽装の者も、家名ある者もない者も、誰もが等しく瞳を鋭く強く光らせている。
鈍色に脈打つ曇天の下、太鼓を乱打するような音が響いている。強風に領軍旗が翻っているのだ。ユリハルシラ家の家紋が世界へ向けて咆哮を上げているかのようだ。きっとそうに違いないとルーカスは思う。
ならば言葉にしようとも。この身に宿った炎を表そうとも。ルーカスは大きく息を吸い込んだ。
「この場に集いしユリハルシラの強者たちよ! 我は問う! 卿らは武に生きる者であるな!」
大なる声で問うたなら、怒号のようにして「応」との返答が為された。
「なればわかろう! 武とは鋼を身に帯びる者の誇らしき在り様にして、戦う術なき者らを護るためにこそ真価を発揮するものである! 我らは武人である! なればわかろうというものだ! 暴の腐臭を!!」
拳を握った。そうしなければ堪らなかった。
「勇者と聖杯騎士団……断じて許し難し!!」
手甲が鳴っている。拳が怒りに震えている。
「彼の者らは聖なる旗を掲げてカリサルミ領の村を焼いた! 物資の供出を拒んだことが理由だという! それが罪か? それが罰か? 馬鹿な! どこに盗賊のようにして奪い、火を放つ神聖が在ろうか! 天も、地も、人も、そんな行為を決して是認しない! 暴力によって人間の尊厳が踏み躙られることを許しはしない! それが神の象徴を旗印とする集団によって為されたなどと、度し難いにもほどがあるわ!!」
左の拳は変わらずに剣の柄だ。まだ鳴っている。初めてのことだった。
「再びに問う! ユリハルシラの強者たちよ! 卿らは勇に生きる者であるな!」
吠えるようにして問うたなら、噛みつくようにして「応」が叫ばれた。
「なればわかろうな! 勇とは敢えて困難に立ち向かう気概を言う! 打算も諦観も無用だ! 己の感得した正しき道を、たとえ身命を失おうとも、決して怯まずに断固として貫くことを勇敢と言うのだ!!」
拳を空に突き上げた。その先にあるものへと訴えたかった。
「勇敢なるカリサルミ領軍遊撃隊よ……照覧あれ!!」
胸甲すら鳴っている。あるいは熱をも発していよう。
「彼らは憤怒に身を焼き、禍々しき一軍へと真っ先に挑みかかった! 初めに騎兵が、次いで歩兵が、その激情のままに剣を振りかざして戦ったという! 小勢を更に分けてまで追いすがり攻撃したそれは無茶か? 無謀か? 違う! そうせずにはいられなかったからだ! 人間の武とはまさにそれだ! 命とは、それが尊く在ればこそ、時に激しく燃焼する! 今我らを熱しているものとは彼らの命の炎である!!」
遂には逆手に剣を抜いた。両手に持ち替えて大上段に構えた。
「戦うぞ!!」
それは宣誓だった。既に天に在る勇士らに誓いを立てるのだ。
「勇者も、聖杯騎士団も、私は認めん! 諸共に邪悪の勢力であると断言する! 誰一人として逃げず、ただの一人も残らず討ち死にした九百五十人の英雄たちが、こうしている間にも熱くそれを教えている! 私の命は彼らと共に燃えている! 戦うのだ! 戦わずにはいられんのだ! たとえ教会により異端魔軍の誹りを受けようとも……今戦わずして、どうして誇りある生を全うできようか!!」
誰からともなく雄叫びが上がって、それはすぐに誰しもの口から天へ放たれるものとなった。ルーカスもまた叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
風よ、吹いて嵐となるがいい。雲よ、雷雨を孕んで暴れるがいい。
それこそがまさに相応しい。今、猛き者らの命が火炎となっているのだ。
「敵は勇者と聖杯騎士団なり! ユリハルシラ領軍、出るぞ!!」
ルーカスが剣を南へと振り下ろしたならば、武の嵐をば領城に巻き起こし、ここに領都駐在の領軍五千が独断の軍事行動を敢行するのだ。いかなる強制もない。それは五千人分の覚悟が形となって表れたものだ。
しかも孤軍ではなかった。領都を出るなり合流する一軍があった。掲げる軍旗には四剣方形の意匠……剣角騎士団である。
「嬉しいが、よいのだろうか? これは軍令を無視した戦いになるのだが……」
ルーカスが馬上より尋ねたなら、同じく馬上より騎士団長は答えたものである。
「平時に乱を起こすものであれば止めもしましょう。しかし戦いは既にして起きているのです。そうでしょう?」
「うむ……龍将軍閣下は火撃を率いて王都を進発したと聞く。勇者を通過させよという指示も、恐らくは何か考えあってのことだろうと思う。そうは思うのだが……」
「我慢せずともよろしいのですよ。若様のご判断には人間の真があります。それをわからない龍将軍閣下でもないでしょう」
「……うむ。私は龍将軍閣下を信じている」
「ならば勇躍して征きましょう。この戦いは誰かに任せればよいという類のものではありません」
そして軍は行く。ユリハルシラ領軍五千と剣角騎士団三千とによる堂々たる行軍である。
ルーカスらが目指したのはユリハルシラ・カリサルミ間領境の西側にある砦だ。先の内乱において重要な軍事拠点となったそれである。仮設であったものは今や増築補強されて常設のものとなっており、物資も集積されている。千人からなる駐屯兵もいる。
勇者と聖杯騎士団は領境の西側を越えようとしている。やはり内乱時の行軍路を利用しているのだ。カリサルミ領軍とエテラマキ領軍とが仮設砦を意識して整えた道だ。大軍の移動に適している。
領都から砦へは遠い。道すがらに軍議を重ねるという有り様で一行は先を急ぐ。
「若、敵は騎兵のみです。あるいは我らよりも先に砦へと至るかもしれません。そうなった場合、我らの動きを知らない駐屯兵は静観、もしくは物資の供出に応じることとなるわけですが……上手くすれば挟撃が可能かもしれません」
馬上に副官が意見したならば、答えたのはやはり馬上の騎士団長だ。
「急場の小細工はよしたがいい。勇者と聖杯騎士団の行動には我らの常識が当てはまらないところがある。そもそも千では砦を護ることで精一杯というところ。読まれれば一気に砦を落とされる恐れがある」
ルーカスはそれらを聞いて決断を下す立場である。馬を進めながら指揮を執っている。
「砦に伝令! 勇者と聖杯騎士団に警戒すべし! 砦に籠ることを基本としつつも、万一の際にはそれを捨てて退避せよ! これはルーカス・ユリハルシラの名において命ずるものなり!」
軽騎兵を一組三名単位で先行させる。自領内ではあっても油断はできない。
「若様、くれぐれもご油断なきようお気をつけください。二倍に近い兵力差も勝利を確約するものではありません。聖杯騎士団の武威は天下無双を謳われるものですし、かつての勇者は戦術的劣勢を物ともしないところがありました。それを踏まえた上でこちらの優位を活かすのならば、ひとつ所での決戦を挑むよりも領内を深く使った方がよろしいかもしれません」
騎士団長の言葉はルーカスにとって驚きだった。思わず顔を見たものだが。
「お気持ちは察しますが、それが現実です。また、カリサルミ領駐屯のサルマント領軍が追撃していない事実も考慮すべきです。無論、カリサルミ・サルマント両伯爵閣下が王都へおられるという事情もありましょうが……エテラマキ領に残存する兵力が気にかかります。聖杯騎士団とは五千騎ばかりの軍勢ではないのです。我らの行動が思わぬ災厄を招くこともあり得るとご承知おき下さい」
その指摘はルーカスの盲点を衝いており、猛る心に指揮官たるものの冷徹を思い出させるに十分なものであった。ゆっくりと頷く。
「若、地の利を活かすのならば兵を多面埋伏させるという手もあります。妨害拠点を設営することや、一時的に街道を切ることも有効でしょう。多数側が攪乱遊撃を仕掛けるというのも意表を衝くかもしれません」
副官が様々に提案してきたものは、つまるところが遅滞戦術だ。それはユリハルシラ領軍にとって馴染み深い戦い方である。ルーカスの父クラウス・ユリハルシラが国軍元帥であった頃、帝国軍の侵攻に対して大いに実施したものだ。その技術的蓄積は領軍の調練にも用いられている。
ルーカスは思案した。頭脳に兵法軍略を整頓するのではない。己の心に響くものを聞き取るためだ。助言を余さず抱えたままに、盛んに燃えては心身を熱してやまないところのものと向き合う。
「……力任せにぶつからないと、吹き飛ばされてしまう気がする」
赤心からの言葉だった。
「利とは理の上に得ることを期するものだろう? 私は勇者に理を認められない。情についても同じくだ。人間の真摯と誠実を蔑ろにするようにして死が駆け来たる……圧倒的で有無を言わさぬ暴力が南から迫ってくる……そんな気がしてならないのだ」
片手を前方へ突き出したなら、やはりか開いた手の平に冷たく吹き付けるものがあった。
「怖いな」
思わずそう呟いた。
「この先に敵はいるというのに……表情が見えてこない。対決を想像しようとしても、何かが眩いばかりで、人の輪郭をした暴力の光に向き合っているようにも感じられるのだ。上手く言葉にはできないが、きっと死に物狂いの戦いになる。犠牲を思えば身が竦むし、叫び出したくもなるが……それでも抗わずにはいられない衝動がある。熱く滾る闘争心だ。これは授かりものだと思う」
冷えた手を胸甲へと当てた。暖かかった。
「この心火を叩きつけることをもってのみ、彼の敵と戦い得るという気がするのだ。重要なのは勢いだ。勢いこそが最大の武器だ。無策に思えるかもしれないが、我らは八千兵力一丸となって敵にぶつかっていくべきではないだろうか」
南の空を見据えたままに問うたならば、力強い賛同が両側よりやってきた。
「若が感じ思われたままに、我らは戦いましょうとも」
「四剣方形を掲げる騎士の誇り、若様にお預け申し上げる」
頷き、ルーカスは大きく息を吸い込んだ。すぐには吐かず、溜めて、ゆっくりとゆっくりと吐いていく。臍の下辺りに充実していくものがあった。そこが力んでいる限りは戦士として在れる。武を振るえる。
ルーカスは奥歯を強く噛み締めた。手綱を、そして馬上槍を固く握り締めた。
焦燥があった。
秘して言葉にはしなかったが、それは新王の即位式典の日より強まるばかりである。輝かしい未来が雲間に覗けているというのに、そこへ至るための道も見えているというのに、それがどうしてか哀しい世界に思われて仕方がない……原因は一人の人物の様変わりだ。
龍将軍マルコ・ハハトは変わった。
この春からの彼は以前とまるで違ってしまったとルーカスは感じていた。見た目には同じである。仕草や言動にもこれという変化はない。しかし身にまとう雰囲気が異なるのだ。ルーカスの心に響いてくるものが変容したのだ。
彼は、もしかしたら、壮絶に死のうとしているのではないだろうか。
ルーカスは時にそんなことをすら考えてしまう。誰に打ち明けるわけにもいかない疑念であるが、父クラウスも同様の思いを抱いているように感じていた。先日は服や装飾品を見繕って彼へと押しつけていたが、貴族としての格式が云々という弁舌は言い訳でしかあるまい。寝具の商人も呼びつけていた。
彼は……誰よりも功績のある彼は、その成果であるところの世界を生きるつもりがあるのだろうか。
全てが終わったその時に、穏やかな笑顔を浮かべて憩うつもりがあるのだろうか。
かつてルーカスはマルコ・ハハトを行儀がよく隙の無い英雄として見ていた。理知の極みに立っているかのように捉えていたのだ。その輝きに心服しつつも、彼の本音を知りたいと願っていた。新時代を切り拓いていく者の偉大をより深く強く感じたかったからだ。
ところが、実際に見えてきたものはルーカスの期待を裏切っていた。
もとより燃え盛る炎のようにして美しくも凄まじかった彼であるが、そこからチラチラと獰猛さを伴う興奮が覗けてきて、かつては精緻さを感じさせた火炎は今や荒々しい熱嵐のようにして周囲へ広く強く吹き付けている。その威は圧倒的だ。まさに時代をどよもすものではある。
誰もが沈着としていられない。鋭い者は鋭く、鈍い者は鈍いなりに、それぞれの血肉を沸き立たせて高揚を体験している。何につけ居ても立っても居られなくなるのだ。情熱を持て余す者も多かろうと思う。
しかし、破滅的なのだ。
他者や世界に対してではない。彼の施策や軍略は敵味方の区別なく誰に対しても激しく厳しいものではあるが、ルーカスはそこに一種の愛を見出している。麦を踏みつけて根張りを強めるように、赤熱の刀剣を叩いて伸ばすように、過酷かつ苛烈でこそあれ鞭撻の気配がそこはかとなく薫る。事実、王国は力強い新時代を迎えている。
彼だ。彼自身のことだ。その尋常でない在り様は、自らを蝕み焼き尽くそうとしているように思えてならない。そういう狂おしさがあって……ルーカスには痛々しくて堪らない。
どうして彼は、彼個人の幸せを何一つとして追求しないのか。
誰かが彼を止めてやらねばならない。少しは代わってやらねばならない。僅かでも休ませてやらねばならない。さもなくば彼は滅んでしまうだろう……際限なく熱を発し、世界を焼き鍛えて……そしてきっと何も残らない。何も残さない。まるで自らを火刑に処するようにして、灰と消えてしまうに違いない。
そんな彼が、勇者来襲というこの緊急事態において、いつになく凡庸な指示を出している。無抵抗なままに進ませろなどとは全く彼らしくない話だ。弓張原会戦直後の“冷月”急襲においては事前に徹底した対応策が用意されていた。今回のことは予測の外にあったからだろうか。ルーカスはそう思えない。
彼は自ら勇者と対決することを望んでいるのではないだろうか。
そしてそれは避けるべき一戦なのではないか……何か取り返しのつかない悲劇の始まりなのではないか。
ルーカスはそんな予感もあって、今、南へと駆けるのだ。騎士団長の言葉はそのままにルーカスの思いであった。この戦いは誰かに任せていいものではない。たとえそれが龍将軍マルコ・ハハトであっても……むしろ彼であればこそ、任せきりにしてはいけないと思うのだ。
だから急ぐ。南へ。
遠く離れていてもなお不気味な圧を与えてくる敵へ、油断なく絶え間なく戦意を向け続ける。恐怖に負けぬように、不安に挫けぬように、己が命を燃やしに燃やして勇気を奮い起こす。寒さに勝る熱さが生じている。ルーカスは戦える。
進めば進むほどに増える後背地は、全てが愛する郷土だ。ユリハルシラ侯爵領の善良なる民が日々を暮らしている。彼らの日常を邪悪な暴力集団へと無防備に晒すわけにはいかない。
遥か後方、北の地には最愛の者らもいる。姉アマリアと義兄ダニエルと、世界で最も可愛らしいユリウス坊だ。勇者らを一歩たりとて近寄らせたくない。
戦うのだ。心に滾る熱を指先毛先にまで巡らせて、ルーカスは戦うのだ。
急げ。南へ。速く。速く。
領都を発したユリハルシラ領軍五千および剣角騎士団三千は、領内各地に運営される兵站を利用しつつ矢のように進んだものの、間に合わなかった。
砦は黒煙を上げて燃えていた。
駐屯する千人は無残なまでに壊滅していた。砦を巡る攻防があったわけではない。そうであれば間に合っていたはずだ。王国の盾とまで謳われたユリハルシラ領軍である。守勢には強い。籠城は得意だ。
野戦だった。砦に籠るべきはずの千人はどうしてか野戦を仕掛け、ただの一兵も砦へ帰還することなく殲滅されたのである。勇者らはその上で砦の物資の一部を取り、残る全てを燃やしたのだ。カリサルミ領の一村において為したことを、軍事拠点たる砦に対しても同じく為したのだ。
薄闇が迫りつつある中、風は西より紫雲海の潮気を含んで東へ抜ける微風である。砦の煙は黒く立ち昇り、灰色に傾いて、これから始まる戦いが一方の破滅をもって終わることを予告しているかのようだ。
勇者と聖杯騎士団は、その数、四千九百九十七騎。
既に二戦し、およそ二千の兵力を掃滅しておきながら、僅かに三騎の被害である。疲労の色もなく寂として総騎兵の横列陣を敷いている。
対決は凄惨な死闘の血花を咲かせることとなった。