第102話 憎まれる者の荒れ野を征く
清浄なるかな白色の穹窿。霊妙なるかな精緻の彫刻。金銀細工の装飾は世界に神の栄光が在ることを表し、聖人聖女の絵画は世界に神の奇跡が実存することを表す。
主祭壇には聖弓と聖杖を持つ女神の像が慈愛に満ちた姿で在って、その脇には聖鋤と聖斧を持つ男神が力強く控えている。感動的な在り様だ。この世界が天と地の諸共に祝福されていることを厳かに高らかに証明しているのだから。
どうして世界はこの礼拝堂のように美しく整っていないのだろうか……少年は敬虔なる心のままにそう思う。祭壇の脇に飾られた天使の像を見る。自分によく似ていると言われるそれ。自分もそのようにして清い場所に居続けられたならどんなにか幸せあろうかと思う。
少年は名をクリスティアンという。
父の名はトピアス。母の名はエレオノーラ。二人の間に長子として生まれ、十三回目の春を迎えた。
「殿下、ここにおられましたか!」
背中にぶつかってきた声に溜息を一つ、クリスティアンは座していた席からゆっくりと立ち上がった。振り返り見やったならば、静謐の場に踏み鳴らす足音も騒々しく、騎士服に白い衣を引っ掛けた老人が満面の笑顔でやってくる。
「どうしたの、アルヴォ。随分と嬉しそうだけど」
「朗報にございますぞ! 岬に聖船が到着したとの早馬が参ったのですが、何と何と、聖杯騎士団から四百騎と八百卒、計千二百もの兵力が上陸したとのことです! 無論、トピアス様もご一緒とのこと!」
「そう……父様が率いていたという大隊なのかな?」
「きっとそうでしょうな! いやあ、これで領境の兵士たちも士気を取り戻すことでしょうなあ!」
笑い声には何かしら色が付着しているのかもしれない。空気も温んでしまったろうか。盛春の陽気とは別なところで人いきれというものがあって、それがクリスティアンの眉を顰めさせる。
小さく溜息を吐いた。それで笑い声は止む。
「戦いに備えるよりも前にやることがあると思うのだけど」
「何と。お聞きしてもよろしいですかな?」
「礼拝だよ。僕は今年の謝春祭の規模が不満だ。ここにはいつもの菓子職人も楽団もいない。祈りの声もお供え物も少なかったと思う。どうして王都でやれなかったの?」
「それは……何と申しますか……面目次第もござらんところで……」
へどもどする老騎士を放置してクリスティアンは礼拝堂を出た。
新緑の庭園に設定された遊歩道を行く。敷石の縁は踏まない。掃き清められ水の打たれた整いを、清く正しく辿るようにして歩くのだ。そういえば今日もよく晴れている。
「で、殿下! どうでしょう、岬の町へと出迎えに行くというのは! お供いたしますぞ!」
また溜息が出た。振り向きはしない。老騎士が垣根を越えて草木を踏み荒らしでもしていたら不愉快だからだ。
「必要ないよ。僕はここにいることが仕事だ。そう言ったのは君だろ?」
「それは確かにその通りです。殿下の存在はエテラマキ領都を明るく照らしておりますぞ!」
「なら、遠出の誘いなんてしないでよ」
「いや、しかしですな……」
「あのさぁ!」
立ち止まる。込み上げる苛立ちに身が震える。振り向きざまに老騎士の鼻先へ人差し指を突き付けた。
「確認しておくよ! 先王の王孫にして現王の甥である僕、クリスティアンはここで静かに時を待つ。君、王国騎士アルヴォ・オタラは僕の護衛という仕事を務め上げる。そういう話だったよね? それでいいんだろ? なら、その通りにしようよ! 違うことをするのなら最初から説明して! 僕がここにいる理由を、きちんと、しっかりと、わかるように説明してよ! ねえ!!」
こうも畳み掛けるつもりなどなかったが、気づけば肩で息をしている。クリスティアンは無理矢理に呼吸を整え、動悸を抑え込んで、次に踏むべき敷石の方へと視線を転じた。
「……説明できないなら、今のままでいいんだ。それでいいんだ……僕は」
縁を踏まないように、きちんと敷石の中心に足を乗せるように、左右の足を動かしていく。視界が定まらないのは涙のせいだろうか。それとも先ほどとは違う震えのせいだろうか。歯が噛み合わず細かな音を立てている。
重い足音を後ろに従えたまま庭園を渡りきり、回廊を進んで、領城の居住区画へと入った。王城に比べると何もかもが狭く壮麗さに欠けるものの、物々しさなどはまるでなくて、端々の装飾には信仰の息遣いが感じられる。
クリスティアンは服の内に肌身離さずある神の象徴に両手を添えた。神聖さを呼吸する。
しかしそれも止めることとなった。宛がわれた部屋に戻るつもりだったが、見えてきた扉の前には姿勢の悪い中年の男が一人いて、落ち着きもなくウロウロとしている。
「お、おお、殿下。お待ちしておりました。少々ご相談したいことがございまして……」
男は名をカウノ・エテラマキという。先に戦没したエンシオ・エテラマキの叔父だ。王の剣を受けていない以上は爵位を継承していないが、非常の措置として、現状はこの伯爵領を治める立場にある。
「お控え下され、エテラマキ様。殿下はお疲れでござる。相談であればトピアス様がお戻り次第、そちらへ伺いを立てるのが筋でしょう」
「ほ、すっかり側近気取りだな、オタラ卿。我が家の禄を食んでいた身で……」
割り込むようにして前へ出てきた老騎士の態度には険があった。対する側も退かない。食器に取り匙をぶつけてしまった時のような音が聞こえた気がして、クリスティアンは顔を顰めた。争いのきな臭さがあった。
「いいんだ、アルヴォ。僕は話を聞く」
「しかし……!」
「アルヴォ。聞くと言っているんだ。僕にだってそれくらいはできる」
言葉を重ねてもなお渋る老騎士を脇へと押しやって、溜息を零すことまた一つ、クリスティアンは何とか笑顔を作ってみせた。口元だけだ。目は笑えた気がしない。
「それで? 僕に何の用なの?」
「ああ、はい、その……家中においてですね、殿下にお目通りを願う娘どもが大勢とおりまして……どれも若く気立てのいい娘どもばかりで、殿下に歳の近い娘もおりますれば、その……」
腰を折り頭を下げることを奇怪に繰り返す。言葉尻を言いきらない。ねっとりとした笑い顔には肉色の舌がチロリと覗いたり引っ込んだりする。そういう男が仮にとはいえこの領城の主として、クリスティアンの目前に立っている。行く手を塞いでいる。
「もしもよろしければですね、その内の一人でも二人でも……殿下の望まれる人数だけ、お側にお仕えさせてはどうだろうかと愚考した次第でして……」
クリスティアンは返事ができなかった。軽やかなはずの空気は俄かに粘性の何かに変じ、吸うにも吐くにも困難なものとなったようだ。
「やはり王城に比べましては手狭無粋なこの城でして……はい、もう、私としてはそれが何とも申し訳なくて……せめてもの華やぎと申しましょうか、殿下の無聊をお慰めいたしたい一心でありまして……」
寒いのだろうか。手が震える。悪いものでも食べたろうか。胃の腑が歪む。
「それに、その、我が家としましても今の時勢に大きな不安を抱えておりまして……それでも殿下のために働く我らですから、やはり、確かな絆を結びたいとでも申しましょうか……殿下もよきお歳でございますから、まあ、ははは、もよおすものもございましょうし……」
不快感が刺々しく蔓延って、目に見える世界が端から刻まれていく。暗く冷たく苛まれていく。立っていられるのは骨の組み合わせの絶妙でしかなかった。荒く息をする度に身体が揺れた。
「そこまで! そこまででござる!!」
何か熱く力強いものに支えられて、クリスティアンは己が倒れずに済むのだと知った。転倒への緊張を解くだけでも息が楽になったが、同時に力が抜けてしまった。どうしようもなく身を任せたまま瞼を閉じた。
「ご覧のとおりであるからには、もはやここまでに! やはり、お話はトピアス様にされた方がよろしいでしょう」
「ほ……側近というよりは保護者の有り様だな、オタラ卿。しかしその目は何だろうかな……私は殿下のそのようなお姿が忍びないからこそ、お世話する者をと……」
「使用人は足りております。それに、増やすにしろどうしてエテラマキ家の子女である必要がありますか」
「は、わからないことを……ま、一介の騎士の如きにはわかるはずもないことだが……」
「わからいでか、と申し上げる。トピアス様もベック様も居られぬからといって、勿怪の幸いとばかりに殿下の血を欲するなど……春にして夏の羽虫でもあるまいに!」
「……貴様、今、虫といったか? この私に……このカウノ・エテラマキに対して……」
「お望みとあらば何度でも申し上げよう。そして必要とあらばこの手で振り払うことも厭わぬところでござる」
「ふは……言うた……ははは……言うたなぁ、お前……」
何故こうも世界は物々しく騒々しいのだろうか……クリスティアンは神の象徴を服越しに握り締めた。聖なる教えによれば、神は人を争いの園から救い上げ安らかなる地へと導いたという。人間世界の始まりを寿ぐその大奇跡を思う。
「やめて。僕の前で言い争うのは」
神とは過たない存在だ。世界とはきっと常なる奇跡で満たされている。それでいて争いが絶えないのならば人が愚かなのだ。正しさを実践できていないだけなのだ。それがどこまでも口惜しかった。
「控えて、アルヴォ。話をするのは僕だ」
クリスティアンは足に力を込め、老騎士の腕を支えとしながらも立ち直った。
「身の回りのことに不便はしていない。この城も調度品に聖なる気配があって気に入っている。独り静かに過ごしたいとこそ思え、女性を侍らせることなど望んでいない……欠片も」
鼓動などいらないと思った。神の象徴がそれに代わって聖なるものを満たしてくれたらどんなにか救われるだろう……クリスティアンは心底から思う……現実はいつも生々し過ぎる。
「僕のことも、この時勢のことも、どちらも心配には及ばない……誰もが正しく身を処していればいいんだ。神はきっと正義を遍くもたらしてくれるのだから」
神の前に人は等しく迷い子だ。そうと知ればせめて慎ましく在るべきで、己が身を汚穢から遠ざけるべく行動することこそが信仰に適う生き方なのだ。クリスティアンはそう信じているから、握り締めた掌に生じる痛みすらも好ましかった。その痛みは清く聖なるものに由来している。
冷水で身を清めたいと欲していた。口も漱ぎたいし、首筋にべたつく暖気も払い落したかった。いつもそう願っている。今はより願っていた。
「無論、無論、私も教会の神聖なるを信じる者ではありますが……」
しかし扉の前に立つ男は僅かも退く気配がなかった。視線を彷徨わせるのは何の意図か、身を捻ることも数度して、最後は顔の位置も間近に上目づかいとなった。
「その、このようなことは私も舌に乗せたくないと言いましょうか、口幅ったいと言いましょうか……大変に言葉にしにくいことなのですがね……」
チロリと覗いた赤いものは舌だったろうか。それとも毒液だったろうか。
「殿下の妹君……ビルギッタ様は王族を離れて伯爵位を受爵されたでしょう?」
目の前にいる男は人だったろうか。それとも魔物の類だったろうか。
「私の家もね、やはりね、これからも伯爵家でありたいのですよ……今のままでは到底望むべくもないが……しかし、しかし、新王がエレオノーラ王姉殿下の血統をかく取り扱うのならば……ね? わかっていただけるでしょう? 殿下もわかっておられるのでしょう? 私に救いをいただきたいのです……怖いのですよ、私は……私はあの男が怖くて怖くて堪らない……」
他人のもののように動かしづらい舌と唇に発音させて、クリスティアンは問うた。あの男とは誰のことかと。何がそうまで怖いのかと。
すると不気味な男はその顔に何とも形容しがたい表情を浮かべ、チラと老騎士の方に目をやり、そして妙に重々しく首を横に振ったのだった。
その様子はどうしてか誠実ささえ感じられて、クリスティアンは目の前の男もまた哀れな迷い子の一人なのだと気づいた。人間だ。隠しようもない不安が見えている。
「マルコ・ハハト……おお……恐るべき男」
咽奥から何かを捻り出そうとでもするようにして、それは訴えられていく。
「二度、私はあの男を見た。初めは謁見の間……帝国皇帝を追い払った冬の表彰式典……他の誰よりも栄光に照らされていながら、あの男には誇らしさなどなかった……喜んでなどいなかった。恥じ入るところもなかった……疚しいところがなかった。そんな人間などいるわけがないのに……」
声には震えがあった。呼吸は引き攣るように為され、その度に悲鳴のような音を立てる。
「次に見たのは、あろうことかこの領内……東龍河の上流から大船団がやってきて、全てが混乱していたあの時……物資を集積していた町に襲来した騎馬隊……先頭にはあの男がいた。阻もうとした兵をその槍で貫いた。返り血の一滴も浴びない早業で、一人、また一人と慈悲の欠片もなく……私が民家へ隠れたところを見ていたのに、全てを戸の隙間から目撃させるまま……激高もなく哀悼もなく、ただ淡々と槍を振るっていた。あんな殺し方があっていいのか……たとえ戦争とはいえ、同じ人間には違いないだろうに……」
聞く身が震えた。クリスティアンは咄嗟に耳を覆わんとして、しかしその手を胸の前に降ろし、神の象徴へと触れさせた。握ろうにも握れない。苦心して唾を飲み込んだ。
「私は思う。あの男の振る舞いは……まるで同じ人間とは思えないようなアレは……気持ちが悪いと」
どことも知れない一点を見つめながら、カウノ・エテラマキは熱のある声を発している。
「アレが何を考えているかがわからない……だから、きっと、アレは私のことをわかってはくれない。一切の汚れも醜さもなく人間を殺めていくアレは……私の汚れも醜さも認めてくれることなどなくて……塵を掃き集めて火で燃すようにして、つまらない私を消し去ってしまうに違いない……!」
泣いている。涙は出ていないものの、この風采の上がらない中年男は泣いているに違いない。大の大人が何と赤裸々な有り様なのだろうか……クリスティアンは全身に鳥肌を立てながらも、瞬きもできず立ち尽くしていた。息苦しかった。呼吸の度に肩が大きく揺れた。
「私は……怖い。そして憎い。私の信仰を……私を憐れみ、許しを与えてくれる教えを……この救いを蔑むようにして在るアレが、憎い……憎い憎い憎いぃっ!」
クリスティアンは跳ねた。悲鳴は声にもならなかった。そのくせ目に映るものはかつてないほどに鮮烈だった。色が毒々しい。質感がおぞましい。そんな世界の中心に自分はいる。人間の絶叫を聞いている。聞くことのできる耳を持つ己もまた……逃れがたく人間であった。
「もう……憎らしくて憎らしくて堪らないから……私は、神の奇跡がアレを消し去ってくれることばかりを祈っておりますよ。ははは……」
乾いた笑い声だった。虚ろで弱々しい音だった。しかし、どうしてかそれは教会に聞く鐘の調べをクリスティアンに連想させた。印象はまるで異なるのに、不思議と素直に響いてくる。
扉が遠かった。その先には清潔な寝床があるというのに、歩数にして三歩で事足りるというのに、絶望的なまでにそれは遠い。気味が悪いと感じていた男が今は近しく、その向こうの扉は今や余所余所しく閉めきられている。
震えはいつしか痺れとして心身に染み渡っていた。
クリスティアンは喘いだ。
肺腑の内側に熱毒が付着してしまって、それはもう拭い取れないのだと確信していた。