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火刑戦旗を掲げよ!  作者: かすがまる
第6幕

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第103話 見える者にはそれ相応にして

 およそ人生には諸事万事に悲喜交々のあれど、何をおいても細心の注意を払うべきものといえば、それは生き方よりもむしろ死に方ではあるまいか。王都の昼下がり、アドルフ・マルヤランタは七十九回目の夏の始まりに汗ばみつつそんなことを思う。


「わからないね。どうしてこうなるかなぁ」


 どんな名舞台も開幕と閉幕をもって成立している。終わりなき芝居など観客を飽きさせるばかりか演者も退屈しよう。そこに美などあろうはずもない。幕降りて万雷の拍手と喝采が弾ける様を思う。惜しまれ語られてこそだ。アドルフはそれを美として捉えている。


「何を怖がっているのやら」


 窮屈な執務室だ。窓を見やったならば空の青さが明るく遠い。死とはそこに解けていくことだ。既に逝った者との再会などは望んでいない。教会の教えによれば命とは天を飛翔し一つ所に合流するものだが、アドルフはそんな空想に救いを見出してはいない。願い下げもいいところだ。


 死ねば自己は終わる。それまでだ。それで十分だ。それでなくては死に甲斐がない。


「まったく、笑ってしまうよ」


 アドルフは宣言した後に笑い声を上げた。


 いかなる名優も舞台を降りれば役どころから離れる。それは解放であろう。それが救いであろう。刺激に満ちた生を八十年近くも過ごしてきた身には疲労が蓄積している。それがために感性は鈍化した。そうして刺激は縁遠くなる。飽く。億劫になっていく。世界が色褪せていく。


 仕方がない話だ。もはや張り合う相手もいないのだから。


 そら、笑い続けることも困難だ。威勢よく始めたものが乾いた風のように消えていく。笑みの形だけは残ったから、難儀でも腹に力を込めて言った。


「駄目だね。これではまだまだ看板を付け替えただけの人事だよ。領政の勘所をパルヴィラ家に縁のある人間で押さえちゃってるもの。そりゃあその方が色々と円滑に進むのだろうけれど、易きに流れて許されるわけがないでしょ。少しといわずもっとたくさん頑張んなさい。テルヴァハル領の自立は遠いよ、これでは」


 溜息一つをおまけに加えて、寝不足顔の男へと巻物を返した。


 優秀な文官だ。身辺調査で思想の潔白も証明されている。しかし王国大学出身者の特徴として短期的な効率主義に陥りやすいところがあって、アドルフはそこが何とも不満だった。前例主義でないだけでもマシではあるのだが。


 悄然として退室していくくたびれた男と入れ替わりに、洗練された身なりの中年男が入室してきた。服には金糸刺繍でアドルフのものと同じ紋様が飾られている。下の息子のウルマスである。


「またやり直させるのですか? あの者、打ちひしがれておりましたが」

「死相が出る位で丁度いい。そういう仕事をしているのだと自覚することが始まりだ。テルヴァハル領を反乱分子の巣窟にしたいのならば別だけれども、ね」


 首を回して強張りを解し、アドルフは水差しを手元に寄せた。杯を二つ並べて注ぎ、手前の杯については小壺から蜜漬け果実を摘み入れた。透明な水中に黄金色が端から溶けていく。湯気のように広がるそれを見つめる。


「ユリハルシラ侯はそれを意図しているのではありませんか? アハマニエミ領軍は早くも即応部隊が編成されたと聞き及びます。隠されてはおりますが、その矛先は南を向いているものかと」


 水杯に唇を湿らせて、ウルマスが言う。淡々としたものだが視線に鋭利が閃いている。言外にアドルフへと訴えかけてくるものがある。返答にはまず物憂げな嘆息をあてた。


「まったくもって物騒極まる話だね」


 言って己も鋭利を示す。己の謀才を継ぐ者の瞳を見据える。


「図面を描いたのは龍将軍だ。四侯会議なんて今や彼の策略を追認するためだけのお茶会さ。全てが完璧に企画され、実施されていくけれど……唯一、テルヴァハル領についてのみは油断と隙があった」


 目で問われたことを口で答えた。


「うん……間違いなく誘っているよ。テルヴァハル領へ南部の不安定要素を誘引して、一挙に片付けようとしている。ビルギッタ様はそのための餌だ」


 アドルフは苦く笑った。水杯を果実酒の色を鑑賞するようにして覗き込む。甘さに濁ってもなお透明な水は水底の色を隠すことをしない。さりとて飲めないほどに異物を混ぜ込む気にもなれない。


 杯の縁に口を当て、啜った。甘い。疲れた心身に染み込んでいくようだ。


「いよいよもって戦争狂だよ、彼は」


 粘性を増した口内に舌をのたくらせた。口の端が自ずから吊り上がった。


「祓魔師による祝福、行禍原開拓計画、そしてヘンリッキ・ヒルトゥラの辺境伯受爵……何もかもが衝撃的で、そりゃあ驚かされっぱなしだったけれど……どうしてこのアドルフ・マルヤランタが阿呆なままでいられようか。ひと季節も考察すれば十分さ。もう目晦ましには騙されない。私には彼の本当の目的が見えている」


 再び杯の甘みを一口、答えを待つ息子へと続きを語る。


「彼は教会を支配するつもりだ」


 口にすれば我ながら非現実的な響きがあった。“教会”という言葉と“支配”という言葉を並べたならば、それは“教会による支配”を連想させるばかりで他には何もない。それが現実だ。アスリア王国もエベリア帝国も、その現実の内側で相争っているに過ぎない。


「……まあ、聞きなさいよ」


 呆然とする息子を諭す。そうすることで己が心に残る躊躇いも消し去りたかった。


「弓張原会戦が終わった後、王都で私は彼を詰問した。知っているだろう?」

「え、ええ……事前協定違反を犯した冷月の騎兵団を、その……見逃した件についてですね?」

「そう、それだ。まあ何を言ったところで難癖でしかなかったし、彼を罰することなど許されない状況だったけれど、いい機会ではあったからね。私はそこで彼に問答を仕掛けたんだ」


 少々の酒の力を借りて、とは打ち明けずに語る。


「記録には残さなかったけれど、多くを聞いた。彼は弓張原会戦で内乱を決着させる気などなかった。その後の戦いのための準備は整えられていた。それどころか、もうあの時点で行禍原開拓の準備をすら半ば終えていたんだからね。恐ろしい話さ」


 アドルフは肩をすくめて見せたが、それは震えを隠すための行為だった。思い出したならば恐怖も蘇る。開拓という言葉を彼から初めて聞いたのは更に過去のことだ。


「彼は教会の力を認めつつも、まるで恐れてなどはいなかった。理を失い、求心力を失い、弱体化していると評していた。そして最後にこう言ったんだよ」


 脳裏に焼き付いているあの笑みを再現できたならばと思う。


「いずれ僕はその最後の説得力をも打ち崩すでしょう、とね」


 ウルマス・マルヤランタが息を呑む姿は、当時の己の姿と同様のものであるに違いない。アドルフはそれを愉快に思った。きっとこれが人間としての正常な反応なのだ。


「……教会は神と人間とを繋ぐ導き手にして、世界が混乱の中に滅びないよう国を超えて働く組織だ。そうやって人心を安んじる存在だ。世界を闇とするのならば灯明にも等しい。人間社会の根拠と言っても過言ではないその組織から……彼は説得力を奪うと言う。事実、彼は奪い続けてきた」


 身体の揺れ動いたウルマスに手で椅子を示した。固辞せず座る様子を哀れに思う。しかし聞かせなければならない。聞いて貰わなくてはならない。


「守護龍伝説などもう誰も信じていない。勇者伝説を体現していた王女は失権した上に行方知れずだ。内乱は教会に疑問を呈した北部が終始圧倒する形で展開し、決着した。それはしかも軍事的な勝利ばかりか経済的な勝利ですらあった。だから今、王国は教会とは無関係に豊かだね。教会の色を脱色するかのようにして民を安んじている」


 内乱の三年余りは南部を締め上げて北部を栄えさせた。アドルフも東龍河を封鎖することでもってそれに加担したのだから他人事ではない。王国は思想よりもまずは経済構造から改革が成されていったのだ。


 そして東龍河の封鎖が解かれた現在、南北の物流は回復して更に経済が活性化している。陸路にしろ水路にしろ物品は盛んに行き交い、町においても村においてもその活気に漏れる地域の一つとてない。かつてない規模の好景気だ。


 競争が生まれたためである。


 北部の商家が勃興し南部のそれが衰退した結果、生産力の格差を背景とした一方的な商取引は姿を消した。もはや既得権益は破壊されているのだ。努力なしには利益は生まれず、努力しさえすれば誰にでも機会が与えられた。軍事による戦争が終わった後に商業による戦争が起きているような有り様だ。領土ではなく権益を求めての熾烈な創意工夫の争いである。


 新王即位の祝賀行事がその勢いに拍車をかけている。春に始まり夏を迎えた今もまだ、王都の夜には威勢のいい乾杯の声が上がる。あるいは民とは鼻の利くもので、何かを察し、ここぞとばかりに今の平和を謳歌しているのかもしれない。


「そもそもからして、彼という存在自体が随分と教会を馬鹿にしている」


 杯を呷って果実も食べて、空となったところへ新たな水を注いだ。澄んだ水面に照り返すものを見る。


「彼は礼拝しない。祈りの言葉も口にしない。勇者の廟堂へ納香しない一方で、魔人の姓として知られるハハトを名乗っている。聖なる色である青も白も特にまとわない一方で、正反対のようにも感じられる赤と黒を己の色として好んでいる。他にも例を挙げればきりがない。彼は教会が価値あるものとした何ものにも敬意を払わないんだ。他の誰よりも聖定の勇者のようでありながら、ね」


 手が震えなかった。近頃では稀なことである。アドルフは小さくも水鏡と化した杯に己の老いた顔を認めた。静かな瞳をしていると思う。


「そう……勇者なんだ」


 それは己の声か。それとも手中より生じた声か。


「今の教会に最後の説得力とやらがあるとすれば、それは聖定の勇者をおいて他には考えられない。勇者は王国を滅亡の危機から救った……王国民は誰もが勇者に命の恩がある……いや、あったと言うべきか。それは既に過去だ。もう塗り替えられてしまった。我々は新たな危機を体験し、新しい英雄によって救われている……マルコ・ハハトという、若く美しく、王女の傍らに立つに相応しい男によって」


 唇を舐めた。熱をもっていて乾く。


「彼は意図して勇者になり代わるつもりなのかもしれない。民の信仰の縁は、今まさにそこへ集約している。彼が教会に勇者として認められたなら、それはもう革命的な出来事だ。誰も彼もが彼の影響下に服することとなる。少なくとも大陸の東半分は彼の物だ。教会にも強く発言できるだろう。一つの支配の形だ」


 そう言って、しかしアドルフは鼻先に笑う。今の推理に己の臆病さを見出していたからだ。そうであったならば多少は穏便に済む……無理な話だった。アドルフにはその判断がつく。


「でもねぇ、彼は打ち崩すと言ったんだよ。彼がそう言うのなら、用いる手段は一つきりさ……」


 杯を軽く持ち上げ、見えざる者へと捧げた。飲み干す。


「王国内乱において南部全体がそうされたように、今はエテラマキ領が彼に飼われている。不安の中に留め置かれている。発酵することを待たれている。最後は残酷に平らげられるために」


 今、己もまた化け物であろうか。アドルフは恐怖に引き攣る息子へと微笑んだ。


「さあ、今度は何が飛び出してくるだろうね。何が引きずり出されるのだろうね。ウルマス、私はこうも思うんだよ……勇者と聖杯騎士団が出現したとしても、それはさして驚くほどのことでもないのだと。いっそわかりやすいのかもしれない。勝った方が勇者で負けた方が魔人さ。今度も火刑かな? それとも別の刑かな?」


 歴史とはそういうものだ。アドルフはそう見極めている。


 どんなにか功績があろうとも、争い敗れたのならば勝者のための栄養や踏み台にしかならない。主役を飾る脇役として好きなように誇張され貶められる。誰も逃れる術などありはしない。多様な価値観や多角の物の見方など等しく勝者の忌むところのものだ。


 真実を尊びながら進んでいけるほどに人は強靭でも寛容でもないからだ。だから名誉は時代の都合により幾らでも改変される。是非もなく、それが現実だ。


 ヘンリッキ・ヒルトゥラ然り、サロモン・ハハト然り……南北の怪老などと呼ばれた人間も、いずれどのような意味でそう呼ばれるか知れたものではない。アドルフは微笑みを薄ら寒いものへと変じた。


「彼は……マルコ・ハハトは、闘争に勝利したならば教会を支配するだろう。それを目的として動いているのだと私は考える。注目すべきはカリサルミ領だ。どのような策があるにせよ、エテラマキ領へと軍を進めない以上はカリサルミ領が激動の舞台となる。行禍原開拓も餌でしかないのかもしれない。本気であることが示せたなら、もうそれで十分なんじゃないかな?」


 空の杯を見る。器の意味するところのものに思いを馳せた。


「だからね……私はテルヴァハル領の新領政を厳しく監督するんだよ」


 未だ平静を取り戻せない息子に語って聞かせる。


「彼の考える流れの中で、テルヴァハル領における諸々はあまりにも価値が低い。無関心に近いとすら感じる。王国南東、水と木に囲まれるその土地で……どれだけの人が死のうとも彼は欠片の痛痒も感じないのだろう。教会との戦いの邪魔にさえならなければ、どうなろうと構いやしないんだ」


 沈黙すること数瞬、次には身を乗り出した。声を張る。手に表情をつける。


「そうはさせない! 私が上手くやってみせる! 隙があるということは、私が躍る余地もあるということだからね。これは好機でもあるんだよ。長く怪老呼ばわりされてきた私だけれど、ここ何年かは楽隠居を決め込んでしまったからねぇ……観客をやるのにも飽きてきたところさ」


 最後には思い込めた。


「我が領については真面目な長男さんに任せるかな。支えてやるんだよ? いいね?」


 アドルフは笑った。


 それはいかにも自分らしく笑えたから、アドルフは満足して椅子の背もたれに身を任せた。


 歓声に浴するようにして……暑い王都の午後に瞼の裏側を楽しむのだった。

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