第6話:「知ってます!」
エプロンを外してから、同じ袋の中を三回確かめた。
体を拭く布。着替え。お金。
ある。全部ある。
どうして三回も見たのかというと、見終わるたびに、ティアとお風呂に行くことを思い出して、今、何を確かめたのか分からなくなるからだった。
「忘れ物は、ございませんか?」
「うん。たぶん」
ティアは、自分の荷物を両手で持っていた。
銀の髪は、昼間より少し緩く結ばれている。
エプロンがなくなっただけなのに、仕事が終わったんだな、と分かる姿だった。
可愛い人と、仕事のあとにお出かけする。
しかも、お風呂。
人生に、こんな予定が入ることがあるんだ。
手帳があったら丸をつけたかった。赤で。できれば、かなり太めに。
「風呂に行くんだろ。遠征でもするつもりかい」
荷物の口をまた開きかけたところで、エスメラルダに声をかけられた。
「すみません。お風呂の場所、もう一回教えてもらえますか」
「さっき、あーしの顔を見てうなずいてたじゃないか」
「顔は見てました」
「話を聞きな!」
今度は、道順を口の中で繰り返した。
二つ曲がる。青い看板。石造りの建物。
よし。
「いってきます」
「暗くなる前に道を覚えときな。帰りも迷うんじゃないよ」
扉を開くと、夕方の風が頬に当たった。
隣から、ティアが顔をのぞかせる。
「ゆりあさんも、お風呂を楽しみにしていらっしゃるのですね」
「……すごく」
そこには、少しも嘘がなかった。
*
公衆浴場の入り口からは、人の声と、湿った温かい空気が流れ出していた。
石の壁。高い窓。
外へ出てきた女の人が、濡れた髪を布で押さえながら、隣の人と笑っている。
その、いかにもお風呂上がりという顔を見て、急に現実味が増した。
私たちも、今から、ああなる。
一緒に入って、一緒に出て、こうして並んで帰る。
今日、初めてお給金をもらった。
そのお金を、好きな人とお風呂に入るために使うらしい。
すごい。
働いた甲斐がありすぎる。
「二人かい?」
受付の女性が、帳面から顔を上げた。
私はうなずき、教えられたぶんの硬貨を並べる。
「石鹸は持ってる?」
「いえ。ここで買えるって聞いたんですけど」
「ああ。こっちにあるよ。一つあれば、二人で十分さ」
小さな籠に、四角い石鹸がいくつか入っていた。
一つ取り上げると、ほのかに花の匂いがした。
「いい匂い。ティア、これでいい?」
「はい。とてもよい香りですね」
ティアが、私の手元へ顔を寄せた。
銀色の髪が、肩からさらりと落ちる。
近い。
石鹸を確かめるためだと分かっていても、近いものは近かった。
「これにします」
石鹸を買うのに、こんなに決意のこもった声が必要だっただろうか。
受付の女性は笑って、二人分の鍵を渡してくれた。
案内された部屋には、木の戸棚が並んでいた。
壁際の腰掛け。畳まれた布。隣から聞こえてくる、水を流す音。
湯に向かう前に、服を脱ぐ。
よく知っている順番だった。
よく知っているのに、隣の棚へ荷物を入れるティアを見て、私は妙に背筋を伸ばしてしまった。
「お荷物、こちらでよろしいですか?」
「うん。そこなら、隣だし」
隣だし、何だ。
自分で言ったのに、続きを説明できなかった。
ティアは気にした様子もなく、髪を留めていた紐をほどいた。
長い銀髪が、背中へ広がる。
私は、いったん自分の棚へ向き直った。
落ち着こう。
お風呂だ。
体を洗って、湯に浸かるところだ。
女の子と同じ更衣室を使うことなら、前の人生でもあった。
けれど、好きな人に「一緒に参りましょう」と誘われて、その人の隣で支度をするのは初めてだった。
しかも、相手は、私が好きだと知っている。
それなのに、普通に隣にいてくれるんだ。
畳みかけていた服の端を、指で一度だけ撫でた。
嬉しい、と、今さらのように思った。
変に意識しているのは、たぶん、私のほうだけだ。
それでも、その普通の距離に入れてもらえたことが、少しだけ、胸にしみた。
「ゆりあさん?」
「あ、うん。今行く」
荷物をしまい、鍵を手に取った。
*
浴室は、思っていたより広かった。
湯気の向こうに、大きな石の浴槽が見える。
洗い場には、木の桶と、低い腰掛けが並んでいた。
お湯をかぶっている人。
足を伸ばして、深く息を吐いている人。
耳の長い女の人が、隣の友人に、髪をまとめるのを手伝ってもらっている。
目が合ったその人が、空いている場所を指してくれた。
「そこ、使えるよ」
「ありがとうございます。髪、綺麗ですね」
「ありがと。あんたのお連れさんもね」
「ですよね」
勢いよくうなずいたら、隣のティアに見られた。
「……何だか、わたくしが褒めていただいたような」
「褒められてたよ。すごく綺麗だもん」
本人が気づいていないのなら、ちゃんと伝えておきたかった。
ティアは少しだけ目を伏せて、隣の腰掛けに座る。
銀の髪を前へ流した、その背中が見えた。
細い肩。
湯気の中でも分かる、白いうなじ。
私は桶を持ったまま、ほんの一瞬、動けなくなった。
ああ。
これは、思っていたより、ずっと。
「お湯は、こちらからいただけばよろしいのでしょうか」
「うん。たぶん。私が汲んでくる」
仕事があって助かった。
やることが決まると、手足は動いてくれる。
桶に湯を汲んで戻り、ティアへ渡す。
彼女は丁寧に礼を言ってから、湯の温度を指先で確かめた。
私も隣に座り、肩から湯を流す。
温かさが背中を伝うと、ようやく息が抜けた。
気持ちいい。
昨日から、ずっと体に残っていたものが、流れていく気がした。
「よかったね。お風呂、入れて」
「はい。本当に」
ティアが、桶を膝に置いて笑った。
その頬に、水滴が一つ残っている。
拭いてあげたい。
もう少し、見てもいたい。
私が迷っている間に、ティアは自分の手で頬を拭った。
そうですよね。自分でできますよね。
石鹸を泡立て、彼女との間へ置いた。
同じ石鹸を使う。
そんな小さなことまで、嬉しい。
明日も、この匂いがしたら、今日のお風呂を思い出すんだろうか。
いや、明日を待たずに、寝る前に十回くらい思い出してしまう気がする。
*
「後ろ、流そうか?」
ティアが髪を洗い終えたところで、私は声をかけた。
長い髪を片側へ寄せながら、うなじに残った泡を流そうとしている。
片手に髪、もう片方に桶。
少しやりにくそうだった。
「よろしいのですか?」
「うん。ちょっと下向いてて」
桶を受け取り、彼女の後ろへ回る。
襟足から、少しずつ湯をかけた。
濡れた銀髪が、細い束になっている。
指先でそっと分けると、まだ柔らかい泡が隠れていた。
「ここ、残ってた」
「ありがとうございます。自分では、分かりませんでした」
ティアは、素直に頭を傾けてくれた。
任せてくれている。
そう思うと、急に、手つきまで慎重になった。
髪に触れてみたいと、何度も思った。
今、触っている。
綺麗だなと思うものに、その持ち主から、触れていいと言ってもらった。
それが、こんなに嬉しいことだとは知らなかった。
「熱くない?」
「はい。ちょうどよいです」
小さく返事が返ってくる。
少しだけ、力の抜けた声だった。
ずっと聞いていたい。
できれば、私が髪を流している間は、その声で話していてほしい。
「ティア、髪を洗ってもらうの、好き?」
「気持ちがよいですね。自分でするのとは、少し違います」
「そっか。じゃあ、またやる」
考えるより先に、次の約束をしていた。
毎日でもいい。
こんなことでよければ、喜んで引き受ける。
腕が疲れたら、途中で少し休ませてほしいけれど。
最後に湯を流して、泡が残っていないことを確かめた。
「はい。綺麗になりました」
ティアが振り返る。
濡れた髪が、肩へ滑り落ちた。
「ありがとうございます。では、今度はわたくしが」
私は、桶を持ったまま固まった。
「……今度?」
「ゆりあさんの髪も、お流しいたします」
なるほど。
人に親切にすると、親切にしてもらえることがある。
よく知っていることなのに、そこまで考えていなかった。
自分が触るほうのことばかり、考えていた。
「あ、でも、私、短いから。自分でも、すぐ」
「はい。後ろに、少し泡が残っておりますよ」
指摘されて、そっと頭を下げた。
断る理由が、なくなってしまった。
断りたかったわけでは、ないのだけれど。
桶が、私の手から離れる。
次に、ティアの指が、髪へ触れた。
肩が、勝手に上がった。
「お湯が熱かったでしょうか?」
「ううん。ちょうどいい」
少しずつ、湯が流れてくる。
ティアの手が、泡を確かめるように、後頭部をそっと撫でた。
優しかった。
人に髪を流してもらうこと自体、ずいぶん久しぶりなのに、その手の主がティアなのだと考えると、余計に落ち着かない。
顔を見なくて済む位置で、よかった。
たぶん今、あまり人に見せられない顔をしている。
「ゆりあさんの髪、柔らかいですね」
呼吸を、忘れかけた。
「そう、かな」
「はい。濡れると、少し濃い栗色に見えます」
私の髪を、見ている。
そう言われれば当たり前なのに、改めて知ると、耳の奥が熱くなった。
私が、ティアの髪を綺麗だと思って見ていたように。
この人も、今、私のどこかを見ているんだ。
「……ありがと」
それだけ言って、私は膝に置いた手を握った。
もう少しゆっくりしてほしい。
でも、このままだと、何か変な声が出そうだから、早く終わってほしい。
どちらのお願いをすればいいのか分からないまま、最後の泡が流れていった。
「はい。綺麗になりました」
さっきの私と同じ言い方で、ティアが言った。
振り向くと、少し嬉しそうに笑っていた。
それを見た途端、もう一回洗ってもらうには、どうしたらいいのか考えてしまった。
泡を残すのは、たぶん、違う。
そこまでして手間をかけさせる人には、なりたくない。
でも、またやってもらいたいと思うくらいは、許してほしかった。
*
湯に足を入れると、足の裏がじんわり温まった。
ゆっくり腰を下ろし、肩まで浸かる。
「……はあ」
隣でも、同じような息が漏れた。
ティアが、湯の中で目を細めている。
長い髪は頭の上へまとめられ、いつもは隠れている耳や首筋が見えていた。
見慣れない姿だった。
それなのに、困るくらい、しっくりきた。
この人は、お風呂に入ると、こんな顔をするんだ。
疲れたときには目を細めて、気持ちがいいと、少し唇を開けて息を吐く。
そういう、小さなことが分かる距離に、今、私がいる。
「気持ちいいね」
「はい。足が、とても楽になった気がいたします」
ティアが湯の中で、そっと膝を動かした。
小さな波が、私の腕に当たる。
「天界でも、こういうお風呂だったの?」
「もう少し、静かでした。お湯に浸かっている間に、こんなふうにお話をすることも、あまりありませんでしたので」
「そっか。おしゃべりしてて、平気?」
「はい。楽しいです」
すぐに返ってきた。
嬉しくて、私まで、湯の中で足を動かしてしまった。
子供みたいだなと思う。
でも、しょうがない。今のは、嬉しい。
「ティア、今、すごく可愛い顔してる」
彼女は、驚いたようにこちらを見た。
それから、頬へ指先を当てる。
「……どのような顔でしょうか」
「ほっとした顔。そういう顔してくれると、私も嬉しくなる」
ティアの目が、湯の表面へ戻った。
頬が少し赤い。
湯のせいなのか、私が言ったせいなのかは、分からなかった。
「ゆりあさんは、その……よく、そうおっしゃってくださいますね」
「可愛いって?」
「はい」
言いすぎたかな、と少し思った。
でも、思ったことが、すぐ口から出てしまう。
しかも、この人は、笑ったら笑ったで可愛いし、困ったら困ったで可愛いので、減らすのが難しい。
「嫌だった?」
「いいえ。嫌では、ございません。ただ……」
ティアは、指先で小さく湯を揺らした。
「どのようにお返事をすればよいのか、まだ、慣れなくて」
私は、彼女を見た。
綺麗な人だから、褒められることにも慣れているのだと思っていた。
女神さまなのだから、きっと、たくさん。
けれど、名前を呼んで、可愛いと言われるのは、祈りやお礼を受け取るのとは違うのかもしれない。
「普通にしててくれていいよ。笑ってくれたら、すごく嬉しいけど」
「笑う……」
「うん。もちろん、無理してじゃなくて」
そう付け足すと、ティアの口元が、少し緩んだ。
ああ、今の。
今の顔です。
教えてあげたくて、でも、また同じことを言ってしまいそうで、私は自分の膝へ目を落とした。
何も難しいことは、望んでいないつもりだった。
好きだと言って、笑ってもらえたら、それで幸せだ。
けれど、笑ってもらうと、もう一回、こちらを見てほしくなる。
こちらを見てもらうと、もう少し、一緒にいたくなる。
思っていたより、私は欲張りなのかもしれなかった。
*
湯から上がるころには、高い窓の向こうが暗くなっていた。
服を着て、荷物をまとめる。
ティアは濡れた髪を布で挟み、丁寧に水気を取っていた。
「後ろ、やるよ」
「ありがとうございます」
また、背中を預けてもらった。
髪を引っ張らないよう、布で包んで、軽く押さえる。
自分の髪は、さっさと拭いてしまうのに。
ティアの髪だと、毛先まで、ちゃんと見たくなる。
「ゆりあさん。ご自分の肩が、濡れてしまいますよ」
言われて、手を止めた。
私の髪から落ちた水が、服の肩へ染みていた。
ティアが、自分の布で、そこをそっと押さえてくれる。
「こちらも、乾かしましょう」
「……うん」
人のことをしている間は、平気だった。
こうして自分へ手が伸びてくると、急に、おとなしくなるしかなくなる。
先に髪を拭いてもらってから、今度こそ、ティアの髪を最後まで拭いた。
石鹸を包んで、袋へしまう。
指先には、まだ花の匂いが残っていた。
昨日、姫の髪からも、花の匂いがした。
ふと、そのことを思い出す。
あの子にも、誰かと笑いながら一日を終えられる夜が、ちゃんと戻ってほしかった。
明日は、エスメラルダと街を歩く。
教えてもらったことを、見落とさないようにしたい。
私は袋の口を結び、隣で待つティアへ顔を上げた。
「行こっか」
「はい」
外の風は、火照った頬にちょうどよかった。
*
浴場の明かりを背にして、二人で歩いた。
石畳に、窓から漏れた灯りが落ちている。
店を閉める人の声や、食事をする人の笑い声が、時々、通りまで聞こえてきた。
昨日は、宿を探して、ずっと歩いていた。
今夜は、帰る場所が分かっている。
その違いだけで、夜の街が、ずいぶん優しく見えた。
「まだ、少し熱いね」
「はい。風が気持ちよいです」
ティアが、耳にかかった髪を払う。
銀色の髪には、まだ少し湿り気が残っていた。
頬も、ほんのり赤い。
お風呂に入る前とも、湯の中とも違う顔だった。
今日だけで、知らなかった顔を、いくつ見たんだろう。
たぶん、明日にも、まだある。
そう考えると、口元が勝手に緩みそうになった。
「あの、ゆりあさん」
少し歩いたところで、ティアが言った。
「うん?」
返事をしても、すぐには言葉が続かなかった。
彼女は、持っていた荷物を一度、抱え直した。
指先が、布の端をつまんでいる。
何かを言おうとして、少しだけ唇が開き、また閉じた。
私は歩く速さを落とした。
ティアが、こちらを見る。
いつもより、少しだけ、ためらうような目だった。
「本当に、私のことかわいいと思ってますか?」
足が止まった。
思っている。
そんなの、当たり前なくらい、思っている。
けれど、そう答える前に、胸の中で何かが跳ねた。
本当に。
私は今まで、何度も言った。
可愛いも、好きも、会ったときからずっと。
言ったから、伝わっているつもりだった。
でも、軽く聞こえていたのだろうか。
誰にでも言うから、と思われていたら、どうしよう。
「お、思ってるよ」
最初の声が、少し裏返った。
ティアは、私を見ていた。
笑ってごまかしていいような気が、しなかった。
「すごく思ってる。可愛いし、綺麗だし、今日も、何回も見ちゃったし」
何回も見たことは、言わなくてよかったかもしれない。
でも、もう遅かった。
「あの、髪とか、笑った顔とか、そういうのも大好きなんだけど、それだけじゃなくて」
言葉が、うまく並ばない。
昼間なら、注文を聞きながらでも、女の人を褒められた。
なのに、今は、相手が一人しかいないのに、その人に言いたいことが、多すぎた。
「人に、おいしかったって言われて、嬉しそうにしてたでしょ。それをエスメラルダさんに伝えに行って、また嬉しそうに笑ってて。ああいうところも、すごく好きで」
ティアの目が、少し丸くなった。
「さっきだって、私の髪まで、あんなに丁寧にしてくれて。自分がしてもらったからって、すぐ、私にも同じことをしてくれようとするじゃん」
そこまで言って、一度、息を吸った。
胸の中にあったものを、そのまま並べていた。
格好よく言おうとしても、無理だった。
「ほかの女の子を可愛いって思うのも、本当だよ。でも、ティアが一番なのも、本当なの」
隣を歩くなら、この人がいい。
次に綺麗なものを見つけたら、最初に教えたい。
今日のことを思い出すとき、いちばんはっきり浮かんでくる顔が、この人であってほしい。
もう、そうなっている。
「だから、その……適当に言ってるんじゃなくて」
ティアは、黙って聞いていた。
どうしよう。
まだ、言い足りない気がする。
でも、これ以上言葉を増やしたら、もっと、分からなくなってしまいそうだった。
結局、私の口から出たのは、いつも言っているのと、同じ言葉だった。
「ほ、本当に大好きだから!!」
思っていたより、大きな声になった。
言ってしまったあとで、急に、自分がどんな顔をしているのか気になった。
たぶん、かなり必死だった。
ティアの目が、ゆっくり細くなる。
ほっとしたように、肩が少し下がった。
それから、口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「知ってます!」
弾むような、でも、私にだけ届くような声だった。
私は、その顔から、目を離せなくなった。
頬に残った赤み。
灯りを映した、青紫の瞳。
笑うと柔らかくなる目元。
夜風で揺れた銀の髪が、彼女の指に、そっと払われる。
綺麗だった。
さっきまでなら、そのまま口に出していた。
でも、今は、声にならなかった。
私の言葉が、届いていた。
届いた先で、この人が、こんなふうに笑ってくれている。
そのことを理解した途端、顔が熱くなった。
お風呂から上がったばかり、という言い訳では、もう足りなかった。
ティアも、少しだけ目を伏せた。
けれど、口元の笑みは、そのまま残っていた。
私たちは、並んで、また歩き始めた。
石畳を踏む音が、二つ。
少し歩幅を変えると、自然にそろった。
何か、話したかった。
でも、横を向くたびに、さっきの笑顔を思い出してしまう。
ティアも、私を見上げかけて、前へ向き直った。
その横顔を見て、私は、握っていた荷物の持ち手を、そっと緩めた。
言葉がなくても、置いていかれる感じはしなかった。
お互いの歩く音が、すぐ隣にあった。
曲がり角を一つ越える。
もう一つ越えると、ゴブリン亭の明かりが見えた。
帰る場所があってよかったと、さっきは思った。
今は、その場所まで、もう少し遠くてもよかった。
扉に手をかけるまで、私たちは、何も言わなかった。
*
夕食をいただいたあと、部屋の窓辺へ椅子を二つ寄せた。
窓を開けると、屋根の向こうに夜空が見えた。
階下のにぎわいが、床を通して、少しだけ伝わってくる。
エスメラルダから買った薄い果実酒を、杯へ注いだ。
ティアは、その瓶を、少し困った顔で見ていた。
「お酒は、あまり……」
「お水にする?」
私が尋ねると、彼女は迷ってから、首を横に振った。
「……少しだけ、試してみます」
彼女の杯には、ほんの少しだけ注いだ。
二つの杯の縁を、軽く合わせる。
「乾杯」
「乾杯」
ティアは一口飲んで、唇を結んだ。
まだ、好きな味ではなさそうだった。
私は自分の杯を傾け、窓の外へ目を向けた。
小さな星が、屋根の上にいくつも見える。
風が吹くと、隣から、石鹸の香りがした。
同じ匂いなのに、ティアから香ると、少し違う気がする。
確かめるように横を見ると、彼女も、こちらを見ていた。
また、少しだけ、目をそらした。
ティアが残りのお酒を飲み、空になった杯を膝に置く。
私も、ゆっくり飲み干した。
好きだな、と思った。
いつもなら、すぐに声になるその言葉を。
今夜の私は、胸の中で、何度も繰り返していた。




