プロローグ・セイバー
自分には幼馴染がいる。
森下瑞希というんだけど、この子がまた物凄い。難攻不落のポーカーフェイスでほかの追随を許さない、人間強度の強さと言える。
彼女とは同じ地域の同じ病院で生まれ、同じマンションの育ちだった。もっと言えば誕生日も近い(自分が七月十日生まれで、彼女が七月十六日生まれだ)。
そんな共通点があるからか、はたまた親の近所付き合いからか彼女とは幼稚園、小学校、中学校の卒業までずっと一緒にいることが多かった。
だが自分と彼女とで明確に違う箇所がある。それは先程も言った人間強度の強さだ。
そんな彼女を象徴とするエピソードはいくつかあるが、とりあえず一つ挙げるとすれば幼稚園の頃、彼女はジャンケンで負けなしだった。
それだけ聞けば、ただ運がいいだけの幼稚園児の小娘なのだが勝率が異常だったのだ。幼稚園に入園してからというもの、彼女がジャンケンで負けたところを自分は見たところがなかった。物知りの木村くん、ガキ大将の西山くん、マドンナだった海野ちゃん、そして先生の田中先生。
自分の幼稚園でネームドの名だたる猛者たちを彼女は一人で制圧してしまったのである。―――冗談はさておき。
しかしながら、幼稚園では森下瑞希というひよっこにも満たないであろう少女はただの一度もジャンケンで負けたことはなかった。このことは地域の新聞にも載ったし、幼い彼女に対してテレビの取材が来るほどだった。
小学生の時、自分の部屋で彼女とゲームをしているときだった。彼女が突然「私は二百歳まで生きる」と言い出したのだ。ゲームをやる手が止まり、彼女をまんまるく見ていたことを今でも覚えている。
曰く、「この前図書室で知ったんだが、人間の最高齢は百二十二歳百六十四日だった。人間の限度は精々百二十歳だ。だけどそれはほとんどの人が最初から二百歳まで生きようと思っていないからだ。なら最初から二百歳まで生きようとする強い意志さえあれば十分に可能性はある」という、何故か妙に説得力のある論を述べるのだ。
そんな事を言った翌日、有言実行を体現して彼女はこの目標のために毎朝ランニングを欠かさずに行うようになった。勉強も周りよりはできている方であった彼女だが、さらに勉学に励むようになった(八割型できていたが、十割できるようになっていた)。さらには夜の九時に就寝するようになった。というように規則正しく、健康的な生活を実際に徹底するようになったと言ったほうがいいだろう。
地区の百人一首の大会で優勝したり、小学校のお楽しみ会で彼女と漫才をやったりと森下瑞希伝説はとどまるところを知らなかった。彼女が何か突発的な行動を起こす度に自分が巻き込まれるのだが、自分自身が彼女の伝説を目の当たりにする『目撃の第一人者』であることに、悪い気はしなかった。
ある日彼女が「毎度付き合わせてしまってすまない」と謝ってきた。しかし自分はそうは思わなかった。元から内向的な性格だったため、外へ連れ出してくれた瑞希には感謝している。
彼女の信じた道は確かな軌跡として自分のこころに残ったのだ。
思い立ったが吉日。それを有言実行し、奇天烈な行動に出る彼女を小学校では皆、神を崇めるかのように湧き立っていた。
しかし、中学校から彼女のその行動を忌み嫌う女子グループがあったため、彼女はクラスの輪から少しずつ外れていた。話しかけても無視されたり、時折物を隠されたり、陰湿で低俗な取るに足らない小さなイジメだった。
その時、自分は彼女を助けることはなかった。怖気付いたのだ。せめてもの罪滅ぼしとして、彼女の隠された上靴を彼女が来る前に見つけてそっと靴箱に戻したり、授業でペアを組むときに残った彼女とペアを組んだりした。
そして中学二年生の夏休み。
いつものように暇な時間を潰すべく、クーラーの効いた部屋で瑞希と共にスマブラをしていたのだが、彼女が前触れもなく「引っ越すことになった」と言った。
自分のコントローラーを動かす手が止まったのを今でも覚えている。CDラジカセで再生していた交響曲第5番・運命が止まった錯覚を起こしたことも。クーラーの効いた涼んだ部屋の中で冷や汗をかいたことも。………その言葉は不意打ちだった。
事情を聞けば、イギリス人の父親の家の事情で倫敦に引っ越すらしかった。開いた口がふさがらなかった。物心ついたころから彼女は自分の隣にいた。高校や大学で離れることはあっても、同じマンションに住んでいる限り縁は切れないものかと思っていた。
拒みたかった。君だけでもここに残ってくれと、言いたかった。しかし自分は一言の「行かないで」という言葉も言えなかった。
彼女が日本を去る日、自分は彼女を見送らなかった。無理矢理、親に連れて行かれた空港を逃げ出した。
とにかく走って空港の外に出た。やるせない気持ちと、切なさが心臓を逆撫でする。本当に心の底から、どうしようもなく叫びたくなる。
息切れして、酸素を求める身体を必死で起こして、空港がまだ見える場所で、―――空を仰いだ。
飛行機が飛び立つその姿を直視してしまった。青空を駆ける銀翼に直感的に“彼女”が乗っているものだと分かってしまった。
空高く、天仰ぐその光景を見て止め処なく涙が溢れ出てきてしまった。もしかしたら、自分が彼女との別れを拒んだのはこの涙を見せないためだったのだろうと今にして思う。人目をはばからずに自分は泣いた。
それからしばらくして自分の両親が自分を見つけて駆けつけた。わんわん泣く自分を叱ることはせず、父と母はただ「帰ろう」と言った。
いつまでも、いつまでも自分は泣いていた。
※※※※※ ※※※※ ※※※ ※※ ※
高校二年生となった。
約三年の時が過ぎていった。それから自分はほどよく、目立たず過ごしてきた。忌々しながら、自分の中学の頃のクラスメイトが自分と同じ高校に入学したため、自分の過去を知るものがいるという状況なのだ。いつ自分の過去が露呈するか気が気でない日々だ。
―――ともかく。
そんな自分に大事件が発生した。
あくる日、学校から自宅のマンションに帰って、うっとおしい蝉時雨の煩さが目立つ季節。ゲームをしていたところに母から「瑞希ちゃんから手紙きてるよ」などと、嘘であってほしい声が掛けられたのだ。
受け取った自分が部屋にこもって、ゲームを小一時間をやって精神を落ち着かせ、いよいよ意を決して手紙をあけた。
拝啓
入江帆高様、いかがお過ごしでしょうか。
ロンドンは日本に比べますと過ごしやすい気候ではございますが、そちらの夏の暑さは厳しいものとお察しいたします。日々のご健勝を心よりお祈り申し上げます。
さて、本日は帆高様に一考いただきたく、筆を執りました。来たる夏休みの期間を使い、こちら倫敦へ足を運んでみてはいかがでしょうか?日頃の勉学やお忙しい日々から少し離れ、こちらの異国情緒あふれる街並みや文化に触れていただく、良い機会になればと考えております。
当地では、歴史ある歴史的建造物のほか、緑豊かな公園など、お見せしたい場所がたくさんございます。もしお越しいただけるのであれば、私の知る限りの倫敦をご案内し、微力ながら滞在をサポートさせていただく所存です。
日本とはまた異なる夏の空気を感じながら、久しぶりにゆっくりとお話を伺うことができれば、私にとってもこれ以上の喜びはございません。
ご多忙の折、突然のご提案で大変恐縮ではございますが、前向きにご検討いただけますと幸いに存じます。
まずは書中をもちまして、ロンドンへのご招待と、帆高様のご健康をお祈り申し上げます。
敬具。
Ps.誕生日遅ればせながらおめでとう。
■■■■年 7月14日
ロンドンにて森下瑞希。
ちょっと堅苦しい手紙、心臓の鼓動が始まったかと思えた。
人間、最初から鼓動していて、それが止むことがないのは知っているのだが、比喩表現としてそれ以上の表し方を自分は知らなかった。
しかしあんな別れをしてしまった旧友と会う気まずさもある。自分の中で相反する感情が交錯して複雑に競い合っていた。
「謝ろう」
会って謝ろう。ただそのためだけに彼女に会うことを心に決めた。謝って許されることではないだろうけど、それで罪が晴らされるとは思わないけれど、―――謝ろう。
父と母に許可を取って、夏休みの時間を利用してイギリス・ロンドンへと向かうこととなった。
飛行機に乗っている最中、彼女もこの光景を見たのかな、と少し思い耽った。
「元気にしてるかな……?」
独り言のようにぽつんと呟いた。
しばらくフライトの時間があるため、携帯レコーダーのイヤホンを耳に挿してお気に入りの曲を入れる。ベートーヴェンの運命の序奏が今日という日に彩りを添えた。
長いフライトの終盤、機体がぐっと高度を下げ、厚い雲の層を突き抜けた。気まぐれに窓を眺めれば、窓の外にパッと広がったのは赤い煉瓦の街並みだった。都会と田舎の混合のような、異種混合されたその光景。遠くにはビッグ・ベンのような『時計塔』がある。特段何があるわけでもなかったが、その時計塔を見ていると嫌な予感が過っていくのは気の所為だろうか。
飛行機から降りて、日本とは違う異国の空気を味わう。
日本と比べ、断然涼しい。ロンドンの空港にて、彼女を待つ。会って謝る。その後のことはあまり考えていない。ほとんど喧嘩別れのような、いや、自分がそう思っているだけかもだけど―――
「久し振り」
背後から声をかけられた。
「……瑞希?」
引っ越した中学時代から変わらない黒百合のような花弁の黒髪。桜褐色の瞳とヤマモモの実のような唇。黒で包まれた衣装着、襟にリボン、そこから丈の長いロングスカート。会ったときから変わらぬポーカーフェイス。
久方ぶりに見る彼女の姿はロンドンに染まっていた。
「正真正銘の森下瑞希だ」
謝る、そう謝るんだ。
自分がしたことすべて、どんな些事でも詫びさせてもらおう。
「ようこそ倫敦へ」
キャリーケースを引く自分の手を引いて、喋ろうとした自分は自然と口が閉じる。通貨を変換して、そして彼女は「とりあえず、手荷物は貴重品や持っていくもの以外は私の家に置いていこう。手がかさばるといけないからな」と猪突猛進する獅子のように自らの家に案内した。
そこはどこか趣のあるテラスハウスだった。ロンドン郊外に立つ、赤レンガや石造りの伝統的なイギリス式アパートメントだ。
言われるまま、中へと入る自分。
落ち着きのあるリビングにキッチンと生活感が取れた部屋だ。しかし、不思議なことに瑞希の両親は居ないようだった。両者共々、仕事にでも行っているのだろうか。
「父と母はここには住んでいない。 今は離れて暮らしいるんだ」
心を読んだように瑞希は語った。
キャリーケースを置き、財布やスマホなど必要最低限の物を持つ。―――ついでに携帯レコーダーも持っていこう。
「瑞希」
「なんだ?」
「今さらなんだけど、やっぱ自分はどこか宿を借りるよ。男女で一つ屋根の下とか、はたから見たらおかしいし」
「なんでだ?昔はお泊りとか普通にしてたろう」
「昔とは違うんだ。周りの目をちゃんと気にしろ」
「私の世間体を案じてくれているのなら不要だ。なぜなら私は気にしない。しかし、帆高が気にするのなら仕方ないと受け入れざるを得ない」
「……いや、いい」
自分だけが意識していると思って恥ずかしくなった。
瑞希は頷いて、自分の支度を待った。
「連れていきたい場所があるんだ。いろいろと」
そう言って、美術館、公園、カフェ、様々なところに連れて行かれてしまった。その最中、彼女の近況についても知ることができた。
ロンドンでは物価が本当に高いこと、(例えるならラーメン一杯で三千円くらいとのこと)それから天気がコロコロ変わること。学校の先輩が武闘派なこと。武闘派といっても普段は理知的で手放しに尊敬できるらしいのだが、ライバルの先輩と出会うと態度が激変するらしいのだ。ちなみに日本人らしい。
しかし彼女の話のなかに両親の話は出てこなかった。話したくないのか、自然と話にでなかっただけなのか、前者だった場合申し訳ないため、深く聞こうとは思わなかった。
「なぁ、瑞希―――」
「あぁ、そうだ帆高。この先に美味しいクレープ屋があるんだ。奢るから一緒に食べないか?」
「……いや、自分の分は自分で払うよ」
自分は彼女に謝れずにいた。
謝ろうと思っても、言葉が喉の奥に突っかかってなかなか出てこない。魚の骨が喉の奥に突っかかっるように。―――クレープは普通に美味しかった。
「帆高、今日のシメと行こう」
夕焼けに照らされながら彼女が答えた。
脈絡なく、右手の甲が痛んだ。見てみれば赤い痣のようなものがくっきりと浮かび上がっていた。『どこかにぶつけたかな?』と思ったが、気にすることなく瑞希の後を追った。
「普段、一般人は入れるような場所ではないんだが、私が一緒なら大丈夫だ」
―――たぶんと、付け加えて。
「それ本当に入ってもいい場所なの……?」
「問題ない」
ひとしきり歩いたからか、なんとなく筋肉に疲労感を覚えながら進んだ先、そこは自分が飛行機のなかで見た『時計塔』だった。
何やら嫌な気配がするでもない、そんな予感めいたものを感じ取ったせいで顔に出てしまったのか。
「どうした。気分が優れないならやめておくか」
と聞かれた。
「大丈夫」
「そうか」
時計塔の内部に入る前、受付の人に声をかけられて入場許可証の提示を求められた(やっぱり一般の人は入っちゃだめじゃないか)。しかし彼女が同伴者ということと、何やら意味のわからない言葉の羅列を述べて自分は許可証を渡されて通された(なんで?)。
「手間取らせてすまない」
「いやいや、とんでもない」
ふと彼女は何故、自分にここまでしてくれるんだろうと考えた。生まれてこの方、彼女は何をするにしても優秀だ。そんな彼女を讃えるための第一人者としてたまたま近くにいた自分を添えたのか。そんな邪な考えがよぎるが、彼女に限ってそんなことは決してないだろう。ならば何故、という疑問しかない。
「今日は楽しかった。礼を言うよ、帆高」
顔を向けずに彼女の後ろ姿で、自分を先導したまま発言した。
「いや、お礼を言うのこっちのほう。昔に戻ったみたいだった」
「そうか、それならよかった」
「そういえば、なんで自分をロンドンに招待したのさ?」
「……私が逢いたくなったからだ」
足を止めて、瑞希は自分に振り返った。
いつものポーカーフェイス、でも確かに瞳の奥に感情が籠もっていることが見てわかった。
「それってどうい―――」
「ここだ、この窓」
立ち止まったまま回れ右して彼女が指をさす。
「この時間帯の、この位置のロンドンが私の一番好きな場所だ」
階段を数段上がり、どこまでも続く廊下を歩いた先がこのような情景だった。ロンドンの喧騒から隔絶された空間。そこに広がるのは途方もない、彼方まで続く黄昏だった。窓から見下ろす霧の都は沈みゆく太陽の残暑に焼かれて、まるで煤けた羊皮紙のような色に染まっていた。
「………」
確かにこの角度、この配置からでしか見られない迫力がある。瑞希が推すのも納得だった。
太陽が沈み、この時間帯だからかこの建物には人通りが全くない。そして太陽のかわりに夜の帷が降りつつあった。
「瑞希、お前がロンドンに行くと言った日から伝えたかったことがある」
謝罪する。そうして初めて君と対等になれる気がする。
瑞希は目を見開いて、そうして上げるはずのない口角を上げた。
「なんだ」
「自分ずっと……ずっと瑞希……ごめ―――」
― ―― ――― ―― ― ―― ――― ―― ―
お休み、僕の可愛い犠牲者たち。
― ―― ――― ―― ― ―― ――― ―― ―
どこからか声が聞こえた気がした。
その瞬間を自分は目撃できなかったし、定かではない超常の連続で頭の整理もつかないけれど、まず一つ。
………自分の指が空を舞ったのを目撃した。
自分の指。続けざまに何かの間違いだろうと自身の手を見た。右手だ。何もなかった、よかった。何かと見間違えたんだと胸をなで下ろした。次に左手を見た。左手の人さし指と中指がなくなっていた。神経と血管と骨と肉の断面が奇麗に丸見えだ。よかった。よかった―――?
「―――ガァ゙ァ゙ァぁ゙ァ゙ァ゙ァぁ゙ァ゙!?」
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
肉の断面を目撃してから痛みが一息に襲ってきた。指が消えるという初めての恐怖の体験。自分の指が地面を転がるという喪失感。
「指がぁ゙……!俺の指が―――」
「帆高!?」
指が、指が、指が、指が、指が、指が。
一人称すら定まらない痛み。血が噴き出る。地面を赤く染め上げる。深紅に染まった視界の中で廊下に一つの影が差し込んでいた。
「みんっな、みんっな、りんごをたっべようよ。アッカくて丸いリンリンりンご。たっべたらおなかがふくれてさ。おッネムのじかんなの。ベットにむかって―――」
―――ゴー・トゥ・スリープ。
それは“少女”だった。
漂白したかのような病的なまでの白い肌。
喪服を思わせる黒いパーカー。
炎に焦げたような黒髪。
おそらく指を切ったであろうナイフを握って。
「眠る?」
こいつまともじゃない。
直感的に理解した。
刹那、瑞希は自分の指を拾い、蹲っていた自分を抱えて全速力で駆け抜けていった。おそらくずっと、ランニングは続けていたんだろう。
「まさか……まさかまさかまさか―――あり得ない」
何か意味ありげに、彼女は物思いにふけっている。
意味のわからない独り言をぶつぶつと。
「あれは“サーヴァント”だ……。なんで、なんで、なんで!?」
「まってよぉ〜……おねいちゃんおにいちゃん」
少女は歩いてこちらに唄を唄いながら、狂気に染まった眼でこちらを追跡している。
瑞希は自分を傍らに抱えて、一つ空き部屋に入った。しばらく使われていなかったのか、埃っぽい部屋だった。
痛みで苦しむ自分をよそに瑞希が突然、自身の手のひらを噛みちぎった。彼女の血潮がぼとぼとと零れ落ちる。この部屋では既に鉄錆の匂いで充満する。
「瑞希……!?何を―――」
「大丈夫だから」
いつもと変わらぬポーカーフェイス。だけど幾分か慈しむような瞳に見えた。
「きっと大丈夫だから」
覚悟を決めたような彼女は、自身から滴り落ちる血液で地面に何かを描き始めた。急いで描いていても、その何かは一分も経過しないうちにみるみる形を成していき、やがて一つの魔法陣となった。
そしてその魔法陣の中心に『絢爛な装飾のされた短剣』を置いた。自分は何をしているのか、まるっきり分からなかった。こんな事をしている暇ではなく、即座に警察に通報するべきだ。自分はスマホを手に取るがなぜか圏外になっており、電話の使用が不可になっていた。
―――あぁ、これはきっと天罰なんだ。
これが彼女に対する贖罪なんだ。
それが分かったと同時に、必死で血が溢れる指を抑えながら、瑞希を見据えた。
「瑞希……ごめん」
「謝られるような事をされた覚えがないが」
「引っ越しを知ったときから瑞希に辛く当たったこと……ごめん」
「………実を言うと少し傷ついていていた」
彼女からそんな弱気な言葉が出るとは思ってもみなかった。本当に自分が赦せない。
「今はもう気にしていない。今日は楽しかったからな。それで今までの分全部チャラ、なんならお釣りも払っていいくらいだった。今日の私は業突く張りだ」
―――彼女は笑みを溢した。
―――ちょっと救われた気がした。
彼女が魔法陣に手をかざす。
瞬間、彼女を中心に風の奔流が巻き起こる。それは蜃気楼のように揺らいで、摩天楼のように風景が屈折して見える。詠唱が始まる。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公―――」
詠唱は続く。
―――はずだった。
「みぃつけたぁ」
音も気配もなく、足音も風の揺れも、何もかも無反応の静寂と静謐。居るはずがない、在るはずがない。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。なんで自分の目の前にこいつがいるんだ―――!
「お休みなさい」
少女は頬まで裂けんばかり笑みを浮かべて、気がついた時には奴のナイフが瑞希の左胸を穿いていた。―――瑞希が自分の目の前にいた。何故、なぜ、ナゼ?
鈍い音が鳴った。ドッという扉をノックする安易になる音。衣服を切り裂いて、達してはいけない先の領域にまで深々とナイフが穿いていた。なんで、なんで、なんで?
傷口から広がった赫がじわじわと彼女の着る服を染色する。有無を言わせず、刃が引き抜かれた。刃が離れた瞬間、支えを失ったかのように瑞希の身体はバランスを崩して、その場に倒れ込んだ。決定的な結末だけがこの場に刻まれていた。
「―――瑞希?」
瑞希。
「おい、瑞希―――」
瑞希。瑞希。瑞希。
「瑞希。瑞希。瑞希。なあ。瑞希」
瑞希。瑞希。瑞希。瑞希。瑞希。瑞希。瑞希。瑞希。
「お別れのアイサツ―――どーぞ?」
少女の言葉は耳に入らない。自分は倒れた瑞希の体を起こし、自分の身体で支える。彼女の肌に触れて、暖かさが消えていく感覚を実感していく。血は流れていく、どこまでもどこまでも。魔法陣もその中心に置いた短剣も瑞希の血の海に沈んだ。
どこまでも自分の弱さが、脆弱さが、ひ弱さが、頼りなさが、未熟さが―――心の底から死んでくれ。
「―――ぃきて」
彼女の満面の笑みを見たのは、それが最初で最後だった。
赤く塗れた、果実のような、慈愛に満ちた笑みだった。彼女が本当に動かなくなる。完全に脱力しきった体を支えるが腕がだらんと垂れ下がるだけ。垂れ下がるだけなのだ。
「………なあ」
「なぁにぃ?」
「何でなんだ」
「えっとぉ……なにがぁ?」
「何で瑞希を―――殺したんだ」
「“私の生活の一部だから”」
「……は?」
「おにいちゃんだってさ、ナニかたべるじゃん?タべないと生きてけないよね?私のコレはソレと一緒なんだよ。チョウショクをたべ、チュウショクをたべ、ヤショクをたべる、ソレと同じで私の生活の一部なんだよ?おにいちゃん、もしかして私にやめてほしいの。ムリだよそんなの、だっておにいちゃんだってブタさんとかウシさんカワイソウだからたべちゃダメ〜……なんて言われたら、正気を疑うよね?異常だと思うよね?非常だよね?特異だよね?異例だよね?変だよね?それなのにおにいちゃんはたべるよね?ひとつの命を、重さはいっしょのはずなのにさ。何ならさ、サイキンのヒトって“いただきます”とか“ごちそうさま”って言うヒトあんまいないでしょ?その点、私はちゃんとカンシャしながらヒトをころすよ。殺します……と、殺しました……て、ね」
この怪物は自己紹介するように、自分の生活習慣を自己宣告するように言う。帆高は知ってしまう。この怪物を。人の営みを理解しようともせず、独自の理論を相手に押し付けて利己的な自身の殺人欲を正当化する怪人なのだということを。
―――ぃきて。
「殺すのか、自分も」
「うん、おにいちゃんと話してると楽しいけど―――シカタないよね」
「無理だ」
「ムリじゃないよ」
「自分は生きろって言われたんだ。お前を殺すまで死ねるわけないだろ」
「こわぁい」
―――――Anfang.
「………あれ?」
――――――告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
「なにこれ?」
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。
「なんかおかしい……?」
汝三大の言霊を纏う七天。
「おかしいよ―――!」
抑止の輪より来たれ、
「こんなのおかしいじゃないか!?」
天秤の守り手よ―――!
消えたはずの魔法陣は絶えず輝き続けている。
本来ならば、詠唱が終了した時点でこの召喚は失敗に終わるはずだった。なんのイレギュラーか、煌めきが止まることなくこの空間を循環する。消えたはずの魔法陣とリンクするように輝きを放つのは帆高のポケットに入れてあった『携帯レコーダー』と『穿たれた瑞希の心臓』だった。本来の触媒として用意された絢爛な装飾のされた短剣は魔法陣と呼応することはない。帆高はこの事象は知る由もないだろう。光はやがて魔法陣の中央に集約する。物理現象など問題ではなかった“熱”だ。熱がいるのだ。
刹那、響きわたる旋律に驚愕した。
突如として、静寂が微塵も残さずに打ち砕かれたからだ。脳髄の奥底に冷徹で容赦のない金属音。
よく聞き知った、交響曲の残穢。
収束した光が帆高を取り囲む、いや厳密には違った。厳密には帆高の抱える瑞希を中心として、光が乱舞している。やがて光が人の形をなしていく。その光の螺旋が瑞希の胸の奥へと仕舞われていく。まるで元の場所に帰るように。そこはかとない間の後に―――瑞希の目が開く。
世界が静止した。
大気が、空間が、流れる奔流のすべてが、まるで誰も抗えぬ『絶対の鉄則』に支配されたかのように、ピタリと動きを止める。
脳裏を劈くのは、人類の歴史に永劫に刻まれた、あまりにも苛烈で、あまりにも厳かな、運命の扉を叩く四つの金属音。
少女の皮を被った怪人が顔を歪める中、光の霧の向こうから、一人の少女が舞い降りた。
茨の冠を戴いた美しい白髪。ひらひらと夜風に踊る、薔薇の蕾をこれでもかとあしらった鮮烈な深紅のドレス。
彼女がその細い脚を大地へと下ろした瞬間、周囲の地獄は、一瞬で彼女の奏でる『絶対の旋律』へと上書きされた。
少女は、頭につけた金の羽ペン―――否、手に取った次第に世界の終焉を根源から翻す『聖剣』と成りて、アンダンテに優雅に掲げ、絶望に染まっていた帆高の瞳をじっと見つめた。
その姿は、狂おしいほどに苛烈で、美しく。
世界そのものが跪くべき、最高峰の剣聖だから故に至る―――クラス・セイバー。
「眠れ―――!」
彼女を危険因子と判断した怪物はナイフを深く握り、殺意を纏った眼光で獲物を得殺そうとする。
―――しかし、少女ひいては、掲げられた聖剣に凶刃が衝突することはなかった。否、突如として聖剣が黄金の輝きと成る。光の粒子が渦を巻き、大気を黄金の濁流へと変えていく。
「―――開演」
彼女がその言葉を紡いだ瞬間、世界の命理が反転した。………閃光が爆発する。
黄金の輝きが、彼女の手に握られた刃から溢れ出す。星の息吹そのものを集積するかのように、目も眩むほどの光を放つ。
放たれた極光に少女の皮を被った怪物は圧倒的質量に巻き込まれ、光のあまねく中に消えていく。それは究極的な光の断頭台だ。
―――彼女の姿を自分は知っている。
まさしく先ほどまで入江帆高の腕に抱かれていた亡骸だ。
彼女はドレスの裾を上品につまみ、まるで舞台の始まりを告げるプリマドンナのように、帆高の前で深々と一礼してみせた。
そして、世界で最も厳かで、最も可憐な声が、夜の静寂を支配する。
彼女は宝石のような瞳で、何の感情もなく自分を見据えた後。
「問いましょう。貴方が私の指揮者ですか」
凛とした声で、そう言ったんだ。
CLASS:セイバー
マスター:入江帆高
真名:■■■■■■■■■
性別:女性(瑞希の身体)
身長・体重:168cm 54kg(瑞希の身体)
属性:秩序・善
クラス別能力
・対魔力:C
・騎乗:D
保有スキル
・神魔の全奏:B
戦場にあるすべての余剰魔力、敵の放った魔術の残滓を自身の『音律』として強制調和させ、瞬時に霊基の傷を治癒する自給自足スキル。
・■■■■■:EX
現状不明。
・■■■■:A
現状不明。
宝具
■■■■■■■■■
ランク:C++〜■■
種別:対■宝具
レンジ:■■■■
最大捕捉:劇場(便宜上)
現状不明。




