第七話 文化祭と胸のざわめき(7)
一時まで各クラスの模擬店で適当に時間を潰し、吹奏楽部のステージが開始する十分前に体育館に足を運ぶ。所狭しと並べられているパイプ椅子は、保護者や学校見学の中学生、在校生でほとんど埋まっていた。四人並んで座れる場所は無さそうだったので、若葉と日菜子、カナデとわたしの二手に分かれて着席する。カナデの様子はいつも通りで、何かを気にしている様には見えなかった。その姿が、余計にわたしをざわつかせる。カナデは一体何を思って、この場所にいるの。そんなの――わたしに訊く権利なんて、あるはずない。
定刻になり、吹奏楽部の部員たちがステージ上に上がってくる。部員の数は五十人近くいるようで、海浜高校の吹奏楽部より人数が多そうだった。トランペットは後列に並べられ、その中でもほのかは指揮者に近い内側に着席していた。カナデ曰く、一概には言えないけれども、指揮者に近い方から主旋律を担うファーストが着席し、外側になるにつれてハモりを担当するセカンド、サードと座ることが多いらしい。ほのかは、一年生ながらにファーストの譜面を担当するようだった。本当なら、カナデも……あの場所に座っているはずだったんだろう。
指揮を担当する生徒がお辞儀をし、部員たちに対面する。指揮棒が上がると、緊張の糸がぴんと張られたような空気が漂った。指揮棒が下りると、軽快な打楽器で曲が始まる。プログラムに目を落とすと、『宝島』と記載されている。ラテンのリズムから、華やかなメロディーが身体を包んだ。初めての音圧に呑まれ、肌が粟立つ。手にじっとりと汗をかいていて、視線がステージから離せない。曲の途中、一人の男子生徒が立ち上がってサックスのソロを披露する。指揮者と目配せをしながら、伸びやかに演奏をするその姿は、いつかのカナデのように堂々としていた。合奏を真面目に聴くのは初めてだったけれど、こんなに大勢で一つの音楽を創り上げていくなんて……わたしは瞬きをすることも忘れて、ただ舞台に見惚れていた。
サックスのソロが終わったのち、打楽器がリズミカルに曲を奏でていく。身体を揺らして、奏者の“楽しい”という感情が、こちらまで伝わって来るようだった。合わせて身体がリズムを刻みそうになると、トランペットとトロンボーンの生徒たちが、空気を裂いて一斉に立ち上がる。そして、とてつもないスピードでメロディーを演奏し始めた。もちろん、その中にはほのかも含まれている。わたしは固まったまま、その姿を見つめていた。
トランペットの高らかな音が、体育館に響き渡る。わたしがまだ出すことができない、未知の音域。こんな音があの楽器から出るなんて、なんだか信じられなかった。本当にわたしと同じ楽器を吹いているのか、疑問に思ってしまうほどに。どうしたら、あんな音が出るんだろう。なんで……。
曲はあっという間に終盤を迎え、最後まできらきらとした音の名残が会場内を包み込んでいた。指揮者が棒を下ろすと、波のような拍手が部員たちに降り掛かる。音の余韻が、びりびりと肌を伝ってくる。わたしも周りの勢いに呑まれ、大きく手を叩いてしまった。
やっとカナデの姿を横目で見ると、カナデは一瞬、じっと舞台を見つめ、それからふっと微笑んだ。安堵とも感嘆とも取れる表情のまま、静かに手を叩いている。カナデはステージの上のほのかを見て、一体何を思ったんだろう。そんなの……わたしには分かるはずない。
続けて有名なアニメソングや、流行りのポップスの曲が演奏された。奏者も観客も一体となって、楽しげな雰囲気が会場内に満ち溢れている。その後、司会を担当する生徒が「季節外れではありますが」と前置きをした上で、次の曲が始まった。曲名『さくらのうた』。
小さな横笛……ピッコロが、繊細なメロディーを奏でていく。それを優しく包み込むように、他の楽器が音を重ねていた。続けて、柔らかな音色をした一本のトランペットの音が響き渡る。その澄んだ音色に顔を上げると――音の持ち主は、ほのかだった。ほのかの持つ銀色のトランペットが、光を反射して輝いた。
春の穏やかな空気の中で、満開の桜がひらひらと舞い散っている。静かで優しい曲調は次第に盛り上がっていき、いつしか桜の花びらは大きな渦となって観客たちを呑み込んでいく。温かく、それでいて芯のある音。この音が、ほのかの音だった。華やかで堂々とした音を奏でるカナデの音とは、明らかに対照的。
ほのかのトランペットが、一枚の花びらのように空間に舞った。力強くはない。それでも、春の風のように柔らかく、温かく、聴く者の心にそっと降り積もる。繊細で柔らかく、優しい。
この音色はきっと、カナデの音を支えるために築き上げられたものなのだろう。そう思うと、胸の奥で沈んでいた鉛が、そっと重さを増していく。わたしは呆然として、ほのかの姿から目を離すことができなかった。
その後も何曲か演奏が続き、舞台は一時間ほどで幕を下ろした。圧巻の演奏で、部員たちがお辞儀をした後も、拍手は鳴り止まなかった。心地良い汗が身体を流れているようで、頬が少しだけ熱をもつ。これが、吹奏楽。
「……楽しかったなら、ミナも今から吹部に入ってみたら? 技術的には、全然やっていけると思うよ」
拍手をしながら、カナデがこんなことを言い出した。冗談かと思ったけど、その口元は笑っていなくて、どうやら真面目に言っているようだった。その表情に、なんだか胸がざわついた。
「……まさか。わたしは今、カナデと吹くだけで十分だよ」
「そう? それなら、良いんだけど」
手を叩いているカナデの口元が、ふわりと緩んだ。今この瞬間――カナデの瞳には、ほのかではなくて、わたしが映っている。そのことが、少しだけ……嬉しい。でも、その視線がいつかまた別の誰かへ向かうことを考えると、少しだけ怖かった。確かに、色々な楽器が集まって、一つの音楽が完成する吹奏楽はとても魅力的だと思った。もしカナデと出会っていなくて、楽器だけ吹けていたら……わたしは吹奏楽部に入ることを選ぶのかもしれない。だけど……それでも今のわたしにとって、カナデと並んで音を重ねていく、あの静かで穏やかな時間が、何より貴重で大切なものだった。だから、わたしはこのままカナデと一緒にいたい。吹奏楽部に入る気なんてさらさら無い。まだ全然、自信なんかないけれど……それでも、今はこの席に座って、カナデの隣にいることが――わたしの答えなんだと思っていた。