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第五話 金色と銀色の別れ(3)

 彼女が連れてきたのは、駅前のドーナツ店だった。ショーケースの前で迷うことなく苺ドーナツを二種類――もちもちのものと、カスタード入りのをトングで掴むその仕草に、無意識に見入ってしまう。


 可愛い子は、やっぱり可愛いものが似合うんだな。そう思って、わたしも空気を読みながら蜂蜜味のチュロスドーナツをトレイに載せた。その様子をちらりと見た彼女が、微笑む。


「ふふっ……それ、美味しいですよね。私も好きです」


 その笑顔は、眩しいくらいに優しくて、何の曇りもないように見えた。でも――わたしはふと、彼女の指がほんの少しだけ強張っていることに気づいてしまった。


 年の近い相手に奢られるのは気が引けたけれど、レジの前で「奢らせてください!」と何度も頭を下げられたら断れない。その声もまた、どこか――必死さを隠しきれていなかった。圧に負けて、ドーナツとアイスココアをご馳走になる。彼女はピンクのドーナツ二つとミルクティーを注文し、奥の二人席へ移動した。ソファー席を迷いなく譲ってくれるその気配りに、「やっぱりこの人は、いい子なんだな」と思った。


「突然誘ってしまって、ごめんなさい。私、東高の天台ほのかっていいます。奏とは、小中が一緒で……」


 ミルクティーを口に含みながら、ほのかはそう名乗った。優しい声だった。けれど、その言葉の端々に、何かが張り詰めていた。


 続けようとした言葉が喉に詰まったように、ほのかの口がわずかに震える。それでも無理に笑おうとするみたいに、そっと視線を上げてきた。大きな瞳が揺れていて、わたしは思わず掌をぎゅっと握りしめる。


「あなたは、奏の……高校のお友達で、いいんでしょうか」


 高校のお友達――その言葉が、妙に区切るように響いた。その言葉に、一瞬だけ息が止まる。わたしはほのかの澄んだ目を静かに見据えて、頷いた。


「……わたしは海浜高の、春日美奈です。カナデとはクラスは違うけど、同じ高校で……」


「そっか、奏……。海浜に、行ってたんだ……」


 ほのかの笑顔が、ぴきりと音を立てて小さくひび割れるようだった。唇がわずかに引きつって、目元だけが笑っていない。それは、まるで――置いていかれた人の顔だった。


 同じ中学だったというのに、カナデの進学先すら知らなかったなんて。知らなかったのか、聞けなかったのか――どちらにしても、その事実がほのかを傷つけているのは明らかだった。彼女は伏し目がちに、小さく吐息を落とす。


「奏、中三の途中から学校に来なくなっちゃって……。私、最後まで会えなくて……。一緒に東高受けようって言ってたんだけど、いなくて……」


 ぽつりぽつりと、言葉が落ちていく。そのたびに、ほのかの声がかすれていく。


「奏……。海浜、受けてたんだね……」


 そのつぶやきが、胸に突き刺さる。考え過ぎかもしれないけれど、まるで、「見失ったはずの誰かを、別の誰かが見つけていた」みたいな――そんな、静かな絶望の匂いがした。


 わたしは息を呑む。東高は、県内でも屈指の進学校だ。東高に行けば大半の生徒が難関大にストレート合格できるという噂もあるくらい、勉強のできる生徒が集まっている。そのうえ部活動も盛んな、紛うことなき文武両道校。海浜高と偏差値にして、十は違う。海浜高もいわゆる自称進学校だけど、東高との間には深くて大きな溝がある。


 その東高に行くはずだったカナデが――中学校に行かなくなって、いつの間にか、わたしの隣にいた。息が止まって、背筋がすっと冷たくなる。いつか若葉が言っていた、カナデは入試も首席だし、最近のテストも一位だという、そんな噂を思い出した。


 そんなの、知らなかった。そんな過去があったなんて、想像すらできなかった。だけど今、目の前のこの子が教えてくれる。わたしの知らないカナデが、確かに存在していたことを――痛みと一緒に伝えているようだった。


「……奏とは、小学校の音楽クラブで知り合って。当時から一緒に、トランペットを吹いていたの」


 ほのかの声は、最初より少しだけ和らいでいた。けれどその口調は、どこか自分に言い聞かせるような響きだった。


「このトランペットも、昔、奏と一緒に買いに行って……色違いなんだ」


 ほのかは横に置いていた楽器ケースを膝の上にそっと乗せ、静かに蓋を開けた。中に収められていたのは、銀色のトランペット。少し年季の入ったケースに反して、楽器本体はきらきらと眩しいほどに輝いている。わたしの隣に置かれている金色のトランペットと、形もサイズも、まるで双子のようだった。


 ――この楽器は……。わたしが借りているこのトランペットは、カナデがほのかと一緒に選んだ「思い出の相棒」だったんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。わたしなんかが、そんなものを、当たり前のように持っていていいの? ほのかの隣にいるはずだった金色を、わたしは毎日、当然の顔で抱えて歩いている。答えの出ない問いが胸を占めて、視線が自然と伏せられる。


「……奏、さっきトランペット背負ってたね。ふたりは……吹奏楽部に入っているの?」


「いえ……わたしたち、吹部には入ってなくて……。カナデが個人的に、わたしに楽器を教えてくれてるだけで……。この楽器も、カナデのだし……」


 声が早口になってしまうのが、自分でも分かる。まるで言い訳のような響きに、後ろめたさがこみ上げてくる。だけど、ほのかは――怒るでも、否定するでもなく、静かに笑った。


「そっか……。奏がトランペットを続けてくれていて……良かった」


 その一言に、ほんの僅かな震えが混じっていた。茶色がかった大きな瞳が、店内の灯を反射して濡れている。ほのかはゆっくりと胸元に手を当て、何かをなだめるように、そっと撫で下ろした。ほんの少し、救われたようなその仕草に、逆に胸が締め付けられる。


 不登校だった過去。かつての親友。思い出の楽器。進学の約束。そして、あの逃げるような背中――。わたしの中で、それらが一つにつながろうとしていた。


 テーブルの下で、指先がかすかに震える。わたしは震えを隠すように、湿った掌を握りしめた。息を吸って、心を決める。


「あの……昔……カナデに、何があったの?」


 そう言ってから、自分でも驚くほど、声が真っ直ぐだった。


 知ることは、怖い。今まで見ていたカナデが、変わってしまうかもしれない。でも――それでも。わたしはカナデの過去を知らないまま、そばにいることはできない。それくらい、松波奏という女の子にちゃんと向き合いたいと思ってしまった。


 ほのかの瞳が、少しだけ見開かれた。でもすぐにその表情を整えて、いつものように微笑む。だけど、その笑顔の奥にあるものが、今ははっきりと分かる。


 ああ、この子もまた、覚悟してるんだ。


 細い喉がミルクティーを一口含んで、上下する。カップが丁寧にソーサーへ戻される音が、やけに大きく響いた。開かれた唇が、静かに、わたしの知らないカナデを語り始める。



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