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第一話 金色の色と灰色のわたし(1)

 改札を抜けた瞬間、頭上で発車メロディが鳴り響く。間に合わない。茶色いローファーが、気づけば速度を落としていた。八時七分の電車を逃したわたしに、始業に間に合うバスはもう残されていない。


 重たい脚を引きずるように、鉛色の階段を一段ずつ上がる。肩にかけた学生鞄が、ため息を吐くように揺れていた。そんな中で、慌ただしく階段を下っていく学生の群れとすれ違う。軽い足取りで談笑するその姿を横目に、わたしは一つ息を吐いた。笑い声とざわめきが響き合い、楽しげな輪の外にいる自分が――別の世界の住人のようだった。


 どうして、こんなに違うんだろう。


 ホームにたどり着くと、どこかひんやりした朝の空気が肌を撫でる。まだ少し眠たげな太陽の光を浴びながら、古びた黄色いベンチに腰掛けた。二回折りをしたスカートから伸びた脚に、冷ややかなプラスチックの感触が伝わってくる。


 次の電車は、十分後。身体に溜まっていた空気を吐き出して、革製の鞄からスマートフォンを取り出した。少し使っただけの鞄は所々傷が付いていて、もうすっかりくたびれているように見えた。


 ホームに滑り込んできた八時十七分の電車に乗り込み、高校の最寄り駅できちんと下車する。ラッシュを過ぎた駅は少しずつ落ち着きを取り戻し、普段は学生で溢れかえっているバス停前も、今日はお年寄りが数人、ぽつぽつと立っているだけだった。その後ろに並んでいると、ブレザーに入れていたスマートフォンが小刻みに震える。


 教室に姿を見せないわたしを心配した、クラスメイトからの連絡だった。吹き出しを眺めながら文字を打ち込んで、しばらく指を止める。


 なんか……ちょっと、違うかも。


 書き直し、嘘の言い訳と猫のごめんねスタンプを添えて送信する。すぐに既読の文字が付き、『了解!』とスタンプが返ってきた。話が落ち着いたことを確認し、ため息と共に画面を落とす。


 これからも、こんなやり取りは何度も続いていくのだろう。ちょっとだけ苦笑して、わたしは細く息を吐く。


 ……大丈夫。わたしは今日も、うまくやっていけるはず。


 たまたま同じクラスになって、なんとなく一緒にいるクラスメイト。移動教室も一緒で、気怠い昼休みにどうでもいいような話をして――ひとりぼっちにならないように、その場しのぎで作られた、表面上の関係。


 浮かないためには、周りに合わせることが大切だ。一人で居ると笑われる、憐れまれる。それよりも、適当な誰かといる方が、きっといい。


 知り合ってもうすぐ三ヶ月になるけれど、毎日一緒にいる彼女たちのことは――未だによく分からない。上滑りするような会話をして、いつもわたしは頷いている。それでも彼女たちは、満足そうに笑っていた。


 今年は、こんな関係が続くのだろう。そして学年が変わった瞬間、その絆は緩く結ばれた糸のように――はらはらと解けてしまうんだろう。


 春が来て、また誰かと適当な関係を紡いでいく。わたしの人生における人間関係なんて、きっとそんなことの繰り返しだ。


 到着したバスに乗り込み、がらんとした車内の二人席を陣取る。鞄を隣に置いて顔を上げると、視界の端に――どこか不思議な存在が、突然滑り込んできた。


 制服をラフに着崩した女の子が、バスの扉にもたれかかって立っている。同じ学校の制服。知らない人。でも、どこか雰囲気が違う。遅刻確定のはずなのに彼女は平然としていて、大きなヘッドホンで耳を塞いでいた。だらんと伸びた片手が、リズムを取るように小さく揺れている。


 ショートカットの黒い髪が朝の光を受けて、さらさらと揺れる。すらりとした体型に、背中には大きなケース――黒くて艶やかな、プラスチック製の何か。中身に合わせて少しだけ膨らんでいて、その形から、きっと楽器なんだろう。


 その姿に、目を奪われていた。なぜだかは分からないけれど、ただ、瞬間的に惹かれていた。まるで、呼吸を忘れるような感覚だった。


 わたしと同じ制服を着ているのに――どうしてあんなに自由で、どうしてあんなに自分を持っているように見えるんだろう。


 何かを持っている人だ、と思った。それは、わたしにはないもの。


 光を纏ったような、強さ。まぶしさ。ちょっと格好いいなんて、そんな軽い言葉じゃ足りなかった。羨ましくて、少し苦しい。見てはいけないものに触れてしまったような――それでも目が、離せない。わたしは息を潜めるようにして、その背中を見つめ続けた。


 バスは揺れもせず、静かに高校前のバス停へ到着した。辺りは海が近いからか、途端に潮の匂いが鼻につく。降りたのは、わたしと――その子だけだった。


 先を歩く彼女は校門の先にある校舎をちらりと一瞥しただけで、大きくひとつ、あくびをした。そして、迷いなく門を素通りして歩き出す。


「えっ……」


 わたしの口から漏れた声は、小さすぎて自分にしか聞こえなかった。彼女はまるで、初めからそこへ行くことが決まっていたかのように、淡々と歩道を進んでいく。靴紐のほどけかけたスニーカーが地面を擦るたび、リズミカルな音を立てていた。


 高校の入り口は、こっちなのに。そんなこと、分かっていないはずがない。


 堂々としたその後ろ姿に、わたしは足を止めたまま、ただ呆然と見惚れていた。まるで、別の物語を生きている人みたいだ。違う世界の人。わたしの灰色の景色とは、まったく違う色を持っている。


 その時、胸の奥で何かがかすかに跳ねた。


 退屈な日常に、何かを――自分でも気づかない何かを、求めていたのかもしれない。


 気づけば、わたしの足は勝手に動き出していた。好奇心というには熱すぎる衝動に突き動かされて、そろり、そろりと、彼女の背中を追いかけていた。


 ――どこに行くんだろう。


 高校前の通りを歩きながら、彼女は制服のネクタイを外し、藍色のブレザーを脱ぎ、肩に掛けたぺちゃんこのスクールバッグに突っ込んだ。制服の個性が表れるこの二点を外してしまえば、通っている学校を特定することは難しい。きっとサボりの常習犯だと思いながら、その背中を追いかける。


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