第166話 オリーブの誘い
アルスは微睡みの中に居た。珍しい事に、自分自身が寝ているという自覚がある。ただ、記憶の中の自分は、寒さに震えていたはずだ。それが今や、心も身体も穏やかだった。その事に強烈な違和感を覚えるアルス。
(どうして、僕は寒さを感じていたんだっけ……? そうだ! あの、ビネガーとかいう人に、いきなり水を掛けられて、それで……!)
呼び覚まされた記憶が、急激に意識を覚醒させる。そして、重い瞼を強引に開きに掛かる。だが、低体温により弱められた肉体は、未だ睡眠を欲していた。ゆえに、更なる眠りに就く為、瞼を閉じたままにしようとする。一方、意識の方は寒気がなくなった理由が気になって仕方がない。アルスの身体の中で、身体と意識が凌ぎを削る。そして、勝ったのは意識の方であった。
アルスがゆっくりと瞳を開く。
飛び込んできたのは、暖色とも言える橙色の光。その光が、部屋中を明るく照らしていた。
温かみを感じるのは、きっとこれに違いない。アルスはそう断定付けると、熱の発生源を求め、視界を巡らす。
自分はどうやら、まだ牢屋に閉じ込められたままらしい。夢であって欲しいと願っていたが、悪夢は現実の物であったようだ。そして、更に視界を巡らせた先、壁を背にするように一人の女性が、座ったままの状態で眠りに就いていた……。
そして、彼女が座る位置から離れた場所に、くべられた薪から立ち昇る炎の存在を視界に収める。部屋の中が暖かいと感じたのはどうやらこれらしい。
(そうだ! 僕は、この人を知っている。この人は、最後まで僕を庇っていてくれた人だ!)
アルスは具に観察しようと思ったのか、上半身を起こしに掛かる。すると、その行動に伴い、幾重にも重ねられた毛布が、重力に従いはらりと捲れる。
(こんなにも沢山の毛布まで……)
アルスは、オリーブの心遣いに目頭の奥が熱くなる。きっと、オリーブがアルスに対しここまで色々と気遣ってくれるのは、オリーブの独断であろう。ゆえに、今回の行動の事を知られれば、お叱りを受けても不思議ではないとすら思える。その事に気付いた時、目頭だけでなく、心の奥底まで温かみに包まれる。
そして、溢れる想いは自然と口を開かせていた。
「お姉さん、お姉さん」
アルスは、壁にもたれ眠りに就くオリーブに優しく声を掛ける。
(何度か声を掛けても起きないようであれば、そのまま眠りに就かせていた方が良いのかもしれない。きっとお姉さんも仕事で疲れているんだろうから……)
そう思ったのも束の間、声を掛けた対象であるオリーブが、ゆっくりとその瞳を開く。
「あっ! 私、いつのまにか眠って……。アルス君、起きたのね。どう? 体調とか悪くなってたりしてない?」
「うん。今は大丈夫みたい。お姉さんが、火を焚いてくれたり、幾重にも毛布を掛けてくれたお陰だと思う。お姉さん、本当にありがとう」
「いえ。私は礼を言われる筋合いはないの。アルス君、ここで起きたであろう事にはある程度推察が出来ています。きっと、枢機卿は貴方に口を開かせる為に、水を用いたのでしょう。その小さな身体では耐えるだけでも相当な苦労を強いられたはず。同じく教会に勤める者として、一言詫びを入れさせて頂だい。アルス君、本当にごめんなさい」
オリーブは、そう口にすると、座ったままの状態ではあるが、深々と頭を下げる。アルスは、オリーブの行動を視界に収めるや、返信とばかりに何度も何度も首を振る事で回答とした。
「アルス君、謝って直ぐに伝えるのは、私も気が引けるのだけれど……。私には、枢機卿の行動を止める術がないの……。なので、貴方が口を割らない限り、今日みたいな責め苦は明日以降も続けて行わえれるはずよ。私としても、アルス君がそんな事をされるのは本意ではないの。だから、教えて頂戴。アルス君、貴方が水晶玉に触れた時の、あの光……。あの光の意味は何?」
「それは……」
アルスは、オリーブの優しい声音に誘われ、思わず本当の事を告げそうになる。だが、思いがけず自分が真実を語ろうとしている事に気付くと、慌てて頭を振る。そして、次いで口から溢れた言葉は今まで同様、真実を包み隠した言葉だった。
「それは、僕にも分からないんだ……。でも、一つだけ分かっている事がある。お姉さん、僕は火の精霊師だよ! お姉さんにも実際にして見せたでしょう?」
「そうね……。私はこの目で、貴方が『火の玉』を繰り出す様をハッキリと目にしました。でも、枢機卿は貴方の言葉を信じないでしょう。貴方が火の精霊師でなく、別の言葉を口にするまで、納得はしないでしょうね……」
「そんなの、僕には関係ない!!!」
「そうね。確かに貴方には関係ない。でもね、アルス君。それが世界なの。強い者が弱い者を牛耳る、今はそんな世界なの。私もこんな世界はイヤ! 誰もが優しい世界を夢見ている。でも、これが現実なの……。貴方が本当の事を口にしない限り、枢機卿は明日も貴方を痛めつけるでしょう」
「本当の事だって!? つまりは、お姉さんも僕の事を信じてくれていないんじゃないか!!!」
「ええ、そうよ。私は貴方には、何か不思議な力があるのではないかと期待している。そして、その力でもって、今のこの世の中を変えてくれると期待している。それ程までに、私自身もこの世界が清く正しいものである世界である事を欲しているの! だから、私は貴方に期待を寄せる。もしかしたら、あの光の本当の意味など無いのかもしれない。でも、私はあの光に光明を見い出した! 他の人が、私のようにあの光に何かを期待するかもしれない! 貴方に世界を変えて欲しいと願うかもしれない! そう思えてしまえる程、今のこの世界は酷く歪んでいるのよ。アルス君、私に力を貸して! 共にこの世界を変えて行きましょう!」
オリーブは全身全霊でもって、アルスに訴えかける。
オリーブには、未だアルスが六属性を扱える人間であるなどとは露ほどにも思ってすらいない。当然ながら、幼精(精霊)の声を聞き届けられる存在であるとも思ってすらいない。
だが、オリーブはアルスには何かしらの力があると確信していた。そして、その力は世の中の為、正しく使われるべきだとアルスに説いた。
共に世界を変える……。つまりは、アルス自身も教会に席を置くべきであると誘っているのであった。
オリーブの情熱的な言葉を最後に、暫しこの場に沈黙が訪れる。
時々爆ぜる火の粉が、この場の唯一の音と化す。
「…………僕は、火の精霊師だ」
「そう……。それが、貴方の答えなのね。判ったわ。明日以降も、枢機卿の拷問の日々が続くでしょう。私もいつまでも貴方に優しくしてあげられる訳ではない。これが最後の機会だった……。今日、私の誘いを断った事。きっと後悔する事になるでしょう」
オリーブはそうアルスに告げると、静かに瞳を伏せる。そして、アルスの姿を視界に収めないまま、スッと静かに立ち上がると、鉄格子の方へと歩みを進める。
そして、黙ったまま、内扉の鍵を開け、自身の身体を滑り込ませると、再び鍵を掛ける。同様の手順で外扉も抜けていった。
そして、オリーブは瞳を伏せたまま、一階へと上がる為の階段の方へと黙って歩みを進める。
アルスはオリーブの行動に、憤りを感じていた。
(この彼女は何を言っているんだ! 一体なにを言っているんだ! 最後の機会だって!? そんな訳ないじゃないか! だって……。だって……)
アルスは沸々と湧き上がる怒りを抱えたまま駆け出すと、自分自身をこの場に閉じ込める鉄格子を掴み、静かに出ていこうとしているその彼女の背中に向け叫ぶ。
「明日は、お父さんとお母さんが、僕を迎えに来てくれるんじゃないか!!!!」
オリーブはアルスの叫びに、足を止める。そして、少しだけ顔を横に向けると告げる。
「いいえ。そうはならないわ……。確かに明日、貴方の家族がこの場に迎えに訪れるでしょう。でも、貴方は家族とは会えず仕舞いよ。残念だわ……」
「何を言っているんだ! お姉さん、何を言っているんだよ! 明日、迎えに来てくれるんだ! だから、僕は明日になれば、ここから出られるんだ! 出られるんだ! 出られるんだよーーーー!!!!」
だが、オリーブがアルスの再びの叫び声に足を止める事すら無かったのであった……。




