第153話 いつもと違う朝
「アルス様!!!」
寝ていたベティスが、自分の叫び声と共に起き上がる。その瞬間、ベティスは自分が夢を見ていたのだと自覚するものの、もう既に観ていた夢の内容すらあやふやだった。ただ、観ていた夢はお世辞にも良い夢とは言えないのだろう。起き上がったベティスの全身には鳥肌が立ち、吸血姫の証とも言える背中の羽はピンと張りつめていた……。
「はっ! そうだ! アルス様は!?」
ベティスは、バッというような効果音が付く程の勢いで、自身の右隣を確認する。だが、そこにアルスの寝姿はない。
共に眠る時、アルスの左隣がベティスの定位置だった。
ある日は、アルスの胸に顔を近づけて眠ったり、ある日は、アルスに背中を向け、背中にアルスのぬくもりを感じたり……。と、日によって寝方は様々であるが、絶対変わらないもの。それが、アルスの左隣で眠るのが、ベティスの定位置だという事。
だが、起き上がったベティスの右隣は、もぬけの殻であった。
いつもなら、アルスのぬくもりを身近に感じ取れるようベッドへと赴く前に、『変身魔法』を予め唱えておくのだが、昨夜はアルスが不在という事もあり、『変身魔法』を掛けぬまま眠りに就いたベティス。そのいつもと違う行動が、更に違和感を増幅させる。
昨日起こった出来事こそ、夢であって欲しいと願ったのに、夢でなかった事に悲しみが込み上げる。それでも、朝を迎えた。それでも、朝を迎えたのだ。今日は、教会にアルスを迎えに行ける!
その事を思い出したベティスは、眠気眼ではあるが、勢いよく毛布を剝ぎ取ると、寝間着姿のままリビングへと顔を出す為、駆け出していった。
リビングへと顔を出すと、もう既に全員が起きていた。
いつもなら調理をするのが、おば様。その後ろで、ニッキが食材に合う食器を用意しつつ、使い終わった調理器具を洗う。そして、ベティスが二人の合間を縫うように、パンをトースターへとセットする。
もちろん、焼きあがったトーストは、アルスの為に用意するトーストだ。この焼き上がったアツアツのトーストに、バターを添えるのがアルスのお気に入りだ。出来れば、アルスが食す朝食はベティスが全て用意したいのだが、ベティスに出来る事は、まだこれだけなのであった。
だが、いつもの朝の風景とは違い、今日はニッキが一人で、朝食を切り盛りしていた。
「ベティスお嬢様、おはようございます」
ベティスの所在に気付いたニッキが、朝の挨拶を行う。
「ええ。ニッキ、おはよう」
ベティスはいつもの要領で、パンをトースターへとセットする。だが、今回用意するトーストは、ベティスが自分で食べる事になるだろう。ニッキも、ベティスがトーストを用意しようとしている事には気付いた筈だが、特に何を言うでもない。
もちろん、それはニッキの優しさゆえであった。『ベティスお嬢様、本日はアルス様はご不在です』などと言おうものなら、ベティスの胸には、またしても悲しみが込み上げる事になるだろう。
ゆえに、ベティスがいつも通りの行動を取る可能性を見越して、ニッキは敢えて一人分トーストを用意しないようにしていたのだった。
朝食の準備が終わった事で、皆で朝の食卓を囲む。だが、そこに流れる空気は重苦しいものであった。
誰一人言葉を交わす事無く、食器にナイフとフォークが触れ合う音だけが、静かに音を奏でる。
後ろ手に未だ手錠をされているマーレは、自分で食す事も叶わぬ為、マーレが食べるペースに合わせ、ニッキが口元へと食材を運んでいった。ニッキ自身が食べるのは、この後時間を見繕って食べる時間を設けるのであろう。
皆が、食事を済ませた事を確認すると、ニッキは食器の片付けを始める。重ね合わせた食器を纏めてシンクへと放り込むと、洗い物は後回しにして、皆に食後の紅茶を用意するべく立ち回る。
予め温めておいたティーセットを湯の中から取り出すと、ワゴンへと乗せる。茶葉の蒸れタイミングを見極めると、皆に振舞うべく食卓へと運んでいった。
そして、ニッキが用意した紅茶を飲み、人心地ついた所で、ゼストが口を開く。
「今日、アルスを教会へと迎えに赴く訳だが……。人選としては誰が行く?」
後ろ手にされた手錠を解除して貰う必要がある為、マーレが行く事は確定。ゼストとしても、愛息子の迎えに赴きたい所ではあるが、ゼストは弓兵としての役目がある為、赴く事は得策とは言えない。他に誰か一緒に赴くかという事であった。
「はい! わたくしも共に参ります!」
ゼストの質問に、ベティスが勢いよく手を挙げると、名乗り出る。
だが、これは他の面々からすると予想通りの反応であった。ベティスは、アルスの迎えに赴くといって聞かないだろうと……。そして、その説得は一筋縄ではいかない事も覚悟していた。その事が予め頭にあるだけに、食事時は重苦しい雰囲気が流れていたのである。
やはり、こうなるか……。と、グロックは嘆息気味に息を吐き出すと、ベティスの説得をするべく声を掛ける。
「ベティスや、それは無理な話じゃ……」
「どうして!? どうしてですの! お爺様!!!」
「ベティスや、お主は今や吸血姫じゃ。言わば、その存在は教会に取っての天敵とも言える存在。今は、精霊女王様から授かった魔法でもって、その姿を偽れるようになっておるが、それも確実とは言い切れん。お主の気持ち如何によっては、吸血姫である事が明るみにでる可能性が付きまとう。ベティスや、無理を強いてすまぬが、堪えてくれ」
「嫌です! 嫌ったら、嫌! いつもいつも、お爺様はわたくしに、あれは駄目、これは駄目と申すばかり!!! 皆で、森へと赴いた時もそうです。わたくしでは足手まといになるからと、その場に取り残されました。だから、わたくしは力を求めたのです! そうです! 吸血姫となる事を望んだのは、わたくし自身なのです! 足でまといになるから力を望んだというのに、今度は吸血姫であるから自重せよと言われる。挙句の果てには、身分が違うからアルス様とは、別の初等部に通う事を余儀なくされる始末! わたくしは、わたくしは、どうすれば良いのですか!? どうすれば、アルス様と共に居られるようになるのですか!? お爺様! おじ様! おば様! ニッキ! わたくしに……。わたくしに教えてよ!!!!」
と、両手を思いっきり食卓へと打ち付ける。それにより、浮かび上がるティーセット。中には、浮かび上がった事で倒れてしまい、ティーカップの中の紅茶が、食卓へと流れ出る物もあった。
以前、エマール家にて、ベティスのアルスを想う気持ちが、深すぎる事を危険視していたヨーク。その気持ちを抑える為、ベティスを軟禁した訳であるが、それでもベティスがアルスを想う気持ちを抑える事が出来なかった。
アルスと生活を共にし、ベティスの幸福感は満たされていた訳であるが、初等部進学を身近に控え、不安な気持ちが徐々に表面化する。
そして、昨夜はアルスが不在……。今日になったらなったで、アルスのお迎えに赴く事も否定される始末。
ベティスの心の中で、アルスが居ない事での寂しさと、溜まりに溜まった怒りが、行き場を無くし、遂に……爆発する!
『もう、イヤだーーーーーーーーー!!!!!!!!』
ベティスは身体の前で握り拳を作り、力を込めると、顎を持ち上げ、叫び声へと共に全身から魔力を放出する。全身から放出された魔力は、その勢いを表すように、ベティスの栗色の髪を靡かせる。
更に、背中の羽を目一杯広げると、自分の力を見せつけるが如く、浮き始めるベティスの身体。
そして、顎を引き、この場に居る全員を睥睨する。
そして、その瞳は、茶色から赤へと、明転を繰り返していた。
「こりゃ、マズイ! ベティス、落ち着くんじゃ!」
「ベティスちゃん、堪えるんだ!」
「ベティスちゃん! 早まっては駄目!」
「ベティスお嬢様!」
皆が制止の言葉を口にするものの、ベティスの耳に届いている気すらしない。
皆の声が届かぬベティスが、人差し指と親指で輪っかを作る。そして、それを口元へと近づけていく。
ベティスがこれから取るであろう行動を察したグロックが、ニッキに向け叫ぶ!
「やむを得ん!!! ニッキ、魔法じゃ!」
「は、はい! 『睡眠』!!!!」
ベティスの怒りと、ニッキの水魔法『睡眠』が、ベティスの身体の中で鎬を削る。
ベティスが眠りに就くまで、何度も何度も『睡眠』を唱えるニッキ。その様子を、グロック、ゼスト、マーレの三人が見守る。
マーレが後ろ手に魔封石をされてさえいなければ、ニッキを手助けする為に、共に『睡眠』を唱えたのだが、魔法を封じられてしまっている今、見守る事しか出来ない事がもどかしい。
そんなもどかしい気持ちをマーレが抱いてる横で、ニッキが必死に何度も『睡眠』を唱える。
ニッキの魔力は持つのか? ベティスはまだ眠らないのか!?
そう思った矢先、ふいにベティスの身体が傾く。そして、意識を失った事を証明するが如く、その身体は自由落下を始める。
ベティスの身体が落下し始めた事に気付いたゼスト。ただ、ゼストとベティスとの間には、隔てるように食卓がある。
ゼストは、両手でもって食卓を弾き飛ばすと、ベティスが落下するであろう床へと、全身を用いて飛び込んだ
間一髪、ベティスの身体を守り抜くゼスト。ただ、周りを見渡せば、食卓は倒れ、割れたティーセットが床へと散乱していた。
ただ、そんな惨状の事など知る由もないベティスが、ゼストの腕の中、すやすやと寝息を立てているのだった。




