昼食は遠くなりけり
「でもねえ、いくらおっとりしてるからって、いきなり後ろから襲われたら、もう少し抵抗しなきゃだめやよ。叔母さん心配やちゃ」
忙しないギアチェンジで、男勝りなマニュアル運転を見せる叔母が、信号待ちの合間に頬をついてしみじみと指摘する。
暴漢の自覚はあったんですねと、葵も驚きの表情で叔母を見やるが、やはり口にはしない。
しかし、叔母の言うことももっともで、いざと言うときあれほど不甲斐ない自分に、葵自身も失望した。なにが『ふぃ』だ。言葉がでないなら、せめてブザーぐらい鳴らせと、頭の片隅をよぎりもしなかった、コートのポケットに突っ込んだままの防犯ブザーを憎々しく握りしめた。
「そうだ……、これ……、母が渡せって……」
膝に抱きかかえていた手土産をおずおずと叔母に差し出す。もちろん運転中だから受け取れないが、「まあ」と大袈裟に叔母が喜んで見せた。
「これは気を遣わせて、気の毒に」
「ええ、まあ……」
今日初めて言葉のキャチボールができたと思えたが、どうもそうではないようで、叔母はどっと噴き出した。
「ごめん、ごめん。
『気の毒に』はこっちの方言でありがとうって意味なんだけど、葵ちゃんの場合は、本当の意味での気の毒にだったね」
そうだった。紛らわしい方言だなと、葵も苦笑する。母親が時折漏らすお国言葉で、ある程度は富山弁を分かっているつもりだったが、やはりバイリンガルとはいかない。余談ではあるが、逆に東京での生活で、葵は方言とは知らず使ってしまい、恥をかいたこともある。『いじくらしい』は富山弁で『うざったい』と言う意味だが、ついつい東京で使ってしまい、「なにそれ?いじめくらってるらしい?なんで曖昧なの?」とからかわれ、余計にいじくらしくなるのだった。
なお、今更ながらだが、叔母の名は節子という。髪を一つにまとめ、黒のブルゾンにデニムパンツと飾り気ない姿は、実に男らしい。もちろん化粧も最低限のたしなみ程度でしかしていないのだが、もともとの色白の肌のおかげか、実年齢よりかは随分若くみられることが多い。葵の母親の実家へと嫁いでからは、こうして家業を手伝っている。
祖父のもともとの商売は布団の卸だったらしいが、今は手広く展開して、旅館、ホテルで入用な備品はほとんどを取り扱っている。
今も軽トラックの屋根付きの荷台には、物干し竿やら懐石用の御膳やらが所狭しと載せられており、これから一件一件納品に廻るのだろう。葵の荷物もその端に押し込んでいるが、誤ってホテルに納品しないだろうかと、その場合私は冬休みの間ずっと雪国をワンピースで過ごす羽目になるのだろうかとドキドキする葵だった。
従業員は祖父、叔父、叔母の他は数名を雇う程度だが、事業は割とうまくいっているらしく、羽振りはいい。そのため、『夕飯はご馳走』には葵も大いに期待しており、自分を追い出した姉へ食事を自慢することが、一矢報いる唯一の方法と心得ていた。
なお、「娘が欲しかった」が口癖の節子には、大学生の一人息子がいる。葵にとっては歳の離れた従兄弟にあたる息子は、東京の大学に通っており、今年で6年生となる。「大学って4年だと思ってわ」と、悪びれもなく言った姉の茜に内心ヒヤリとしたが、すかさず「8年までは通えるんだよ」と真顔で返した従兄弟を見て、こいつ駄目だと葵は早々に敗北者の烙印を押した。
しかし、年上の従兄弟のことを、茜はなぜか気に入っており、同じ東京在住ということもあり、なんやかんや会う口実を作っては、彼女気取りでベタベタに懐く。その異様な光景に、母親の静香はというと何故かにこにこと、「まあ、本当の兄妹みたいかしら」と呑気に構える。本当の兄妹なら、なおヤバいのではと、純粋さからくる潔癖により辟易する葵が、「三流大学の2留男がそんないいかね」と茜に嫌味を言ってみるが、「そんなんじゃないよ。でも、大学生の彼氏をもつ小学生ってどう思う?」と、上得意で訊き返された。
『ビッチ』とコンマ1秒ででた葵の率直な感想を述べることは流石にできず、どうせ『小悪魔』とか言って欲しいんだろうけど、それを言うのはしゃくなので、あえて沈黙をもって答えとした。まあ、葵の場合いつも沈黙なのだけど。
そんな茜に従兄弟の方も満更でもない様子で、茜のおしとやかな胸を惜しまなく押し付けられ、鼻の下を伸ばす。
口以外も服装から髪型まですべてが喧しい茜だが、唯一慎しさを見せる洗濯板のような胸押し付けられて、どこが嬉しいんだろうと、葵はいつも首を傾げる。きっとご趣味なんでしょうと、楽しそうに大学生の男と小学生の女が手を繋いで歩く姿を見るたびに、そのまま警官に職質されてしまえと密かに願う葵だった。
「今日の夕飯は、氷見牛のステーキよ!」
いつの間にか物思いにふける葵に向けて、沈黙を嫌ってか、節子が大袈裟に発表する。
『肉かよ!』と、無口な葵でも口が滑りそうになった。いや、氷見牛といえば富山の誇るグルメブランドではあるのだけど。
日本海の宝箱と謳われる富山湾は、立山の雪解け水がゆっくりと豊富なミネラルを含んで湾へと流れ込むため、一年を通して上質の魚が獲れる。さらに今は冬の日本海、脂ののった極上の海の幸に舌鼓を打つ予定だった葵は、大いに落胆した。
もちろん節子に悪気はない。富山をはじめ、海に近い土地では、客人は肉でもてなす迷惑な風習がある。本人たちにとっては、魚は日常で、肉がご馳走なのだけど、香川で出される蕎麦についてどう思うか聞いてみたくなる。今日は諦め、明日以降に期待しようと空きっ腹を抑える葵だった。
そうこうしているうちにも、車は納品に伺うホテルやら旅館やらの裏口へと停められる。煩雑した普段関係者以外立ち入り禁止のエリアに入って行けるのは、葵にとって新鮮だった。表は豪華絢爛に着飾っていても、裏に廻れば剥き出しのコンクリート、世界の真理を悟った気になる葵だった。黙って助手席に座っている訳にもいかず一応手伝いの真似事として、葵も荷物を運ぶ。
節子としては、手伝いよりも知り合いに葵を紹介したいらしく、また、姪っ子として自慢したくなるぐらいには葵の容姿は整っているもんだから、ついつい話が長くなる。
「まあ、静ちゃんの娘さん。それにしては随分おしとやかで、旦那さんの血やね」と、ろくに返答できない葵に評価が下されるのだが、察するにどうやら母親は相当のおてんばだったらしい。
そんな感じで話し込むもんだから、いちいち納品が遅れるので、祖父の家につくころには、すっかり夕刻になっていた。この際氷見牛でもGOGOカレーでもなんでもいいよと、昼食抜きでひもじく腹を鳴らす、縦にも横にも成長期な葵だった。
葵ちゃんが愚痴りすぎで、話が進みません。