5 キルケ森再び
―――それはディルクが村を去った1か月前のことである。
ある日、ハンスはついに思い立ったといった表情を浮かべ、大量の本をリュックに詰め始めた。そして、ジルケを道案内にキルケ森へと入った。
目指す場所はヨハンナが管理している薬園のある家であった。
すでにキルケ森で迷わない為の札を開発したハンスはあっさりと家へとたどり着いた。
「たのもうっ」
明るい男の声に家の中で静かに過ごしていたヨハンナは顔を出した。
「まぁ、珍しい。ここに人がやってくるなんて何百年ぶりかしら」
穏やかな表情でヨハンナはハンスを迎えた。
人狼の登場にジルケは思わず身構える。彼女から放たれる気配は今までの狼や人狼の比ではなかったのだ。
彼女とやりあっては死ぬ。
ジルケは理解していたが、ただでやられるわけにはいかないとメイジ術を唱えようとする。しかし、それはハンスによって制されてしまった。
「ちょ、親父」
ジルケの話を聞かずハンスはヨハンナの前へ出た。そして少しだけ頬を染めていた。
「おお、あなやがヨハンナか。確かに本に書いていた通り美しい女性だ」
ハンスは鼻の下を思わず伸ばしながらもぴしっと背筋を伸ばして自己紹介した。
「私はハンス・ツェペと申すもの。ヨハンナ殿にお願いがあってまいりました」
「ツェペ………」
その名前を聞きヨハンナは何か思ったのか人間のハンスに興味を抱いた。
「いいわ、何がお望み」
「うむ、この家を譲り受けたい!!」
その言葉を聞きジルケはずるっとその場に崩れ落ちそうになった。
「何を言っているんだ。あんたは。とち狂ったか」
「おお、私は正気だ」
ハンスは家を仰ぎ見て言った。
「これほどの静けさ。そして、カタリーナ姫が実際使っていたという家………つまり村にはなかった資料が大量に詰め込まれた宝箱だ。これほどの研究所に相応しい場所はなかろう」
少年のように目をきらきらさせているその姿はまるでお菓子の家に遭遇した童子のものであった。それがおかしくてヨハンナはついつい笑ってしまった。
「まさか、カタリーナ姫の研究をしているというの?」
「おうとも」
「村ではカタリーナ姫の話をすると呪われるといわれているとか、その村の人間がずいぶんと酔狂なことをするのね」
「私はいたってまじめですぞ。それにご自身の主人をそのように言うとは悲しいことです」
その言葉がいっそうおかしいのかヨハンナは腹をかかえて笑った。
「ねぇ、ヘル・ツェペ。教えてくださらないかしら。どうしてあなたがそこまで我が姫に入れ込んでいるのか?」
「おお、よくぞ聞いてくれた」
ハンスは嬉しそうに自身のことを語った。
「あれは私がまだ子供だったころ。8歳の頃だ。私は黒皮病に罹ってしまった。すでに特効薬が開発された為命を失うことはなかったのだが、俺は特効薬を使用されるのがかなり遅かった。村の在庫が切れた頃でようやく町から届けられたのは発症から3日経過し、投与推奨されている時期から外れていた。正直助からないと大人たちは思い込んでいたらしい」
母の姿を求めたが、父母は出稼ぎでおらず家にいるのは老婆の祖母のみであった。
丁度祖母が医者の元へ薬をもらいにいっている間に激しい苦痛の波が押し寄せてきた。
もうダメだ。
死んだ方がましだと思ったとき、ハンスの傍で優しく励ます女性がいた。
母よりも随分若くて美しい女性だった。
重い瞼を開けてみると驚くことにその女性は銀髪であった。目の色も赤かった。その特徴は絵本で読んだ人狼のものに酷似していたが、不思議と恐ろしいと感じなかった。はじめは死神だと思っていた。この苦しみから解放してくれるなら何でもいいと思った。それが死であったとしても。
女性は歌うようにハンスに声をかけた。
さぁ、ぼうや。もうひと山よ。これを越えれば大丈夫。越えればもうすぐ元気になれるわ。早くその元気な姿をみせておくれ。
はじめは自分をあの世へ案内する歌かと思った。しかし、それは違った。
彼女の触れる手はひんやりとして気持ちよく、そして優しいものであった。それで彼女は何度もハンスの髪をなで優しく歌を歌い励ましてくれた。
ハンスはうとうとと瞼を閉じ、気づけば眠っていた。
目が覚めたときは熱は下がりすっかりと元気になっていた。
喜ぶ父母に誰か見舞いにきてくれたようだと言ったが二人は首を傾げた。そして銀髪・赤い目の特徴をいうとそれは絶対に村人にいってはならないとハンスに強く戒めた。
さっぱりわからないと首を傾げていると祖母がこっそりと教えてくれた。
おそらくそれはカタリーナ姫だよ。彼女は子供好きで、お優しい薬師であった。きっとお前を励ましてくれたのさ。
そしてその名を外で決して口にしないように言われた。
何故なのか理解できなかったハンスは首を傾げた。同時に彼は祖母がいっていたカタリーナ姫について強く興味を抱くようになった。
カタリーナ姫。
一度、二度名前は聞いたことはある。
だがそれがどんなものかは知らなかった。
村の多くがその名を口にするだけでも呪われる忌避の存在であった。とにかく悪い魔女とだけしか教えられなかった。
しかし、祖母の口から語られるカタリーナ姫は慈悲深い人助けをするのが大好きな女性であったという。
この解離に理解できずハンスはますます興味を抱くようになった。
そして家にあった祖母の本をもらった。絶対に誰にもいわないという条件つきで。その本はカタリーナ姫について書かれた本であった。
村にあるカタリーナ姫についての書籍は大昔に消滅してしまっていた。
しかし、ハンスの家がひそかに持っていたことで1冊だけ無事だったのだ。
その本は外に出すことは禁じられていた。出してしまえば、自分の家は村に存在できなくなるというのだ。
わからないと思いつつもハンスは祖母の言い分を守り、その本を何度も読み続けた。その本に描かれているカタリーナ姫は幼い頃から薬学に優れ、金銭を満足に払えない貧しい人々に無償で薬を調合していたという。ときどき診察しては彼らに合った薬を調合し、その薬はよく効いたという。優しくて美しい女性であったと記されていた。
あの時自分を励ましてくれた銀髪の女性はきっとカタリーナ姫だったのだ。
そう考えるとハンスはますます興味を抱き、どっぷりとカタリーナ姫の研究に没頭した。
「というのが私が研究を始めた経緯である。途中、メイジ術師の女性と一緒になりひそかに資料を集めていた」
そのメイジ術師はジルケの母親のことだろう。
ハンスは背に乗せていた大きなリュックを前に出し、目の前にさまざまな資料を取り出した。
「あら、懐かしい。まだこれが残っていたの」
ヨハンナはそのうちのひとつを取り出し興味深く内容を確認していた。カタリーナ姫の城シュネー城について書かれた『シュネーの記録』である。
「うむ、それを手に入れるのは苦労した。私が知る限りあと一名その書を知りこの地へたどり着いた狩人がいたが」
「なるほどね。これは城の執事だった者がまだ生きていた頃に執筆したものよ」
「その人狼は」
「姫が生まれてまもなく亡くなったわ。人狼の中でもかなりの長者だったし、姫の名前が付けられる前に急いで形にされた本だからまだ姫の名前は無名のままにされていたわね」
その話に残念そうにハンスは項垂れた。
「人狼が死んだことにここまで落胆するなんて変な人ね。それにこのヨハンナを目の前にしてもそんなに怯えないなんて」
彼の反応がますますおかしいのかヨハンナはそうからかった。
「人狼でも私の知識欲を満たしてくれる者ならば大歓迎さ。それに、ヨハンナは不要な殺生はしないだろう」
ヨハンナは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてそう思うのかしら」
「お前が最後に登場したのはカタリーナ姫が処刑された後、カタリーナ姫の肉体を取り戻す為に狩人たちと戦った時のみである。それ以降は狩人との戦いは主にカリスやその派閥に任せ、姿はおろか存在も消してしまっている。お前の血脈の人狼もなかなか登場しないし、人との争いに興味がなさそうであった」
「そりゃね。祖に近い人狼わたしはわざわざ人を食べなくても生きていけるし、私は姫の身さえ守られればあとはどうでもいいの」
だから早々に狩人と人狼との戦いに顔を出すことはなかった。あくまでキルケ森でしずかに暮らし、非戦闘派閥の人狼や狼の面倒をみていた。その保護していた者の中にはどうしても人の血肉がなければ生きながらえない者もいた。祖に比較的近いはずのココという人狼も人の血肉の味を覚え、食餌への渇望を覚えるようになってしまった例もあった。
食餌を目の前にして我慢しろという残酷なことはヨハンナにはできなかった。
必要に合わせて彼らの行動には目を瞑っていた。それ故、適宜クルス森からは人狼の被害が出ていたのだ。
そう考えるとヨハンナは決して人に害のない人狼とは言い切れない。
だが、ハンスはさらにいった。
それでも他の地域に比べれば被害は少ない方であり、狩人たちの注目を浴びることは少なかった。それはヨハンナがぎりぎりのところで制御してくれたおかげなのだ。
被害が急に増えたのは好戦的なカリスがここに滞在するようになってからである。
「というわけでヨハンナの場合は話せばわかると思い訪ねさせてもらった」
ハンスは胸を張ってここまでの経緯をまとめた。
「ここならば静かにめいいっぱい研究ができるだろう」
というわけでぜひ譲り受けたいとハンスは頭を下げた。
「まぁ、私が管理しているとはいえもとはここは姫の家で」
元はシュネー城で過ごすと肩が凝り自由にできないためカタリーナがひそかに作らせた家であった。
「………でも、もう必要ないのかもしれませんね」
ヨハンナはいつ帰るともわからない主人はもういないのだと理解しており、自分がいつまでもここを管理する必要性は低いと思っていた。それでもここはカタリーナ姫が大事にしていた家であり、思い出がところどころ詰まっていた。
「ここで閉じこもるのもそろそろ飽きてきたし、使われない部屋はたくさんあるし………いいわ。自由にお使いなさい」
「おお、感謝する」
「そうだが。私はしばらく旅をするから代わりにここをしっかり管理するのよ。原型をとどめないほどに変えたりしたら怒りますからね」
そういう条件にもちろんとハンスは頷いた。
「ときどき顔を出す人狼の少女がいるわ。不必要な戦いはしない子だし、古語は私が教えこんだから研究に役立ちそうであったら使ってもいいわ」
あとで一言言っておくわとそういいヨハンナは旅支度を始めた。
思ったよりもあっさり簡単に研究の場を提供されジルケはぽかんと口を開けたまま閉じれずにいた。対してハンスは喜びに打たれて興奮していた。
こうして父子はヨハンナの管理するキルケ森の家を手に入れたのだ。一か月の間にひそかにここへ例の研究の書や道具を運んで引っ越しをすませていた。これで人目を気にせずハンスは研究に没頭できるようになった。もともと気にしていなかったが、それでも見つからないように地下室を作っていた程なので明るい中でしかも今までにない程の大量の資料の中で研究できることにハンスはおおいに満足していた。




