2-2 赤髪の男
先に通ったウーアはライゼがくると傍に寄ってきた。後続も無事に通り抜け、薄暗い通路を見回している。
「時計出して」
「ああ」
もはや彼女が求めることに疑問は持たない。彼女は必要なことをしているのだ。こちらが理解しているかは二の次で。
「あのね、剣を出した時と同じようにしまえる。鞘の代わり」
「なるほど。どうすればいい」
左手に握っている時計の蓋も開けないまま、ウーアはライゼの右手に手を添え、握っている剣を時計に向けた。
「こうして念じる。入れ、とか」
言われた瞬間、思考がそう命じると金の光を帯びた時計の中に黒剣の先が吸い込まれていく。
「出す時も同じ。封印は解いたから、ライゼが出ろって念じれば出る」
猫目がくりっと見上げる。淡々とした口調に似合わず幼さの残る顔立ちで本当に子猫のように可愛らしい少女だ。なのにどちらかといえば、というか十割ライゼのほうが情けないところを晒してしまった。嫌になってくる。
「それか“闇より出でし王のしもべよ! 我が血の盟約に従い姿を現せ!”とかやると、かっこいい」
じっくり見られているのは何なのかと思えば、突然両手を構えて無表情のままキメポーズをした。
「んん? それは必要な呪文なのか?」
「必要じゃない。ライゼはかっこいいほうがいいかと解釈した」
「今の、かっこいいか?」
「かっこいいと思う人種は歴史上一定数存在している」
「……俺は遠慮願いたい」
納得したらしく頷いた。ウーアは時々よくわからない。
ライゼは懐中時計の鎖をベルトに括り、剣を収めてみた。左側に鞘のように垂らす。こうすれば使いやすいだろう。
「陛下、お戯れもそこそこに早く参りましょう」
今のは戯れではないし、戯れていたのはウーアじゃないのか。司祭はライゼの傍にいるウーアをそれこそ猫の子にするように、しっしっと追い払う。少女は不満を表すでもなく黙って下がった。さらにシャオムはライゼの腕に纏わりついてきて驚かせた。
「さあ! 参りましょう!」
やる気があるのはいいが、何でいきなり馴々しくなったんだ。そもそも司祭まで連れてきて良かったのだろうか。王族二人はともかく、“闇”などというものが現われる現状、いつ戦闘になってもおかしくはない。
ウーアとライゼはひとりでもなんとかなる。兄は不明だが弟の実力は確かだし、となれば兄も一通りの武術鍛練は受けているだろう。
司祭だけはか弱い女性という体をこれでもかと体現している在りようだ。裾の長い礼服の中に隠された肉体が筋骨隆々という感触もしないし、まさかウーアのように魔法でも使えるのだろうか。
魔法は稀少だ。まともに使用できる人間は限られているはずだ。確か竜の瞳が金色なのは魔が宿っているからなのだ。魔。いや、神力と言ったほうが正しいか。神話と同じだ、と思い至ると同時に神話の知識でなく『識っていた』ということに唖然とする。徐々に思い出しているらしい感触が自分のものでないみたいで変な感じだ。
溜息が出てしまう。知りたいと思うのに知るのは怖い。自分が何者であったか。今になってこんな事態になっているのだ。ろくな人生だったとは思えない。
「ウー……」
ウーアに話を聞こうとして呼びかけ、司祭が腕に引っついていることを思い出した。呼んではまずい。
「う?」
「うーん……奥には何があるのだろうな」
無理矢理誤魔化した。司祭はにっこりと微笑む。誤魔化しは上手くいったのか。近すぎる距離は感情を読まれてしまいそうで離れて欲しいと心から思った。それでも邪険にできないのがこの男である。
「この先にあるのは楽園ですわ」
本当に道は開け、神の赦しを得て悠久の幸福なるものをこの者たちに与えることができるのだろうか。ロルロージュが答えをくれた時に彼は真の王となる? いや待て。神の地へ辿り着いた暁にはロルロージュを妃として迎えねばならない。頭が痛くなってきた。それすらも王となる試練ならば、その最後の関門が一番問題な気がする。たとえライゼが受け入れたとして、ロルロージュが否と言えばそれで終わりだ。正直自信がない。
「ロルロージュがどんな人か知ってるか」
「まあ、もしかして陛下は王妃様がどんな方かご存じないから不安ですの? 伝承によるととてもお美しい方だとか。燃えるような紅い髪に深紅の瞳は宝石を嵌め込んだよう。何より神の寵愛を受けていた竜をその身ひとつで惚れ込ませたのです。誰よりも美しく、誰よりも強き女性だったのでしょう」
「そのせいでこんなことになってるけどな」
「あらあら、それはきっと竜王様があっちへこっちへとふらふらなされたからですわ」
仮面に張りつけられたような笑みに責められている気分になる。別にライゼがふらふらしたわけでもないのに。
「というか神の寵愛というのはどんなものなんだろうな。愛玩目的であれば神の下を去りたくはならないか? 竜とて俺と同じなら自意識があるだろ。ペット扱いはちょっとな」
だからといってほいほい女についていく、それまでは忠犬をやっていただろう竜の気持ちはこれっぽっちもわからない。竜はロルロージュにそこまで惚れてしまったのだろうか。そんな女が他人の妃になるはずがないと思うとまた気分が沈む。
「愛玩目的……!」
ライゼの気持ちとは裏腹に司祭が目を輝かせて王を舐めるように見回した。背筋が寒い。危険だ、この女。何が危ないって、すでにライゼが王だということを忘れてないか。一体何を考えてライゼの身体を撫で回している。
「お、おい……」
さすがに逃れようと身を捩ったそのタイミングで、
「ライゼ」
ウーアが呼んだ。助けの手を差し伸べてくれたのだと喜んで顔を上げて、しかし視界に入ったのは少女の前に浮かんでいる二つの目だった。
「下がってろ!」
立ち尽くしたまま動かないウーアに叫んで前へ駆け出す。何者か不明。でもこんな場所にまともな人間がいるか? いないと考えるのが妥当だ。剣をいつでも呼び出せるように懐中時計を握り締めた。
回廊は五人が広がって歩けるほどの幅はある。石壁の両側に等間隔で燭台の炎が揺れている。そのため薄暗く、影が不気味に揺らめいた。戦うには適さない場だ。それが試練だというならやるしかない。
「誰だ?」
“闇”なのかとも思った。暗がりの瞳は金色に光ってこちらを窺っていたから。
だがそれは応えた。
「やあ。こんばんは」
あまりにも穏やかに紡がれた言の葉は、あまりにもこの場にそぐわない。ライゼはもう一度「誰だ」と問うた。
「僕だよ」
揺らめく灯の中にすうっと現われたのは、焔よりも赤い髪の青年だった。紅蓮の髪に金の瞳。鮮やかな色彩なのに落ち着いた空気を纏った男だ。
まるで知人に出会った時のように親しげに微笑む男をライゼは知らなかった。ウーアは何も言わないし、兄弟たちも固い表情のままだ。
「お前は何だ」
「何かな」
いけ好かない笑みを浮かべる男は一切の予備動作もなく魔法を放った。紅蓮に似合わぬ無数の氷の槍が真っ直ぐに風を切る。
「ウーア!」
剣を召喚し構える彼の前に光の壁が生まれ、氷が衝突し砕け散る。
「『それ』をいいように使うのは狡いなぁ。これは君の試練だろう?」
「彼女は俺を助力しているだけだ。それとも神が俺ひとりでこいとでも言っていたか」
そんな伝承が残っていたら後ろの三人はついてこなかっただろう。司祭もぶんぶんと首を振って否定している。
「そこをどけ」
次に攻撃されたらライゼは踏み込む。できればこのまま下がってくれたらいい。人だ。人は斬りたくない。自分の試練のために他人を下すなど。
「君」
赤毛はウーアに呼びかける。笑みは絶さない。
「君はただの記録者であり案内人だ。逸脱しすぎると主人に仕置されてしまうよ」
「わたしは」
俯いたままの少女の声はいつになく心細げで、ライゼは彼女が言わなくてはならないと思っている何かを言わせたくなくて遮ってしまいたかった。
でもウーアは顔を上げて男を睨みつけた。
「わたしはライゼを憐れまない。わたしはライゼと一緒に、一緒に……」
ふるふる首を左右に振る少女は続きを紡げないまま、小さく肩を落とす。決断しきれない理由があるなら言わなくてもいい。ついてきている。手伝ってくれている。事実が何よりの証だ。
男もそう理解したのだろう。
「ふうん。これだから嫌になるね。貴方はどうして女の子をたらし込むのが上手いのかな」
今度はこちらを向いた金色にはライゼを強く非難する色が濃くなった。自身には身に覚えのない話だ。また忘れているのだとすればほとほと自分の人物像に嫌になる。女をたらし込むだって? 今のライゼであれば一蹴してしまう妄言だ。
それにウーアに余計な揺さぶりをかけないで欲しかった。あの少女は悩み出すとまともに動かなくなってしまう。とても困る。
「さあて。僕の目的は王だけなんだ。痛い目見たくなかったらどいてろよ!」
また魔法を発動されるかと身構えたライゼの懐へ一気に距離を詰められ、繰り出された掌底がみぞおちにめり込む。
本当に、目覚めてからろくなことがない。
今日一番の攻撃はライゼを凄まじい勢いで突き飛ばした。進んできた回廊を一気に逆戻りだ。
「ライゼ!」
「おっと、君は少し大人しくしてな」
金の瞳に焔が宿るように輝き瞬きウーアを射抜いた瞬間、彼女の肉体の自由が奪われた。見えない拘束を解こうともがけばもがくほど、魔法の鎖は少女の細い身体を締め上げる。
「君らはどうする? 王の盾にでもなるの。あの無能の役立たずの盾に」
剣を構えかけた兄弟たちは躊躇している。試練は始まったばかりだ。なのに王はもうやられてしまった? 竜の王すら敵わない男にしもべが勝てると思うか? 勝てるとして赤毛の標的はライゼだけだ。無駄な戦闘をする必要があるのか。楽園へ無事に辿り着かねばならないというのに。
仮にも国を統べる王の子らは愚かな選択をすることを畏れた。剣の先が力なく下ろされてゆく。
「賢い子だね。あんな王は独りっきりにさせてやろう」
地を蹴った男は赤い髪を揺らして、飛ぶように王の元へ向かった。