4-6 全てに連なる発端
「俺は自由になりたい」
神の白竜を撫でる手が止まった。
「今だって自由でしょう?」
「神よ、お赦し下さい、お赦し下さい……。俺はもっと自由に空を飛び、人々と語らい、己の心のままに生きたいと思ってしまったのです」
「……どういう意味」
顔を上げるのが恐ろしかった。神の不興を買い、ここで今すぐに塵と変えられてしまうかもしれない。
だがそうやって怯えて、機嫌を窺いながら従うだけの竜ではもういられなくなってしまったのだ。
「俺はあなたのお傍にはいられませぬ」
「白竜! それはどうしてだ! 君はボクのもの! 勝手は許さない!」
顔を上げた白竜は神のご意向が心底悲しかった。自分はただの神の所有物。意思などいらぬ。手の内で人形のように生きよ。そう言われているようで、彼は金色の宝石のような瞳から生を受けて初めて涙を流した。
「俺はあなたのものだ。だからあなたのご意思に反した俺が要らぬのなら、今ここで消し去って下さい」
愕然とした表情に変わる神に頭を垂れる。神にとって命など、生まれては消える一瞬のもの。気に入らなければまた『白竜』を創り直せばいいのだ。『俺』という個はいらぬのだ。床にぽたぽたと涙が落ちて、雫に金の光が孕む。
「白竜。少し頭を冷やしなさい。ボクは君を消したりしない……君が大好きだから」
神は白竜を消し去らなかった。それはほんの少しだけ彼の心を救ったが、女神の言う好意は真の愛情などではないと答えは出してしまっていた。
静かに立ち去った神の気配が完全になくなるまで白竜は頭を床につけたまま平伏した。罪悪感と悲しみと、感謝と謝罪と。
そうして次に立ち上がった白竜は涙を拭い、この神殿に戻ることは二度となかった。
神から離叛し、一生罪悪を抱えて生きていくことを覚悟した彼は、ひとり気ままにどこかまだ神の手の入れられていない未開の土地にいくつもりだった。
「わたしも連れていきなさいよ」
黒髪の人間は黙って出ていこうとする寂しげな竜の背中を掴まえた。
「ロルロージュ」
「いくんでしょ」
「君を連れてはいけない。神の怒りに触れる」
「何言ってんのよ。散々あの子を怒らせたわ。今さらじゃない」
「それとこれとは話が別なのだ」
「別じゃない。わたしはあなたが好きって言ってるの」
強くマントを引かれ、ロルロージュの唇が竜のそれとぶつかる。神が子供にするような口づけとは別の、もっと熱い何かに竜の心が震えた。
「ロルロージュ」
「何よ、あんまりその目で見ないで」
暗がりでもわかるくらいに彼女の頬は赤く染まっていた。いつも勝ち気な彼女が照れているのに気づいて、白竜はますます小さくなった。
「す、すまない」
「で、いくの? いかないの? これからは自分で決めるんでしょ」
ロルロージュはすぐに顔を上げ、真っ直ぐ金の瞳を見つめて手を差し出した。心に何の偽りもない。熱い感情だった。
「いこう」
白竜はその細い頼りなくも温かい手を取って、二人で世界の果てを探しにいくことにした。
世界はすでに争いと血に溢れていた。神の鉄槌などものともしない人間が神の愛する竜を殺す。竜とて黙って見ているわけではない。殺せば殺すほど怒りと憎しみに満ちていく。
神から逃げた白竜はそれを嘆いた。なんとかしたかった。竜と人間とてわかり合える。白竜とロルロージュのように。
二人で暮らすのは幸せなことだった。何もかもが初めてのことで。子を為し、子を育て。竜と人間が手を取る村を創った。ロルロージュとなら、望む世界もきっと創れるだろうと。
だけどここは神が創りたもうた竜と人間の世界だ。愛に飢え、憎しみを抱いた、神の所有物たちが生かされている世界。
竜にも人間にも白竜とロルロージュを邪魔に思う者がいた。二人は神に賜られた力を持っていたから。神の寵愛を受けた竜と、人間の中では卓越した神力を宿した女。そんな二人が創った村が町となり、いずれ国となれば強大な力を擁する。となれば竜も人間も滅ぼされてしまうのではないか。
ありもしない妄想だ。白竜もロルロージュも互いが手を取ることを夢見ていただけなのに。
だが疑心は力を持つ者を疎む。力が大きくなりすぎる前に排除しようと企む。
この時ばかりは人間と竜が手を取り、しかも彼らの国の者たちまでもが二人のやり方に不満を持つ者を集め、裏切った。
白竜とロルロージュが離れるように仕向けられ、おびき出された白竜は竜に討たれた。呆気ないことだった。白竜の神の加護は消えて久しい。竜は同胞のふりをして簡単に騙し討ちをした。背後から心臓をひと突きにして、息絶えると目玉も抉った。
白竜は死んだ。彼が裏切りを理解することもなくあっさりと死んだ。
“ボクが守ってあげるから死んだりするはずないじゃないか”
女神は大切な命が消えたことにすぐに気がついた。気づいた瞬間に白竜の元へと降り立つ。
白銀の巨体を横たえ無惨な姿で動かぬ白竜。その周りにいる竜と人間。
「我の竜を殺したのはお前たち?」
突如降臨した神の姿に、けれどもう竜も怯まない。
「お言葉ですがこの者は神を裏切り離反した身。我らこそが神のご寵愛を受ける竜であります。我らは謀反人を始末したまで。どうかご慈悲を!」
「黙れ!!」
神の怒りは風となり吹き抜け、その場にいた竜を塵と化し、また関わった全ての人間も竜も今の一瞬で消え去った。
残ったのは白竜の冷たく無惨な死体だけ。
「白竜っ!」
宝石のようだった瞳は抉られ潰された。心臓のあったところは闇のような空洞だ。
神は竜の首元を抱き締める。
「君は馬鹿だよ、ボクのところにいれば良かったのに」
いくら神でも失われた命を取り戻すことはできない。器を創って魂を入れても元の白竜にはならない。
「あの女が君をたぶらかさなければこんなことにならなかった? ずっとボクの白竜でいてくれた? それとも君はいつかボクから離れてしまうものだったのかな。君は失敗作だったの? わからないよ、白竜……答えてよ」
ただ赦せない、と思った。怒りを収められなかった。自分が悪かったとは思わないくせに、世界や人間やロルロージュが全部悪いと思った。
だから神は人間の女の元に降り立った。怒りと憎しみと死を突きつけるために。
「ロルロージュ」
彼女は火を放たれた町の中で血塗れのまま泣き叫ぶ子供を抱き締めて呆然と空を仰いでいた。黒く艶やかだった髪は引きずり回されほつれて縮れた。顔も腕も痣だらけで血が滲んでいる。
人間たちは白竜を殺したようにロルロージュも殺そうとしたのだ。でも神風が全てを塵にして彼女を守った。
神の風は白竜に害を加えようとした者全てを消した。ほんの僅かな悪意も赦さなかった。だからロルロージュが残ってしまった事実が憎らしかった。
「あの人は?」
全てが燃え落ちていく中で怒りを灯した神が現われたのだ。彼女も何があったのかは悟ったのだろう。
「死んだ」
誰にやられたとも聞かない。心当たりがあったはずだ。でも何を言っても白竜は戻らない。ロルロージュはまだ幼い彼の子を抱き締めた。残ったものはこの子供だけだった。
「ロルロージュ。ボクは君が大嫌いだ。白竜を奪って、白竜を殺した。人間なんか創るんじゃなかった」
「わたしもお消しになりますか」
「そうすれば気が晴れるかな」
こんな汚れて弱い人間の女ひとり殺して何が晴れるというのか。何百と竜や人間を消しても何も神の心を動かさなかったのに。
「かあたまをいじめないで!」
銀の髪と金の瞳を持つ子供がロルロージュを庇うように母を抱いて神を睨みつけた。憎らしいはずなのに、その姿が白竜によく似ていて。
「白竜」
「この子はダメ! わたしなら好きにすればいい、でもこの子にはっ……!」
「黙れ! 白竜は死んだ! お前のせいだ! ボクのところにいれば死なずに済んだ!」
「なぜあの人があなたの下を離れたかまだわからないの。そんなだからあの人は去ったのよ。わたしが連れていったのが悪いと言うなら、あなたが白竜を愛せなかったのだって悪いわ!」
「ボクは白竜が大好きだったよ! 白竜だってわかってたくせに君を取った!」
「それがわかってないのよ。愛? あなたのは支配でしょ! 白竜は自由になりたがってた! どうしてわかってあげなかったの! あの人はあなたのことを敬愛していた。ずっとあなたのことを気にしていたわ」
「支配? だって君たちはボクの……。ボクを敬うのだって当然じゃないか」
「神なんていなくてもみんな生きていける! あなたの加護がなくてもこの子は育つわ! 支配なんかされたくないのよ、そんなの愛じゃない!」
「だって……じゃあ、愛ってなに? 白竜が死んだのはボクが悪かったっていうの? そんなことあるか! ボクは白竜を!」
白竜を何だ? 彼に何をした? 彼はいつも何と言っていた?
わからない。思い出せない。
いつも金色が綺麗だった。ただ、それだけ。
「違う! ボクは悪くない!!」
「自分のやったことにも責任取れない神なんて神を名乗るんじゃないわよ!」
「黙れ! お前が悪い!」
神風が吹き抜け、ロルロージュは子を庇い抱き締めながら風圧に目を閉じた。髪が熱い。瞳が灼けそうだ。心臓が握り締められるような息苦しさ。
「君はそうやって血に塗れていればいい。憎しみの色だ。人間も竜もでき損ないだった。もういらないよ。でもその子は貰う。ボクの白竜だ」
「なっ……やめ……!」
子を抱く力が勝手に抜けていき、幼子は輝く球体に封じられると丸くなって眠ってしまう。そうして神の懐に抱かれる。
「ロルロージュ、君は殺さない。死んで白竜の元にいくことなんか赦すもんか。君が死ぬのをボクは赦さない。このでき損ないの世界で誰にも愛されることなく孤独に永遠を生きていけ。白竜だけを愛しているというならできるだろう。ボクから白竜を奪った罰だ」
「どうしてあなたは身勝手なまま変わろうとしないの! 白竜の想いは何ひとつ伝わらなかったの!」
「白竜は死んだ。もう何も答えてくれない」
考えることを拒絶する。白竜はもういない。絶対帰ってこないから考えたって答えは教えて貰えない。自分の未熟さなど考えたくもない。神は完璧な存在なのだ。
ロルロージュに背を向け、燃え盛る炎にも目を向けず、白竜が愛した町のことなど微塵も想うことなく彼の子を抱いて神は神殿へ閉じ籠った。
残されたロルロージュは奪われた子の名を叫び、声が枯れるまで白竜を呼んだ。
炎に煽られる髪は炎よりも紅い、深紅。涙が溢れて止まらない瞳は人の血を写し取ったような鮮血の色。
そして神に祝福された神力は奪われ、代わりに彼女は呪われた。永遠の命と禍々しい力が人間だった身体に侵蝕していき創り変えられる。人ならざる者へと。
「赦さない」
黒い炎を宿した紅い魔女は眼前に広がる神が創りたもうた世界の全てを灼き尽くしてしまいたかった。




