第14話:鉄の足音
至福の時は、一瞬にして終わりを告げる。
私がその残酷な真理を噛み締めたのは、オットーが置いていった高級茶葉で淹れた紅茶を、自作の白磁のカップで優雅に楽しんでいた、その日の午後のことだった。
「……はぁ。最高」
工房の椅子に深く沈み込み、私はうっとりと息を吐いた。
手に馴染む、滑らかな白磁の取っ手。
唇に触れる縁の、繊細な薄さ。
そして、口の中に広がる芳醇な紅茶の香りと、たっぷり入れた砂糖の甘み。
これぞ、文明。
これぞ、文化的な生活。
半年前、泥水を啜りながら「死にたくない」と泣いていた自分が、まるで別人のようだ。
今の私は、このクレイ高原の地下に築いた「カボチャ帝国」の女帝だ。
民草は二体のハニワ(と数え切れないほどのカボチャ)。
領土は地下深くに広がる、快適な温室と居住区。
外の世界がどうなろうと知ったことではない。私はここで、甘いお茶を飲みながら、一生を終えるのだ。
――そう、思っていたのに。
『……マスター』
脳内に、ハニ・ワンの声が響いた。
いつもの穏やかな思念ではない。
それは、まるで冷たい水を浴びせられたような、鋭く、硬質な警告音だった。
カチャン。
私がカップをソーサーに置く音だけが、静寂な工房に響いた。
「どうしたの? またオットーが忘れ物でも取りに来た?」
私は努めて明るく返そうとした。
平和な空気を壊したくなかったからだ。
しかし、ハニ・ワンは首を横に振った。
彼は入り口の防壁の方角を睨みつけたまま、微動だにしない。
『違う。……生体反応、5。……識別信号、なし』
5人。
商人の一行にしては少ないし、装備が軽装すぎる。
盗賊にしては、足並みが揃いすぎている。
『……重い。硬い。……鉄の匂い』
ハニ・ワンの伝えてくる感覚情報に、私の心臓が嫌な音を立てた。
鉄の匂い。
それは、この自然豊かな(荒野だけど)クレイ高原には存在しないはずの異物だ。
油と、煤煙と、血の匂いが染み付いた、人工的な金属の冷たさ。
「まさか……」
私は慌てて作業台に向かい、水晶板に手をかざした。
これはハニ・ツーが外の監視用に設置した、簡易的な潜望鏡のような魔道具だ。
地上の映像を、ぼんやりとだが映し出すことができる。
水晶の表面にノイズが走り、やがて灰色の風景が浮かび上がった。
吹雪は止んでいる。
荒涼とした岩肌と、赤茶けた大地。
その中を、一直線に進んでくる黒い影があった。
「……っ!?」
息を呑んだ。
影たちは、人間だった。
けれど、その姿は私の知る「人間」とは少し違っていた。
全身を包む、分厚い灰色のコート。
その下に見え隠れする、鈍い光沢を放つ金属の鎧。
背中には、煙突のような突起がついた奇妙なバックパックを背負っている。
プシューッ、という白い蒸気が、時折その背中から噴き出していた。
ガイスト帝国軍。
『魔導蒸気機関』で武装した、機械化歩兵の斥候部隊だ。
「なんで……なんで、こんな何もない場所に……」
震えが止まらない。
帝国軍。
「魔力を食らい尽くすイナゴ」と恐れられる、東の大国の軍隊。
彼らは土地のマナを燃料として消費し、鋼鉄の兵器を動かす。
彼らが通った後は、ペンペン草一本生えない死の大地になると言われている。
私の楽園に、一番招かれざる客が来てしまった。
『マスター。……迎撃する?』
ハニ・ワンが拳を握りしめる。
その赤褐色の装甲が、戦意に呼応して微かに熱を帯びるのがわかった。
彼はやる気だ。
私の平和を脅かす敵を、その剛腕で粉砕する気満々だ。
でも。
「だ、駄目っ!」
私は悲鳴のように叫んだ。
「戦っちゃ駄目。……あいつらは、一兵士じゃない。後ろに『国家』がいるの」
ここで斥候部隊を全滅させたらどうなる?
「未帰還機あり」と判断され、次はもっと大規模な調査隊が送り込まれてくるだろう。
あるいは、危険な魔物の巣だと認定されて、遠距離から魔導砲で高原ごと吹き飛ばされるかもしれない。
個人の武力で、国家というシステムには勝てない。
それは、ギルドで組織の理不尽さを嫌というほど味わった私が、骨身に染みて理解していることだった。
「隠れるの。……やり過ごすんだよ」
私は震える手で、ハニ・ツーに指示を送った。
『ハニ・ツー、全ハッチ閉鎖! 通気孔も、排気ダクトも、全部塞いで! 魔力炉の出力も最低限まで落として! 死んだフリをするの!』
ハニ・ツーが即座に反応する。
洞窟内の灯りがフッと消えた。
換気扇の回る音が止まる。
完全な静寂と闇が、私たちを包み込む。
私はハニ・ワンにしがみついた。
彼の硬い装甲だけが、今の私を支える唯一の頼りだった。
***
地上の様子は、ハニ・ワンの聴覚センサーを通じて、まるで自分自身の耳で聞いているかのように鮮明に伝わってきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
重たい軍靴の音。
規則正しいリズム。
それが、私たちの頭上、数十メートルの場所を通過していく。
『隊長。……この辺りのマナ濃度、異常に高いです』
低い男の声が聞こえた。
通信機を通したような、少しざらついた声だ。
『数値は?』
『計測不能。……計器が振り切れています。まるで、地面全体が純度の高い魔石でできているような……』
『馬鹿な。クレイ高原は百年前に枯渇したはずだぞ』
会話の内容に、私は唇を噛み締めた。
やっぱり、バレている。
ハニ・ツーが作った「循環システム」によって肥沃になったこの土地は、マナ探知機にとっては真っ赤な太陽のように目立つのだ。
それに、私がばら撒いた肥料や、カボチャたちが放つ生命力も隠しきれない。
『おい、あれを見ろ』
別の兵士の声。
『……橇の跡か?』
『いえ、ただの轍じゃありません。地面が……ガラス化しています』
心臓が止まるかと思った。
オットーだ。
あの商人が、私の改良した「セラミック橇」で爆走していった跡だ。
摩擦熱と魔力コーティングの影響で、地面が変質してしまっていたらしい。
そんな痕跡が残っているなんて、計算外だった。
『……妙だな。何もない荒野に、高濃度のマナ反応。そして、未知の技術による痕跡』
隊長と呼ばれた男の声が、鋭くなる。
『ここには、"何か"がいる』
ザッ。
足音が止まった。
私たちの真上だ。
見つかる?
掘り返される?
私のカボチャ畑が、ブーツで踏み荒らされる?
ハニ・ワンが兵器として解体される?
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ!
恐怖が、私の思考を白く塗りつぶしていく。
魔導士としての冷静さなんて、とっくに消し飛んでいた。
私はただの、怯える少女に戻っていた。
その時。
ハニ・ワンの手が、私の背中を強く抱きしめた。
『……大丈夫』
声なき声が、私の脳内に響く。
力強い、不動の意志。
『ここには入れさせない。……僕が、誘導する』
「え……?」
ハニ・ワンの意図を問う前に、彼は行動を起こしていた。
私から離れず、片手だけを床の土に押し当てる。
彼の魔力が、地下深く、さらに下の地層へと流れていく。
そこには、ハニ・ツーが井戸を掘った時に見つけた、空洞化した古いガス溜まりがあったはずだ。
ボコッ……。
微かな振動。
ハニ・ワンは、そこを「刺激」したのだ。
***
地上では、異変が起きていた。
『な、なんだ!? 地面が……!』
兵士たちの狼狽する声。
ハニ・ワンの操作によって、彼らの足元の地盤が液状化し、さらにその下から古い天然ガスが噴出したのだ。
プシューッ!!
腐った卵のような強烈な硫黄の臭いと、泥の噴水。
それは攻撃魔法のような殺傷力はないけれど、未知への恐怖を煽るには十分すぎる演出だった。
『ガスだ! 有毒ガスの噴出孔だ!』
『退避! マスクを装着しろ!』
『くそっ、足が抜けない! 泥沼になってやがる!』
パニックに陥る斥候部隊。
重装備が仇となり、液状化した泥に足を取られて動きが鈍る。
そこへ、視界を奪うガスと蒸気。
『隊長! ここは危険です! 地殻変動の前兆かもしれません!』
『……ちっ。マナ反応の正体は、この地下ガスか?』
隊長の声に、迷いが生じる。
自然現象か、それとも人為的なものか。
判断がつかない状況で、部下を危険に晒すわけにはいかない。
『……撤収する。座標だけ記録しておけ。「不安定な火山性ガス地帯」とな』
『はっ!』
ザッ、ザッ、ザッ……。
泥に足を取られながらも、鉄の足音が遠ざかっていく。
蒸気機関の駆動音が小さくなり、やがて完全に風の音にかき消された。
***
「……行っ、た……?」
私はハニ・ワンの腕の中で、へなへなと崩れ落ちた。
全身汗びっしょりだ。
心臓が早鐘を打って痛い。
助かった。
ハニ・ワンの機転で、なんとか「危険な自然地帯」だと誤認させることに成功したようだ。
「ありがとう、ハニ・ワン……凄かったよ」
私は彼の泥だらけの手を握りしめた。
でも、ハニ・ワンの反応は硬かった。
彼はまだ、天井の方角を睨み続けている。
『……戻ってくる』
彼の思念は、安堵ではなく、より深い警戒色に染まっていた。
『あいつらは、獲物を見つけた狩人の目をしていた。……今は引いただけ。必ず、もっと大きな群れで来る』
私は息を呑んだ。
そうだ。
帝国軍は、そんなに甘くない。
記録された座標。
「異常なマナ反応」というデータ。
それは彼らにとって、宝の地図を手に入れたも同然なのだ。
私の平和な引きこもり生活に、ひびが入った音がした。
パリン、と。
あの白磁のカップが割れるときのように、繊細で、取り返しのつかない音が。
「……準備しなきゃ」
私は立ち上がった。
もう、ただ美味しいカボチャを食べて寝ているだけの生活は終わりだ。
守るためには、力が必要だ。
隠れるだけじゃ足りない。
追い払うだけでも足りない。
ここを、誰にも手出しさせない「鉄壁の要塞」にするしかない。
「ハニ・ワン、ハニ・ツー。……工房を開けて」
私の目から、怯えの色は消えていた。
代わりに宿っていたのは、職人の執念と、領主としての覚悟。
「帝国がその気なら、見せてあげるよ。……本気になった『土遊び』が、どれだけ怖いものかをね」
薄暗い洞窟の中で、私の呟きは決戦の狼煙のように響いた。
鉄の足音は遠ざかったけれど、その残響は私の胸の中で、いつまでも不気味に鳴り続けていた。




