「城下町の市場調査-巡礼編XXXⅣ 家政婦体験篇XXⅤー」
静寂なる袂に縁り、一人黄昏る者ありけり────。
それは、時の流れがふと衣の裾を止めるような刻。
世界はまだ言葉にならず、
星々さえも、己が運行の理由を知らぬ頃。
ただ一人、その静けさの奥底を覗く者ありき。
【さて、処女という者ありけり、
暫し齎せる”幻夢”、隠岐たる望郷
未視し島────】
【定めし方角は何処、居ず処?
此処まで来たりて、此方より喜多る?】
【汝、何人よりも定めし、此方へ往くモノよ。
怖気によって、進が良い。
観視し島を臨みたりえん】
【羅針盤を捨てよ、これよりは路なる充ち、満ち充ちて
未知を往く、途を往け】
───────モノローグが始まる。
───────。
私は静かに眠りについた。
朧げな夢が、ゆるやかに私を包む。
そして気がつけば、
私は見知らぬ場所に立っていた。
『ここは───?』
私の声は静寂に触れ、
波紋のように広がった。
しかし、その響きはやがて薄れ、
夢の霧の中へと溶けていく……。
木々の騒めき。
河の調べ……。
私はその水の調べに導かれるように、
河を遡って歩きはじめた。
木々をよくよく見れば、
それは『杉』であった。
しかも、その杉は──
私の背丈の七倍ほどもある。
河の向こう岸には、
葡萄や無花果の木々が茂り、
その足元には茄参が群生していた。
藍と紫の華。
白葡萄と黒葡萄……。
それらは折り重なり、
まるで一枚の織物のように広がっている。
熟れた葡萄と無花果の香りが、静かな空気に淡く満ちていた。
⦅あーし、やっぱり駄目だと思うんだけど!⦆
≪……そうかもね。でも、ナーレが此処に来られる訳ないよ≫
⦅ヴァル? そろそろゲロっちゃえば?
あーしが言うのも変だけど、あの子、頭いいわよ?⦆
≪駄目だ。彼女を見守るのが、僕たちの務めだ。
それに──『彼は視止めて、認めないだろう』。
……こういう話をしに、君は来たのか?≫
≪……? 前言を撤回する。
彼女が来たみたいだ。
──『彼は、意地悪が好きみたいだ』≫
⦅だから、あーし言ったじゃん?
『そう上手く行かせてくれないの。
アイツは』⦆
私は、微かに聞こえるその声を辿るように、歩き出した。
其処にはレッティーナが佇んでいた。
ヴァルは褥の上に横たわり、
目を瞑ったまま微動だにしない。
その身には、何一つ纏われていなかった。
≪やぁ……ナーレ。眠れないのかい?≫
ヴァルの口元は、一ミリとも動いていない。
それでも、その声は静かに──私の頭の中へ響いてきた。
『寝ているわ、貴方と同じよ。
……ここは何処なの?』
⦅ここはさ、あーし達の庭っていうか~?
まぁ、待機場所みたいなトコ。
ナーレっちは今、精神的にちょい上の階層に来ちゃってるってワケ⦆
【ナーレ。簡単に言えば、君の精神は今、肉体から離れている。
ここは精神世界──つまり夢の領域だ。
そして君は今、僕たち『精神体』と会話している】
『待機場所って言ってたけど……意味が分からないわ』
≪ここは、簡単に言えば。
君の深層心理の場所なんだ。
だから僕たちと話せる──
いや、正確には。
君がそう思っている、と言うべきかな≫
⦅ナーレっち、あたしたち視えてるでしょ?
現実でも視えるけどさ、ここだともっとハッキリ視えてるはず!⦆
そう言えば、レッティーナは奇抜な服装をしている。
薄い桃色と黒の色層──短いスカートに、長く尖った爪。
指先も唇も、きらきらと光を帯びていた。
『ねぇ? レッティーナは、何時もその恰好なの?』
⦅あーしのお気になの!
これじゃないと、バイブス上がんないっしょ!⦆
そう言うと、彼女は身体をくるりと捻り、
得意げな、不思議なポーズをしてみせた。
『ねぇ? ヴァル。レッティーナは何を言っているの?
ずっとこうなんだけど……』
≪彼女はね、ナーレ。
自己肯定感がとても強い。
自分の感覚や気持ちを、迷わず信じられる性格なんだ≫
⦅ちょ、なんか心理分析されてんだけど!?
あーし別にそんな難しいこと言ってないし!⦆
⦅ナーレっちも一緒にしよーよ!
とりま‼ ルージュ塗ってあげるし、ほらほら、こっち来なって!⦆
≪レッティーナ!! やめろ。
世界の歴史が混乱する。
これ以上ギャル文化を広めるな。
ナーレの文明レベルが歪むだろう……≫
『これも……未来の知識なの?
ヴァル……?』
私は少し戸惑いながら、恐る恐る尋ねた。
≪……文明とも言えるし、文化とも呼べるものかもしれない。
一時代を風靡した、と言ってもいい。
だが──ナーレが継ぐ必要はないよ≫
⦅ちょっと! 何その言い方!
あーし、絶滅した生き物みたいじゃん!⦆
≪失敬した──絶滅危惧種だ。
絶滅しそうになっている、と言い直しておこうか?≫
『……結局、絶滅しそうになっているの?』
⦅ちょっと! あーし怒るんだけど!!⦆
⦅絶滅とかマジ意味不!
あーしたちの魂、不滅っしょ!⦆
≪不滅も何も──まだ生まれてもいない。
この時代には存在していないんだ≫
⦅マジ!?
エモいとか絶滅してるの、この時代!?
超ぴえんなんだけど!⦆
レッティーナは一気にしょぼくれ、
⦅マジ、ないわ~……⦆と、ぶつぶつ文句を垂れていた。
≪……さて、ナーレ。
彼女の『バイブス』とやらに毒される前に、
君がここへ辿り着いた本当の理由を探すべきではないかな?≫
ヴァルは、いつものように静かに語りかけてきた。
『本当の理由?……私はただ眠っているだけよ。
何を探せばいいのか、分からないわ。
いつもの叡智勝負ってこと?』
≪叡智とは別の勝負だよ。
────この前、君に上手くかわされたからね≫
≪あの時は勢いで、君を受け入れてしまった≫
『……そんなことあったかしら?』
≪君は僕を受け入れると言って、接吻までしただろう!≫
⦅えっ、ヴァルって積極的だったんだ!
へぇ~! ちゃんと機能してたんだね⦆
レッティーナは、仕返しとばかりに、
ヴァルの……足先を爪で弾いた。
⦅ちゃんと男だったんだねぇ?
あーし、ちょい安心したんだけど。
だってさ、ヴァルってコレじゃん?
ずっと妹ポジっていうか、なんか変な立ち位置じゃん?⦆
≪妹という分類は初耳だ。
せめて弟にしてくれ。
中性的なのは認めるが、それは許容できない≫
⦅えー? 弟って感じでもなくない?
なんか妖精ポジじゃん?⦆
≪うるさい! 妖精じゃない。
僕たちは神様だ!≫
≪……勢いだったとはいえ、接吻まで交わしておいて『そんなことあったかしら?』はないだろう。
神との契約は、そう簡単に忘れ去られていいものではないんだよ、ナーレ≫
『じゃあ、どうして欲しいのよ?
形勢逆転ってことかしら?』
⦅ねぇねぇ、神様ならさー、もっとドーンと構えなよ!
接吻くらいでテンパるとか、マジでピュアすぎなんだけど!
ナーレっち、こいつのこういうトコ、攻略対象としてアリじゃね?⦆
≪レッティーナ!!≫
その声が、静かな夢の空間を震わせた。
ヴァルが怒った──!
『ねぇ、ヴァル。そんなに怒るなんて……やっぱりあの接吻、あなたの中でまだ「有効」なのかしら? 神様との約束は、そう簡単に消えないんでしょう?』
≪……ッ!≫
⦅うわ、図星じゃん! マジ受けるんだけど!⦆
レッティーナが手を叩いて笑って、ヴァルの脇腹あたりを狙って指先を動かす。
⦅ナーレっち、追い打ちいっちゃいなよ!
「神様なのに、あーしの唇の感触、まだ覚えてるんだ~?」とか言っちゃえば?
これ、絶対バイブスぶち上がるから!⦆
≪やめろ……。二人して僕を弄んで楽しいのかい?
……有効も何も、君が僕を「受け入れた」という事実は、魂の刻印として残っている。
消そうとしても、それはもう、君という歴史の一部なんだ……≫
ヴァルの声は、次第に小さく、そして少しだけ切実な響きを帯びていく。
『魂の刻印……。じゃあ、私はもう、神様と離れられないってこと?』
≪……それを決めるのは、僕じゃない。
『彼』が、君をどう「視止める」かだ。
だが、ナーレ。君がこうして僕を揶揄えるほど自由でいられるのは、今のうちかもしれないよ≫
『ふふ、そうね……。神様なのに、人間の一挙一動にそんなに振り回されるなんて。ヴァル、あなた本当は神様じゃなくて、ただの初心な男の子なんじゃないかしら?』
≪なっ……! ナーレ、君まで……!≫
⦅あーはは! ナーレっち、ナイス追い打ち!
マジそれな!「神様です(キリッ)」とか言っちゃって、中身はピュアピュアの実じゃん!
ほらほら、ヴァル君? 神様ならもっとこう、余裕の笑みとか見せてみなよ~!⦆
レッティーナはヴァルの周りを踊るように跳ね回り、
今度はその綺麗な髪の先を指でくるくると弄り始めた。
≪やめろ……髪を触るな……。
……いいかい、ナーレ。神とは本来、不変で不動の概念なんだ。
それなのに、君が僕を「男の子」と定義し、彼女が「ピュア」だと断じる……。
その『定義』こそが、僕の神性を削り、君の深層心理を歪ませているんだよ!≫
『でも、ヴァル。あなたが動揺すればするほど、なんだか親近感が湧くわ。
接吻の契約も、そうやって「人間味」があるからこそ、私には意味があるのよ?』
≪……君という人は……。
……ああ、もういい。好きにするがいいさ。
だが、覚えておくんだ。
僕をこうして「形あるもの」として弄ぶことが許されるのは、
本当に今、『この夢が続いている間』だけなんだからね≫
⦅ねーねー、ナーレっち。こいつ、口ではあーだこーだ言ってるけど、
さっきから「バイブス」が安定してんだけど?
ぶっちゃけ、からかわれてんの、嫌いじゃないっしょ!⦆
『じゃあ…………言ってほしいわ』
≪僕はこの前、君に言った。
同じ言葉を、もう一度言うのは──反則だよ≫
『夢は、すぐ忘れてしまうのよ』
≪少女が夢を見るのは、困ったものだね……。
君が見ているのは、その雫なのか。
それとも──痺れなのか≫
レッティーナは、少し離れたところから、
二人の様子を遠目に見守っていた。
≪分かった─君に何度でも言うことにしよう。
幻夢が夢で無いように……≫
ヴァルは息を吸って、私に答えた。
≪Ἔλθε, φίλη κόρη·
τῇ σῇ δρόσῳ
τὰ ἐμὰ χείλη δρόσισον.
τὸ δὲ φίλημά σου
ὡς μέλι
τὸ στῆθος μου σείει≫
私はそれ以上、彼が逃げられぬように
両の手でそっと留め置き、
花弁のように柔らかく、彼を繋ぎ止めた。
その瞬間、空気が微かに震え、
夢の光が二人を優しく包む。
花弁は風にも似た時間の流れに漂い、
私の掌に残る温もりは、
遠く彼方の星々の囁きのように、かすかに響いた。
夢の境界は溶け、
空も川も、そして私たち自身も
柔らかく混ざり合う──幻想の世界に、静かに溶けていった。
≪ナーレ……君は、ここで何を望む?≫
ヴァルの声は、声というよりも、胸の奥深くに響くような波紋となって伝わり。
私は答えられず、ただ掌の温もりを感じる。
その温もりは、現実の肉体のそれではなく、精神の核から湧き上がる光のようで、
花弁に滴る露のごとく、柔らかくも確かに存在した。
「……私は、あなたを離したくない」
夢の中の私は、言葉にしても、もはや現実の声ではなく、心のささやきとして響いた。
ヴァルは静かに頷き、瞳の色が空の光を映すかのように輝く。
≪その言葉は……僕に届いているよ、ナーレ≫
光と闇の境界は、ここでは意味を失っていた。
河も森も、杉の巨木も、花や無花果も、すべてが揺らぐ水面のように、夢の中で溶け合う。
レッティーナは遠くで見守りながら、まるで時が止まったかのように微笑んでいた。
私の手が、ヴァルの手と重なる──触れるたびに、心臓の奥が微かに震える。
夢の世界の法則が、私たちの思いと連動しているかのように、
空気は香り立つ葡萄と花の匂いで満たされ、
胸の奥に潜む感情の雫が、一滴一滴光となって飛び散った。
≪ナーレ、君の感情は……美しい≫
ヴァルの声はもはや言葉ではなく、存在そのものが語りかけてくる響き。
私は、彼の胸の鼓動、息遣い、思いのすべてが、夢の流れに織り込まれていることを感じる。
そして気付けば、私たちの境界は消え、意識と意識が、光と影の間で交わり、
夢の空間そのものが、私たちの感情で形作られるようだった。
「……私は、あなたのすべてを、ここで受け止めたい」
私の言葉は、夢の光の中で花弁のように舞い、
ヴァルの瞳に触れるたびに、世界全体が淡く震えた。
そして、私は理解した。
この夢世界は、単なる幻想ではなく、私と彼の心の交差点であることを。
時間も空間も、光も風も、すべてが、私たちの感情の波に呼応して踊る──
幻想の中で、愛しい存在と魂を通わせる、至高の瞬間として……。
≪...ὦ Νάρη. εἰ σθένος εἶχον ἔγωγε,
τοῦτ' ἂν ἔπραξα. σύγγνωθί μοι.
ἁμαρτίαν γὰρ ἐφειλκυσάμην.
ἱκετεύω σε· σύγγνωθί μοι...≫
≪...ἐπὶ δὲ τούτοις, εἰ παρθένον ὄνειρον ἔδειξα,
κατάρασθαί με χρὴ καὶ θανάτῳ κτανεῖν.
μῶρος γὰρ θὴρ ἐγενόμην,
ὃς ὤμοσα θεὸς ὢν ἀνθρώπων ἄγεσι μὴ μιαίνεσθαι...≫
≪...ὦ Νάρη, φόνευσόν με.
τήνδε γὰρ ἁγνὴν ὄψιν τὴν σὴν
ταῖς ἐμαῖς ἀκολάστοις ἐπιθυμίαις ᾔσχυνα.
δός μοι τὴν δίκην...≫




