「城下町の市場調査-巡礼編XXXⅢ 家政婦体験篇XXⅣー」
【随分、時間を使ったな。
だが、君なら出来ると思っていた。
……出来なければ意味がないんだから】
素面のオタク君はそう言って、
あーしのスカートの端を、指先でそっと掴んだ。
⦅ちょっとマジでやめてよ!
あーしのスカート掴むとか、頭どうなってんの!?⦆
【やっぱりさ、黒じゃなくて灰色にしない?
なんかね、地雷系でギャルって変でさ】
⦅は? 何いきなり言ってんの?
あーしのスカートの話してんの?⦆
【───? 他に話す事あったけ?】
⦅あるでしょ!?
てか、まずスカート掴んでるの離しなさいよ!⦆
【はいはい、離/話せばいいんだろ?
ったっく、これだからギャルってやつは】
⦅いやいやいや!
人のスカート掴んどいて、
何であーしが悪い流れになってんの!?⦆
【ギャル……だから、ですかねぇ?
特に理由もなく、罪もない。
ただ──彼女はまた、
『何も知らないレッティーナ』であった。】
⦅ちょっと! あーし放置して勝手に話まとめんな!⦆
あーしはすかさず、
その小さいおじさんをがしっと捕まえた。
【おいおい、うら若い女性が、ひょいっと♪
私を捕まえないでくれ。
ここは『ライ麦畑』ではないぞよ】
【白い華を紡ぎ出す為に、
私を摘まないでおくれな……?】
このオタク君は、
のらりくらりと身を捩りながらそう口にした。
⦅え、いつから乙女設定なん?
あーし的には普通におじさん認定なんだけど⦆
【てめぇさぁ……それってさ。
『姫ちゃんのリボン』とか『赤ずきんチャチャ』の頃からだろ?】
⦅てかさ、一応聞くけど……あんた、いつ生まれ?⦆
【平成元年だって言ってんだろ。
なんで覚えてねぇんだよ。
……『ママは小学四年生』から観るか?】
──────物語が始まる。
男は何気なく『再生』釦を押す。
≪新番組! ナースエンジェルりりかSOS!
「聖なる光よ! 私に力を!!」≫
【やっぱりさ、時代的に此処のラインだろ?
少女アニメってやるはよぉ?】
⦅やっぱり、あんたは!⦆
【『ウェディングピーチ』もブルーレイになれってんだよ。
もう遅いけどな!】
⦅ほら見ろ! 完全におじさんオタクじゃん!⦆
蛇腹式の扉が自動でゆっくりと閉まる。
その勢いで、恒玉が壁の穴から弾き出され、
レールの上を滑るように転がって、扉の中央部にまで到達した。
エレベーター内に光が満ちる。
恒玉の表面が淡く光を反射し、空間を柔らかく染め上げる。
瞬間、釦らしきものがチカチカと点滅し始め、
光の明滅がエレベーター全体に小さな脈動を生み出した。
光に目を奪われながら、私は息を呑む。
体の中に染み込むような温もりと、
微かな振動が、胸の奥まで届く。
今、ここに――原点に還ったのだ、と確信した。
(何階だったかしら……?)
フィーネたちが降りた階を、私はすっかり忘れていた。
⦅≪Constellatio Tauri — Domus Secunda≫よ。
二階よ?⦆
そして、私は牛さんマークのボタンに手を伸ばした。
指先が触れると、小さなクリック音が静かに響き、
ボタンは淡く光を放ち、エレベーター内の空気に小さな波紋を描く。
光はゆらめき、壁面に映った影がわずかに揺れた。
エレベーターは、音もなく降りていく。
床板に伝わる微かな振動だけが、静かな運動の存在を告げていた。
外界の音は遠ざかり、まるで時間そのものが溶け出すようだ。
微かな振動が足元を伝い、
静寂の中、やがて地上階にたどり着いた。
≪Constellatio Tauri — Domus Secunda≫
私はエレベーターから踊り出た。
エレベーターホールには、人影ひとつない。
冷たい空気が微かに漂い、足音だけが静かに反響する。
光は柔らかく揺れ、まるで時間が凍りついたかのようだった。
(そうだ……このエレベーターを、
アヴェーラの居る階まで───動かさないと……)
私は身を乗り出し、エレベーター内の階層操作盤に手を伸ばす。
蟹マークのボタンに触れると、微かなクリック音が響き、指先から淡い光が空間に波紋のように広がった。
私は恒玉を手にして蛇腹式の扉を外側から締める。
わずかな不安が、胸をかすめた。
(────明日、謝ろう……
もう、ただ、眠りたいわ……)
微かな振動と共に、エレベーターは静かに昇り続ける。
深い静寂に包まれ、心も体も、少しずつ解けていくようだった。
私は、エレベーターに「またね」と告げた。
今日という日が、異様に長く感じられる。
冷たい空気に溶ける自分の声が、
ほんの少しだけ心を慰めた。
エレベーターホールに立ち、揺れる階表示をぼんやりと見つめながら、私は深く息をついた。
⦅ナーレっち〜、今日めっちゃ疲れたっしょ?無理すんなよ〜⦆
レッティーナはまだ余裕の元気さを見せている。
私は思わず尋ねたくなった。
(貴女は疲れないの?
ヴァルは疲れてた、みたいだけど……)
⦅あはっ、あたし?全然っしょ~!
ヴァルったらマジ弱っちいんだから~⦆
私は思わず吹き出してしまった。
「もう、貴女ほんとに……」と、軽くツッコミを入れる。
でも、その笑顔に少しだけ心がほぐれるのを感じた。
(もう少し、貴女を知りたいのだけど?
レッティーナは何を目的にしているの?)
⦅あーし──とヴァルはさ──君を見守るってことだけだね? その“目的”については話さないの。
あーし達も正直、知らないんだしさ──⦆
エレベーターの駆動音が完全に消えると、ホールは耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
自分の呼吸の音さえも、ここでは誰かのささやきのように大きく響く。
(……やっと、帰れるわ)
独り言が、冷たい空気に溶けていく。
視界の端で、レッティーナの存在を感じさせる淡い光の粒子が、まだ楽しげに踊っている。
⦅ナーレっち、足元ふらついてんじゃん!
そのまま壁に激突して寝るのだけはやめてよね〜?⦆
レッティーナの軽口に、ナーレは力なく、けれど愛おしそうに口角を上げた。
(……そんなこと、しないわよ)
長い廊下を歩みにつれて────
ふと、意識が現実に戻った。
(私って、どこで寝ればいいの?)
⦅……あー、フィーネちゃんとエスリン姉さんに聞けばよかったんだよね?⦆
「……今さら、それを言うの?」
私は思わず立ち止まり、額に手を当る。
(どこか……空いている部屋はないかしら。
それとも、勝手に入ったら怒られる……?)
私は一番近くにある扉のノブを、
恐る恐る見つめる。
(もし、ここが誰かの私室だったら。
あるいは、開けてはいけない「何か」が眠る場所だったら? )
「レッティーナ、……あなた、この建物の構造、少しは分かってるんでしょ?」
⦅あーし、『アイツ』からそんなん貰ってないし~
ちょっと待って~……⦆
私は、レッティーナのオーラがちょっと薄くなったのを感じた。
⦅あれ、なんか元気なくなってんじゃん?⦆
「ちょっと、それはこっちのセリフよ……」
私は壁に肩を預け、ずるずるとその場に座り込みそうになるのを堪えた。
視界がじわりと滲み、
廊下の突き当たりが遠く、霞んで見えた。
「元気がないんじゃなくて……限界なの。
このまま此処で、行き倒れになってもいい?」
⦅ちょっ、ナーレっち! 縁起でもないこと言わないでよ!あー……えっと、待って! ! ⦆
脳内でレッティーナがバタバタと動き回る気配がしている。
彼女が何か「力」を使ったのか……、
私の視界に映る扉の一つが、わずかに熱を帯びたような淡い桃色に縁取られ──。
⦅とりま! その扉、なんか『主がいませーん』って感じの匂いがする! とりあえず入っちゃいなよ。不法侵入? 知らなーい! 命大事に!⦆
「……匂いって、あなたね……」
私はレッティーナの適当すぎるガイドに呆れながらも、藁にも縋る思いでその扉へと歩み寄る。
指先が冷たい真鍮のノブに触れ──。
祈るような気持ちで力を込めると、
カチリ──と軽い音がして、
扉はあっけなく内側へ吸い込まれた…………。
*********
目の前には、埃ひとつない静謐な空間。
ゲストルーム……という印象だった。
──雪は止んでいる……。
窓から差し込む柔らかな光が、
漆黒の床に淡く反射している。
家具は整然と並び、どこか凛とした雰囲気を醸し出していた。
(どうも……場違いな部屋に、押し入っちゃったみたい……)
⦅うっわ、マジでピッカピカじゃん!
ナーレっち、ここ当たりだよ! 絨毯とか最高にフカフカだし。……え、場違い? 気にしすぎだって!
誰もいないんだから、今夜はナーレっちが「主」でしょ~?⦆
レッティーナは、まるで罰が当たるかのようなことを、場違いな場所で平然と話し始めた。
「ちょ、ちょっと待って!
なんでそこでそんな陽気なの!?
ここ、ゲストルームでしょ、レッティーナ!
主とか言って、勝手に寛がないで!」
⦅えー、何でそんな真顔になってんの?
あーしはただ楽しんでるだけじゃん~⦆
レッティーナが部屋を駆け回るたび、光は床の上で踊り、家具の角をすり抜け、まるで部屋がレッティーナの存在を歓迎しているように輝いた。
私はは思わず目を丸くして後ずさる。
しかしレッティーナはお構いなしに、
無邪気に光の中を飛び跳ねていた。
レッティーナは部屋を駆け回ったあと、
ついにふわふわのベッドに飛び込んだ。
柔らかく沈む褥に全身を預け、
思わずうっとりと顔をほころばせる。
彼女の髪や衣服に反射して、
ベッドの上で小さな虹色のきらめきを作る。
床の光も微かに揺れ、部屋全体がレッティーナの存在と遊んでいるかのようだった。
⦅うわぁ……これ、最高じゃん!
ナーレっち、マジでフカフカだよ~⦆
レッティーナはそのまま、ふわふわの褥の上で満喫しきったように、天真爛漫な笑顔を浮かべていた。
私は、レッティーナの天真爛漫な笑顔と無邪気な仕草に、ほんの一瞬だけ視線を留める。
その誘惑めいた仕草をチラと確認して、すぐに部屋の様子に目を戻す。
窓から差し込む光が白い床や家具を照らし、
ふわふわのベッドに沈むレッティーナの影が柔らかく揺れる。
部屋全体が、まるで彼女の存在を映す舞台のように、生き生きとしていた。
壁には大きなタペストリーが飾られていた。
一目見ただけで、それが単なる装飾ではなく──
屋敷全体の俯瞰地図であることが分かった。
(あそこはアヴェーラの屋敷……真ん中が此処……)
目の前のタペストリーに視線を落とすと、
屋敷全体がどの様に描かれているのか分かる。
タペストリーの左端には山脈が描かれており、
その麓に、まるで地図から飛び出すかのように屋敷が突出している。
(これは……エスリンさんが説明してたっけ……
『別邸───』)
光が差し込む窓の影に揺れる織り目に、屋敷の形や位置が立体的に浮かび上がるようで、
まるで手を伸ばせば触れられそうな感覚だった。
このタペストリーには≪裡貫く通路≫がその姿を露にしていた。
────≪裡貫く通路≫はジグ、ザグに曲がっている。
(曲がっていた……?
私は、真っ直ぐ歩いたつもりだったのに……)
⦅目の錯覚だったんじゃない?⦆
レッティーナが、にやりと笑いながらその言葉を口にした。
(目の錯覚? ナニソレ?)
⦅ナーレっち、『真っ直ぐ歩いたつもりだった』って言ってたじゃん? もしかして────通路の中、途中で上がって下がった場所があったんじゃない?⦆
そう言うと、レッティーナはタペストリーに手を伸ばし、指先でジグザグに曲がる通路を軽くなぞりながら、嬉しそうに叫んだ。
⦅ほらね~! ここ、上がって──で、ここで下がってるの! だから真っ直ぐに見えたんだよ~!⦆
指先の影をタペストリーに落とし、通路の曲がり角をくっきりと浮かび上がらせる。
まるで、レッティーナが屋敷全体の構造を教えてくれているかのようだった。
私は思わず、タペストリーに視線を落とし、
曲がる通路の感覚を再確認する。
────通路は途中、中庭を亘っていく。
(うん……確かに此処で上って、下ったよ?)
⦅典型的な目の錯覚だよそれ!
多分、アヴェーラの屋敷が高地にあって、
あの中庭は一時的な窪地なんじゃないの?⦆
レッティーナは、タペストリーの指先をくるくる動かしながら、嬉しそうに解説を続ける。
⦅ほら、こうやって見ると、ナーレっちが歩いた道が見えて面白いんだよね~!⦆
彼女がタペストリーの織り目を指差し、通路の起伏や中庭の窪みを立体的に指を添わして──縁取る。
部屋全体が、まるで二人の会話に合わせて息をしているかのようだった。
⦅もう寝よ?
タペストリーを視てるよりも、
実際に観た方が早いって!⦆
レッティーナはふわっとベッドの上で身を起こし、
にっこり笑った。
⦅ほら、ナーレっちも一緒に来ればいいじゃん~!⦆
光が彼女の髪を照らし、
ベッドの上の影が柔らかく揺れる。
部屋全体が、レッティーナの無邪気な提案に呼応するかのように、ほんの少し暖かく生き生きとしていた。
私は少し肩をすくめ、心の中で小さくため息をつく。
(……全く、好き勝手ね、この人……)
「今日は御仕舞にしましょ……」
私はふわりと褥に身を横たえた。
──月光が、
ベッドのシーツや床に淡く反射する。
私の視線は、
自然とあのタペストリーに向かっていた。
織り目の陰影が、屋敷の通路や中庭の立体感を静かに映し出し、まるで夜の静寂の中で、屋敷全体がそっと呼吸しているかのようだった。
私はふわりと褥に身を横たえ、
静謐な光の影に揺れるタペストリーを見つめていた。
ベッドの端では、レッティーナが無邪気に横になり、
ぴょこんと足を上げたり、枕をくるくる回したりしている。
⦅ねぇ、ナーレっち、こっち向いてみなよ~!
枕、フカフカで最高に気持ちいいんだから~⦆
(早く寝てってば……。
明日、さっきのことを詰問するわよ?)
ベッドの端で無邪気に横たわるレッティーナは、まだ枕を抱えながらにこにこと笑っている。
⦅えー、ナーレっち、
そんなに真面目に考えなくていいじゃん~⦆
柔和な光が、二人の影を床に落とし、静かな夜の部屋に小さな笑い声と温かな空気が混ざっていく。
私は目を閉じ、タペストリーに映る屋敷の姿を思い浮かべながら、(……油断ならないわね、『タペストリーを視てるよりも、実際に観た方が早い』……)と、
心の中で呟いた────。
【やっと寝たな…… 時間を取らせすぎるな、
レッティーナ。『B-』評価だ】
⦅あーしのせいってこと? 酷くねぇ~?⦆
ベッドの端で、レッティーナは枕に顔を埋めながら小さくぷいっと口を尖らせる。
無邪気な仕草と軽い拗ね方が、部屋の静けさにちょっとしたアクセントを加えていた。
【静謐さの欠損を評価してやる。
『C-』だ。謎解きの導きは『B+』】
⦅えー、オタク君、めっちゃ細かくない?
B+とかC-とか、マジでケチじゃん~⦆
窓から差し込む柔らかな光が、二人の影を床に落とし、部屋全体が静かに揺れる。
レッティーナの小さな拗ねた仕草と、主人公の冷静な評価が、夜の静寂の中で微かに交差していた。
【後、ヒントを出し過ぎるな。
『D-』評価だ。総合して、君の評価は『C』だ。
良く取り回したな、次も頑張れ】
レッティーナはベッドの端で、
少し拗ねながらも目をぱちぱちさせている。
⦅えー、D-って……マジ酷くねぇ?
でも……Cかぁ、悪くないじゃん!⦆
窓から差し込む月光が、彼女の髪や枕に柔らかく反射し、
静かな夜の部屋に、小さな笑い声と軽い緊張感が混ざる。
【俺の扱いは、『F』評価だ。
居残り、追試確定だ。
さて………………君は元気らしいから。
どの少女アニメから観る?
実際に視た方が早いだろ?】
レッティーナはベッドの端で、くすくすと笑いながら枕を抱き直す。
⦅えー、Fって……マジ、扱い酷くねぇ?
でも、アニメかぁ~♪ 実際に見れるの、マジ楽しみ~⦆
【さてと……長い『少女アニメ』だ】
男はそっと手を伸ばし、レッティーナの瞼に触れる。
────その瞬間、世界はゆっくりと閉じていった。
月光が部屋を柔らかく照らす中、静寂だけが残る。
フカフカの褥と穏やかな呼吸に包まれて、二人の夜は静かに幕を下ろした…………。




