「単純冥界な旅」
先程から、このジルという女性はまったく喋る気配がない。
……いや、もしかすると怒っているのかも?
先程の陪審法廷で、あの熱線で俺は炙られていたのだ。
それが原因で、俺はこの人に近づくのが嫌で、距離を取っていたのだ。
「夏枝様――こちらです」
ジルさんが突然、通路の床を力いっぱい殴った。
ミシミシと音を立てて床に亀裂が入り、バキィ!という轟音とともに大穴が開き、ボロボロと崩れていく。
ジルさんは、やり切ったような笑顔を見せていた。
その横から大穴を覗くと、一切の光が届かない、真っ暗な底なしの空間が広がっていた。
そこには希望など一切存在しない。
今なら三人の魔女の予言に乗るし、悪魔にだって魂を売るだろう。
パンドラの箱を開けろと言われたら、間髪入れずに開けるだろう。そっちの方がまだマシだった。
この穴は、まるで「虚無と虚空がお友達☆」と言わんばかりに、舌なめずりしている。
「あのー……ここに、ですか?」
俺はジルさんの顔をチラリと見てから、虚無の底を覗いた。
(さすがに、ここに入れなんて言わないだろ――)
「そうです」
ジルさんが破顔一笑をくれたと思った次の瞬間、俺は放り込まれていた。
「うわっ! この人でなしっ!」
俺は叫びながら、足と手をバタつかせて、なんとか浮力を得ようと藻掻く。
「大丈夫です。私は人ではないので」
そう言って、俺の頭上から最後の一撃をくれた。
なんという、単純冥界な旅の始まりか!
俺はジルさんに殴られた頭頂部を撫でていた。
たぶん、ものすごく大きなたんこぶができているはずだ。
ズキズキと疼く頭を尻目に、俺は虚空で静止していた。
(あれ? 落ちてない?)
いや、実際には落ちているのだが、風圧を感じないせいで、落ちていないかのように錯覚しているだけだ。
そんな中、唯一の希望が、虚空の最奥に見えた。
通路の明滅のせいで見えなかった光が、奥の方でぼんやりと灯っている。
それのおかげで、俺は確かに落下していると認識できた。
何故なら、それ以外は全て闇。
闇が俺を優しく取り囲み、「慈しみを与えようか」とでも言いたげに見守っていた。
少しずつ、光らしきものが増えてきた。
ピンクと黒が混じった炎を灯すカンテラが、この大穴の壁に無数に取り付けられているようだった。
(少しずつだけど、速度が遅くなってきてる?)
その認識とともに、カンテラたちはゆっくりと数を増やしながら、俺の左右を通り過ぎていく。
やがて、俺はこの大穴の終着地点へと――なぜか真上からではなく、横から滑り出るように到着した。
(……上から落ちてきたのに、なんで横から出た?)
出てきた横穴を覗いてみると、たしかに大穴は頭上にあった。
つまり、あの通路とこの通路は、時空が交差しているのだ。
この不可解さに、なぜか俺は少しだけ安心してしまった。
どうやら訂正が必要だ。
最近見知った異様さや異質さ、面妖さに加えて、不可解さも“いつものメンバー”に仲間入りしたようだ。
そんなことを考えながら見渡すと、そこは波止場だった。
湾内には、ぽつんと帆船が鎮座している。
波止場に係留されているように見える。
ただ、あたり一面にはピンクと黒の灯りを湛えるカンテラが並び、そのせいで「場末の如何わしい波止場」という印象が強くなる。
要するに、この灯りたちが妖艶さを醸し出していた。
誰のために? と問われれば、帆船のためだろう。
その帆船――彼、と呼ぶべきか――が来る時のために、この灯りたちは疼いているように思えた。
そう、彼は誘っているのだ。
(断じて、そういう意味ではない。旅の仲間として、という意味だ!)
帆船に近づき、じっと目を凝らすと、それは十八世紀頃のデザインを意識した、櫂で漕いで動くタイプの船に見えた。
右舷には無数の穴があり、きっとここから櫂を出して漕ぐのだろう。
だが、なぜか右舷の真ん中――つまり船体の中央あたりに、水車のような装置が付いている。
おそらく、左舷にも同じものがあるのだろう。
見上げると、主檣――メインマストの後ろに、巨大な煙突がそそり立っている。
(この水車を動かすのが、この煙突を使った動力ってことか?)
「ねぇ♪ お・じ・さ・ん、何してるの?」
どこからともなく、少女の声が聞こえた。
「こっちだよ〜、おじさん、目悪いの?」
その声にハッとして、目線を上げた。
船の甲板から、ピンクと淡い黒の袖先がちらちらと揺れている。
その袖をたどると、ピンクと黒の燠のような目と、白い歯らしきものが見えた。
「やっと気づいた♪ おじさん、ほんと屑っぽそう♪」ニッシシと、悪戯な声で笑っている。
「ねぇ? 乗らないの? もしかして怖いのかな〜? ヘタレさんなのかな〜?」
挑発的な声が、上から俺に降り注ぐ。
この安い挑発に乗ってはいけない――わかっていた。
だが、自尊心が著しく傷つけられた俺は、つい行動を早まった。
「待ってろ、今すぐ乗り込んでやる!」
そう叫びながら、右舷に下ろされていた綱梯子に取りかかる。
「おじさん、がんばれ〜♪ 早くしないと動かしちゃうよ〜?」
その言葉を聞くや否や、帆船が波止場を離れ、前に進み始めた。
マストの後ろにそびえる煙突も、まるで楽しそうに呼吸するかのように、モクモクと煙を吐き出す。
櫂と側面の水車が波を掻き分け、波立てて、俺を綱梯子から引き剝がそうとしてくる。
「おいっ! 頼むからやめろ! このままだと――」
叫んだそばから、俺は波に洗われた。
「あはは♪ 一夜干しのおじさんになっちゃう〜。堕ちろ!堕ちろ〜!」
上からドスンドスンと揺れる音が聞こえてくる。
彼女は、明らかにこれを楽しんでいた。
帆船もまた、彼女に呼応して、左右にジグザグと蛇行しはじめる。
その間も、マストの後ろにある煙突は、楽しげに黙々と煙を吐き続ける。
(ジルさんが言っていた、駄賃って――まさか!?)
その一縷の希望に縋って、俺は叫んだ。
「おいっ! 俺は金貨を持っているんだ! ――ゲホゲホッ! 欲しくはないのか!?」
その言葉を発した瞬間、ジグザグ航行していた帆船がピタリと停止した。
あの嘲笑に満ちた、妖艶で幼い声もピタッと止む。
「お・じ・さ・ん? なんでそれを早く言わなかったの? 無賃乗船かと思ったよ?」
少女の声が、不安そうに問いかけてくる。
(お前が俺を挑発して無理やり乗せたんだろ!)
「でも、そうなんだ〜! 久しぶりだよ? おじさんみたいな屑な人♪」
ニッカニッカと笑う口元には、燠のように妖艶な光が灯っていた。
その目が、俺を値踏みしていた――。




