「城下町の市場調査-巡礼編ⅩⅣ 家政婦体験篇Ⅱー」
見慣れた頭髪を見やる。
件の修道士が乗り込んできた。
『やあ? 今日くらい、私が運転しよう。』
馭者台に神が居す。
「何がしたい?」
『気分転換さ。偶には悪くはない。』
俺は馭者台の中ほどに腰を下ろした。
「──で? お次は何をするんだ……また、嘲りか?」
神は黙ったまま、ただ目前に視線を注いでいる。
『朝方は霧が掛かっていた──そうだな? アレフ?』
「あぁ──だからなんだ?」
『湿り気がある──』
神はじっと目前だけを注視した。
俺は応えを待つ。
『なぜ、晴れ渡るまで待機していた? アレフよ──』
『貴様は照りつく頭を見せびらかしに、私に会いに来たのか?』
唐突に神は苛立ちを露わにする。
――やはり、この神は御乱心遊ばされている。
俺は内心でそう吐き捨てた。
『……まぁ、いい。覚悟は理解した。なら、そこに座れ。』
運転席が解放される。意図など、言うまでもない。
神は既に馭者台を降り、少し離れた場所からアレフを眺めている。
【見れば見るほど、貴様は道化師だ。】
【私より、よほど相応しい。せめて、威厳くらいは持て。】
俺は、この神を呪った。
「……何が言いたい?」
【せめて、親らしく。男らしくな。矜持を持て。】
【家の前に馬車を置かなかった配慮は理解する。
だが、驚かせたくなかったのだろう? それも分かっている。】
神は頭髪をぐしゃりと掻き、踵を返す。
(あっ──。)
最初から、この神は俺の意図を見抜いていたのだ。
【せいぜい、娘に嘲られるな。覚悟を見せろ。】
――現実は、もう目の前だった。
私達は玄関を抜け、朝の光の中へ飛び出した。
外は光に満ちているのに、湿り気が肌に纏わり付き、
それでいて、ひんやりと冷たかった。
家から数十メートル先、なだらかな路の中腹に
お父さんの馬車は待機していた。
その馬車は、まるで私を待っているかのようだった。
「フィーネ? 先に荷台に行ってて頂戴。
私はお父さんに声を掛けてくるから。」
「あぁ、分かった。
動き出す前に声を掛けてくれって、
おじさんに言ってくれよ!」
フィーネは笑顔で頷き、荷台へ駆け上がる。
その姿を確認し、私は馭者台にいるであろう父に声を掛けに向かう。
足元に注意しながら、馭者台のそばまで歩を進める。
心の奥で、少しだけ緊張が波打つ。
父の顔を見る前に、私は自分の呼吸を整えた。
「お父さん!」
声は思ったよりも自然に、夜明けの空気に溶けていった。
溶けていった──
其処には、見慣れない御仁が馭者台に鎮座していた。
釘付けになった私の視線の先に、
確かに、お父さんの横顔があった。
「何しているの、お父さん?」
明らかにいつもとは違う父の姿に、私は言葉を詰まらせながら尋ねた。
「あぁ──これかい? 正装さ。見ての通り。」
お父さんは何度もかがみこむ。
その度に、私はその頭髪に目を奪われ、
思わず吹き出しそうになった。
「なにその恰好? どういう心境なの?」
「言っただろう? 『正装』だって」
修道士服のお父さんは得意げに、
頭頂部を撫でまわした。
そう、お父さんはお道化るような様相を見せていたが、
瞳だけは──何かを読み取ろうとするかのように、鈍く光っている。
「どういう風の吹き回しな訳? 道化師さん? いえ──修道士様?」
父の意図を理解しようと試みる、
少し戸惑いながらお母さんの真似事をしてみた。
「あぁ──。まぁ、矜持ってことだ。
ナーレには関係の無い事だよ。」
お父さんの視線は、木立の向こう、暗がりを一点に射抜くように固定されていた。
「何か視えたの? お父さん?」
「あぁ──神が彼処におわしたんだ。」
そう言って、お父さんは木立を指差す。
その指先に、現実と異界が重なるかのような静かな圧が漂っていた。
お父さんはそのまま呆然としていたが、
やがて馬車の格子越しに声を掛けた。
「フィーネちゃん!? 出発するぞ!」
その声は、驚きや戸惑いを一切含まない。
お父さんは私の疑問をすっ飛ばすように、馬車を進ませていく。
あの視線は、ただのお道化ではない。
何かを見据え、守ろうとする覚悟そのものだった。
外の湿り気を帯びた朝の光が、馬車の車輪の下で微かに揺れる。
私達はその中に身を委ね、現実と神秘の狭間を走り抜けていく。
馬車は静かに揺れながら、湿った朝の路を進んでいく。
車輪が小石をかき分ける音が、規則正しいリズムを刻む。
フィーネは荷台で体を揺らしながら、時折、格子窓越しに私の方を見上げる。
「お父さん?」
私は声をかけるが、心の奥で緊張を隠せない。
お父さんのあの視線と、先ほど指差した木立の暗がりが頭から離れないのだ。
父は馭者台で黙ったまま、馬の手綱を軽く操作し、前方をじっと見据えている。
その背中からは、言葉にできない覚悟が滲み出ていた。
私の小さな疑問や不安は、馬車の揺れの中で淡く溶けていく。
「ナーレ、緊張してるのか?」
お父さんがふいに声をかける。
「……うん、少し」
私は素直に応える。
お父さんは顔を振り返さず、低く呟いた。
「大丈夫だ。目の前の事だけを見ていればいい」
その言葉には、神秘的な重みがあった。
馬車の揺れ、湿った光、木立の影──すべてが、静かに私達を包み込む。
私は心の中で、自分が何を覚悟し、何を恐れているのかを確かめる。
遠方に、見慣れた『白い居城』が現れ始めた。
アヴェーラの屋敷だ。
「とうとう、行くことになるのか。
出来れば、やっかいにはなりたくなかったんだがな」
お父さんは静かに、しかし重みのある声で呟く。
その声には、過去から積み重ねられた覚悟と、微かな不安が混ざっていた。
「お父さん? 何が不安なの? アヴェーラは私の親友よ?」
私は自然に尋ねる。声には少しの戸惑いと、しかし父を安心させたい気持ちが混ざる。
お父さんは一瞬、馬車の揺れに身を任せながら、遠く白い居城を眺めた。
「それにしても……デカい屋敷だ。厄介なことになりそうだ。やっかいなだけにな」
低く呟くその声に、単なる物理的な困難だけでなく、
未知の重みや緊張が滲んでいる。
馬車の揺れ、湿った朝の光、木立の影──
そのすべてが、父の言葉と心情を反射するかのように私達を包む。
私はお父さんの背中に視線を落とす。
お父さんの覚悟と、自分がこれから共に歩む責任の大きさを改めて感じた。
やがて──
馬車は目的地の前に着いた。
四度、耳にしていた。
その音が今、現実として目の前にある。
「鉄の扉──」
目の前にそびえるそれは、想像以上の重厚さを放っていた。
冷たく光る鉄の面は、光を反射してぎらりと光り、静かに威圧感を放つ。
お父さんは馭者台の手綱を握ったまま、扉をじっと見据えている。
フィーネは荷台で身をすくめながら、格子窓越しに私の手を握った。
私もまた、自然と息を止め、扉の重みを全身で受け止めた。
四度、聞き慣れた音のリズムが頭の中に蘇る。
その度に、心臓の奥で緊張が震え、覚悟を確かめるように呼吸を整える。
目の前の鉄の扉は、ただの障壁ではない──
私達を試し、迎え入れ、そして突き動かす、何か大きな存在の象徴のようだった。
「頼もうー!!」
お父さんが馬車の上で声を張り上げる。
その一声が、鉄の扉の前の静寂を切り裂くように響いた。
馬車の揺れも、フィーネの小さな息遣いも、すべてが一瞬止まったかのように感じられる。
私はアヴェーラの屋敷の二階の窓を見やった。
広い白壁の屋敷の中で、私の視線は自然とある一点に吸い寄せられる。
──『赤い紗』。
屋敷の一角、他のどの窓も視界に入らず、赤く揺れる布だけに意識が集中する。
その色は、ただの装飾ではなく、何かを告げる合図のようで、私の胸の奥をざわつかせた。
馬車の揺れも、父の背中の緊張も、周囲の湿った光もすべて霞んでしまう。
赤い紗だけが、静かに、
しかし確実に私の注意を奪っていく。
──ここから、すべてが始まるのだ。
そう思うと、胸の奥が熱く、けれどぎこちなく震えるのを感じた。
赤い紗がひらり、と揺れる。
その向こうに、見慣れた顔が静かに現れた。
(フィンリーさん……)
息を呑む。胸の鼓動が、馬車の揺れと呼応するかのように速まる。
視線を逸らすことも、声を出すこともできず、ただその姿を見つめるしかなかった。
──確かな存在。けれど、触れられない距離。
その小さな窓の中に、全ての期待と緊張が凝縮されているように思えた。
数秒──いや、もっと長く感じられる間。
赤い紗の向こうで、フィンリーさんの姿がわずかに揺れ、そして──閉じられる。
その動作に、胸の奥が締め付けられるような感覚が走った。視界から消えてしまう姿。
ほんの一瞬の邂逅だったのに、
時間の密度は異常に濃く、心に深く焼き付いてしまった。
その余韻の中、あの巨大な観音開きの玄関が、ゆっくりと音を立てて開く。
木の軋む音は、ただの軋みではなく、どこか哀愁を帯び、夕暮れのような深い余韻を私達に残す。
馬車の揺れが微かに伝わる手綱を握る父の背中、
荷台で体を小さく震わせるフィーネの気配、
そして私の胸の鼓動──すべてが、この重く神聖な開放の瞬間に呼応している。
その瞬間、視界の端に動きが生まれた。
アヴェーラが、エスリンさんを先頭に、数十人の家政婦たちを引き連れて、鉄の扉の前に集結する。
「あら? 修道士様、何用に参られたのです?」
アヴェーラはにこやかに微笑みながらも、その視線は父の背中を鋭く射抜く。
お父さんはゆっくりと顔を上げ、馬車の上からアヴェーラを見据えた。
「お嬢様、代価を贖いに──。
この門を通して頂けますか?」
その声には、静かだが揺るがぬ意志が込められていた。
赤い紗の余韻、観音開きの玄関の重み、そして数十人の家政婦たちの視線──
すべてが、父の言葉を際立たせ、緊張感を増幅させる。
私は息を飲み、父の背中を見つめる。
あの一言が、すべての道の始まりを告げていることを、直感で理解していた。
「何用に参られたのですか、アレフ様?
そのような格好で?」
エスリンさんの視線は、呆れというよりも、
──「一体この人は何者なんだ?」
とでも言いたげな、訝しげな様相を浮かべていた。
馬車の上で父は静かに、しかし揺るがぬ姿勢を崩さず、視線をまっすぐ前に向ける。
赤い紗の余韻、観音開きの玄関、そして整列した家政婦たちの視線──
言葉にせずとも、その動きのひとつひとつが、ここから始まる行為の重大さを告げていることを、自然と理解していた。
「エスリンさん。神の御言葉が聞こえたのです。
『矜持を持て──』それだけでした。」
お父さんは静かに袖をまくり、手元のロザリオを握る。
そして、深い呼吸と共に十字を切った。
その動作には、ただの祈りや儀礼を超えた、揺るぎない覚悟と神秘的な重みが宿っていた。
馬車の揺れ、湿った光、整列した家政婦たちの視線──
すべてがその瞬間、父の行為を中心にして静止しているかのようだった。
私の胸もまた、緊張でぎゅっと固まる。
「あら──。また、昔の矜持にお戻りなられたと?」
エスリンさんは、微かに含み笑いを浮かべながら、父の表情を探るように問う。
「いえ──そうではありません。違う。」
お父さんは静かに、しかし明確な声で答え、エスリンさんの問いを切り捨てた。
「Quis es tu? Volo ut responsum afferas omnibus qui nos miserunt. Quem teipsum putas esse?」
(貴女は誰ですか。私達を遣わした人々に、答を持って行けるようにして頂きたい。貴女自身を誰だと考えるのですか?)
お父さんは馬車の上から、静かだが揺るがぬ声でアヴェーラに問いかけた。
その眼差しは鋭く、揺れる赤い紗や整列した家政婦達の視線すらも貫くかのようだった。
アヴェーラはしばらく考え込み、そして父を見やった。
「Ad stagnum Siloam i ad te missum lavare.」
(シロアムの池に行って、遣わされた者として、身を洗いなさい)
その言葉には、命令でありながらも、どこか儀式的な重みがあった。
お父さんは馬車の上で静かにうなずき、背筋を正す。
すべてが一瞬の静止の中で、開かれる門の存在を際立たせた。
アヴェーラがエスリンに視線を送る──
エスリンさんが他の家政婦達に手ぶりで促した。
鉄の扉──が開かれる。
聞き慣れたあの音を響かせながら、
私たちは馬車でアヴェーラの屋敷に乗り入った。
「おじさま、視えたのですか?」
アヴェーラは最後の問いを、静かに、しかし確かに父に向けた。
お父さんは一瞬、言葉をためらう。
そして、深く呼吸を整え、ゆっくりと口を開く。
「Si caeci fuissetis, peccatum non habuissetis. Nunc autem, quia dicitis vos videre, in eo peccatum vestrum est.」
(もし、貴女方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今──。貴女方が『見える』と言い張るところに、貴女方の罪がある。)
その声には、静かだが揺るぎない重みがあった。
馬車の揺れ、湿った光、整列する家政婦たち──
すべての空間が、お父さんの言葉を中心にして凛と張り詰めている。
私は胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じる。
──ここから、すべてが動き出すのだ。
馬車が屋敷の中へと進み出した。
太陽に照らされた影が沈む石畳の上で、車輪の軋む音が低く反響する。
すっぽりと──冷たい空気が馬車を包み込み、息をするのもためらわれるほどだった。
「閉門──」
低く重い声が響き、背後で鉄の扉が重々しく閉ざされる音が再び鳴った。
鋼鉄がぶつかり合う音が、屋敷全体に波紋のように広がる。
≪これで──六度目≫
ヴァルだけが、微細な音の変化まで正確に捉えていた。
無慈悲に、冷徹に、数字を刻むように心の中で確認する──
世界は今、音と影に閉ざされた。
Iam igitur… Tandem ad arcem pervenisti?
(さて──。ついに、根城にたどり着いたのか?)
Quid ergo posthac apparebit?
(さて、これから何が現れるのだろう?)
Magia incredibilis an artes mirabiles?
(突拍子もない魔術か、驚嘆すべき技か?)
Hoc vero nemo novit, nemo scit.
(それは真に、誰も知らない。)




