「魔術師は賽を手では振らない-封印編Ⅰ-」(In.Ⅱ)
暗闇に閉ざされた古の地底世界。
そこは、時すらも意味を失う場所。
三人の旅人が踏み入れたその瞬間、
永き眠りから目覚めた獣が、退屈な日々を終わらせるべく、新たな『遊び』を求めて動き出す。
「ぐぐり」、と湿った岩肌が軋む音が洞窟内に木霊した。
苔むした古びた石扉は、時の流れに呼応するかのようにゆっくりと、誰の手も借りずに軋みながら開かれた―。
風はなく、重く湿った空気が、開いた隙間から這うように流れ込む。
永久に閉ざされた扉の奥、時を経て燻り、熟成した麝香の様な香り。
それは、遥か昔より隔絶され、すべてを閲した「モノ」の気配であった。
「……応じおったか。まったく、気まぐれな封印じゃ」
杖を突きながら、ヴィネリがゆっくりと進んていった。
白髪をまとめた後ろ姿には、年輪の重みと、なお抜けぬ威厳がにじんでいる。
彼女が掲げた掌の上には、小さな光の玉――魔術による灯が揺れていた。
「もう少し、照らしておきましょうかの」
静かな声と共に、追加の光球がふわりと浮き上がる。
老女の指先から魔力が静かににじみ出し、洞窟内の天井と壁を淡く照らす。
だが光は強くはならない。
ヴィネリの意志で抑えられているのではなく、むしろ“この地”の力が、光を拒んでいるようだった。
「ふむ……やはり、封じが緩んでおる。地脈もざわめいておるしな……」
そう呟きながら、ヴィネリは指で二つある光玉の一つを突いた。
ヴィネリの低い声と共に、指で突いた光球が、じわりと強く輝き、大きい玉となった。
熱を持たない魔力の光の大玉が、彼女の指揮棒たる指先に導かれ、私達のいる洞窟の通路を奥へと浮遊していく。
それは、行く手を照らす尖兵。暗闇に閉ざされた空間の輪郭を鮮やかに映し出していく。
光は闇の深淵に抗うかのように、か細く震え、しかし決して退くことなく洞窟の奥を照らした。
不安定に揺らぐ光が、濡れた壁面や岩棚に影を生む度、**「何か」**が這い寄ってくるかのような錯覚に、私達は身構えた。
私達は一歩ずつ足を踏み入れた。
「広い……」
天井は高く、壁面は岩がねじれたように湾曲している。
だが、光球の照度では先の全貌までは見えず、闇がすぐそこに口を開けていた。
カイルが続くと、ヴィネリが光球を少し浮かせる。
空中を漂うそれは、強弱を伴いながら三人の頭上を照らしていくが――
「……うわっ、眩し……いや、暗くなった?」
カイルが目を細めた直後、光球が突如、ちらついた。
バチリ、と魔力の揺らぎが空気を打ち、しばし光がぼやけて乱れる。
「洞窟内の魔力干渉……地脈の影響か、封印の漏出かもしれんな」
ヴィネリはゆっくりと歩みを止め、手にしていた杖を私に差し出した。
「ちと、預かっておくれ。落とさぬようにな」
私が戸惑いながらもそれを受け取ると、ヴィネリは両の手をわずかに掲げた。
手のひらの上で、左右に浮かぶふたつの光球――淡く揺れる光が、ぴたりと静止する。
「……灯の心を、一つに」
その小さな呟きと共に、ヴィネリの指先がゆるやかに動いた。
まるで糸を手繰り寄せるような慎重さで、左右の光球を掌の中に導き、そっと触れ合わせる。
すうっ――という音が、確かにあった。
空気がひとつに吸い込まれるように、ふたつの光が重なり合い、静かにひとつの球へと溶け合っていく。
統合された光は、先程よりもわずかに大きく、そして密度を増していた。
その光が放つ淡い輝きは、洞窟の闇に押し返されるような柔らかな強さを持っていた。
再び穏やかな光が空間を満たしたが、その明るさは、この空間に巣食う闇を追い払うにはやや心許ない。
「どこかが……呼んでる。そんな感じがするの」
私が呟いた。
言葉にした瞬間、光球がふ、とわずかに沈んだ。まるで応じるように。
その“揺らぎ”の合間。
灯りの縁に、誰かが立っていた。
黒い影。輪郭だけの存在。だが、その佇まいは――
「……ヴァル?」
私は反射的に呼びかけた。
返事はない。だが、彼女の中で確かに“あの声”がした。
【ケヒヒッ……おいおい、久々に呼ばれたってのに、もうお開きかい? また、俺をこんなところで寝かしつけるつもりかよ? せっかく美味いモン食えたってのに、もうおしまいか? そりゃあんまりじゃねぇかぁ?】
黒い影は、まるで水に滲む墨のように広がり、やがて霧となって消え去った。
光が戻ったとき、影はもういなかった。
「……ナーレ。お前にも、今の幻が見えていたのかい?」
ヴィネリは、私の肩にそっと手を置き、静かに問いかけた。私は、ただ静かに頷くしかなかった。
「カイル。よく聞きな」
ヴィネリは私から杖を受け取り、ぎゅっと握りしめった。
「カイル。お前には見えなかっただろうが、儂とナーレは奴を確かに見たのだ。あれは、ただの幻聴や幻視ではない。この洞窟の奥深くで眠りについていた獣が、ついに目を覚ました。もはや、後戻りはできんぞ」
カイルは、ヴィネリが口にした**「後戻りはできんぞ」**という言葉の重さを、ぼんやりとではあるが理解した。
この先に待つ困難は、自らが率先してこの道を選んだ結果でもあった。
だが、獣が既に目覚めているという事実は、彼の漠然とした覚悟を遥かに超えていた。
カイルの剣を握る手が微かに震えた。
「……この洞窟から、出られなくなるってことですか?」
カイルの問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。
だがその時、不意に――私の耳にだけ、ぞっとするような声が響き渡った。
【ヒヒッ……その通りだぜ、嬢ちゃん。お前さんが“積むと決めたんだからなぁ】
冷たい声だった。耳元で囁かれたはずなのに、皮膚の奥まで冷気が染み込んでくるようだった。
私は、声の意味を理解するなり、ぴたりと動きを止めた。目を見開いたまま、言葉を失う。
「……ッ!」
その顔は瞬く間に血の気を失い、蒼白になっていく。
“積む”――あの時、自分が選んだ小さな行動が、これほどの重さを持っていたのか。
返事を、返さなければ。
何かを言わなければ――そう思ったその刹那。
――ゴゴォォォ……。
洞窟全体が、低く、重たく唸りを上げた。
地の底から何かが蠢くような、鈍い震え。その場の空気が痙攣し、洞窟の天井が軋む。
「っ、揺れる――!」
直後、足元を突き上げるような激震が走る。
誰かが悲鳴をあげるよりも早く、背後の通路が崩れ始めた。
轟音が洞窟を貫いた――!!
耳を劈くような響きが壁に反響し、空気そのものが震える。
頭上の岩肌が軋みを上げ、バラバラと崩れ落ちる破片が、乾いた音を立てて地面に叩きつけられる。
次いで、巨大な岩塊が鈍い唸りを上げながら、ずるずると滑り落ちてきた。
粉塵が濃密に立ち上り、視界はみるみる白く霞んでゆく。
私は思わず口元を袖で覆い、咳き込みながら後ずさった。
ヴィネリの光玉も、巻き上がった土煙に包まれて、ぼんやりと滲んで見える。
そして――。
来た道の入口が、岩の奔流によって一瞬で塞がれた。
数秒後、後ろにあったはずの“道”は、もはや何も見えなくなっていた。
天井から崩れ落ちた岩々が、容赦なく通路を埋め尽くし完全に遮断された。
背筋をなぞるような薄い恐怖が、崩れた静寂の中に忍び込む。
森閑とした洞窟には、崩落の余韻が静かに木霊していた。
三人は互いの無事を確かめ合った。
足元に転がる小石を払い、私が立ち上がる。
壁際には粉塵が漂い、光の玉が揺らめくたび、その影が長く洞窟の壁を這っていく。
「……先、もう行ける?」
カイルが前方を見やりながら問いかけた。
だが、見える範囲には――岩の山。やはり、あちらの通路も塞がれてしまっていた。
「くそっ……どっちも閉じ込められたってわけか」
唸るようにカイルが言い、拳で岩を叩く。鈍い音が洞窟に返ってくる。
「落ち着け。無闇に騒げば、残りの天井まで崩れぞ」
ヴィネリの声は低く静かだった。
光玉の揺れを制御するように、その手をゆるやかに掲げながら、彼女は壁際をゆっくりと見て回る。
「……どこか、空気の通ってる場所がある。匂いが違う。こっちじゃ」
ヴィネリの指が指したのは、崩落の影で見えづらかった壁の窪みだった。
私が近づいて確かめると、そこには岩の裂け目――地震の衝撃で生まれたのだろう、細く奥へと続く縦の割れ目が走っていた。
湿った岩肌がぬめり、隙間からはかすかに冷えた空気が流れ出している。
「……通れる、かも」
私が呟くと、ヴィネリが頷いた。
「這って進めば、何とか抜けられかもしれぬ」
三人は順に、慎重に身を低くしてその隙間に身体を滑り込ませていった。
ざらつく岩壁に手をつき、肩や背をすぼめながら、湿った地を這うようにして前へ前へ――。
先に進む度、風の流れが僅かに強まり、どこかへと導かれているような感覚が背を押してくる。
やがて、視界がぐっと開ける。空間は一気に広がり、先程よりも天井の高い、ほぼ球形に近い巨大な空洞に出た。岩肌は滑らかに削られており、人工的な意図すら感じさせる。
そして、その最奥――正面には。
金属とも石ともつかぬ、異様な扉が静かにそびえていた。
ただ、開いていた。
ゆっくりと開ききったその扉の奥には、黒い床と、仄かに揺れる魔術灯が点々と続いている。
扉の奥に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
踏みしめる黒い床は、岩ではなかった。
滑らかで、吸い込まれるような質感がある。
触れる度、微かに波紋のような反応が生じるそれは、まるで“生きている”かのようだった。
魔術灯は規則的に並び、空間を幽かに照らしている。
だが、その光は温もりに乏しく、青白い焔がじわじわと壁面を舐めるように揺れていた。
光源の中心は何かの結晶か、それとも封じられた魂か――正体は知れない。
ヴィネリが立ち止まり、私の肩をぽんと軽く叩く。
老婆の目は、奥へと続く通路ではなく、天井をじっと見つめていた。
「……感じるかい。上じゃない、下でもない。ここじゃよ。この“空間”そのものが、脈打っちょる」
確かに――音はないのに、どこかで何かが呼吸しているような気配がある。
圧迫感。静けさが逆に、耳を軋ませる。
カイルが呟く。
「ここ……本当に、人の手で造られたんですか……?」
私は答えられなかった。ただ、背筋を伝っていく不穏な気流に、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じる。
奥へ続く道は、真っすぐだった。
両側に聳える壁には、無数の文字が刻まれている。古い文字のようだが、その意味は掴めない。
が、その意味を知らずとも――“警告”であることだけは伝わってくる。
読む者の脳髄に、意味以前の拒絶が走る。
そして、突き当たり。
光が届かぬその先、深い暗がりの中に、巨大な“気配”がじっと息を潜めていた。
暗闇からゆっくりと起き上がった巨大な獣は、まるで長い退屈な時間を弄びすぎて飽き飽きしているかのように、淡々とした口調で話し始めた。
【ふぅ……やれやれ、やっと来たのか。まあ、待ちくたびれたぜ、嬢ちゃん達。】
ゆるりと口元を緩めて、鋭い牙をちらつかせる。
【ここで独りぼっち、暇を持て余すのも悪くないが……正直、誰か遊んでくれないと、どうしようもなくてな。】
獣は地面に重く体を預け、微睡みじみた声を漏らす。
【お前ら、せっかくだから、少しは愉しませてくれるよな?】
その言葉には、どこか妙な期待と退屈さが混ざっている。
まるで、儚い残響を紛らわせるための“遊び相手”を探し求めているかのようだった。
カイルが警戒しながら一歩踏み出す。
「……俺達を遊び道具にするつもりか?」
獣はしばらく静かに三人を見つめていたが、やがて低く笑った。
【遊び道具、だと? ククク……まあ、今はそうかもしれんな。
だが、この俺の退屈を潰すなら、それも悪くない。】
【ヒヒッ……さあて、どうするよ? 本気で俺を楽しませるか、それともこのまま退屈な世間話でも続けるか……お前らの好きにしろよ】
そう言って、獣はのっそりと前脚を伸ばし、狭い洞窟の空間を大きく揺らした。
その動きには、どこか子供じみた遊び心と、退屈に苛まれた大いなる力の危うさが混じっている。
「……遊びに付き合ってやるよ。どうせ、ここからは出られないんだろ?」
カイルは挑戦的な目を向け、一歩前へ踏み出した。彼の言葉に、獣は満足そうに口角を歪めた。
「ヒヒッ……そうこなくっちゃ面白くねぇ。いいぜ、遊んでやるよ。だが、俺は男と年寄りは嫌いでねぇ。どうにも食えたもんじゃない」
「食えたもんじゃない、だと? どういうことだ!」
カイルは剣の柄を強く握りしめ、獣の言葉に怒りを露わにした。その声には、侮辱されたことへの苛立ちと、得体の知れない存在への恐怖が入り混じっていた。
【ククク……知りたいか? 知りたいだろうな。お前達のような男や年寄りは、脂が乗っていない。美味い『魂』の味がしないのさ】
獣は喉を鳴らしながら、その言葉の真意を突きつけた。
「魂の……味?」
カイルは思わず言葉を失い、凍りついた。獣が彼らを単なる遊び相手ではなく、食料として、しかも魂そのものを狙っているという事実に、背筋に冷たいものが走った。
【ケヒヒッ……そうだ、魂の味だ! お前らの腹ん中にある、ドロドロした、腐りかけた、脂の塊みたいなモンだよ! 男の魂は錆びた鉄みてぇに酸っぱくて、ババアの魂は砂漠の砂みてぇにパッサパサだ! おまけに不味くて、吐き気がする! だがな……】
獣は爛々と目を輝かせ、ねっとりと舌なめずりをした。
【だがなぁ……若い女の魂は別腹よォ! 蜜みてぇに甘くて、血のように赤く、そして何より味が濃い! 今までどれだけ食ってきたか、思い出すだけで我慢できねぇぜぇ!】
獣の瞳が赤く燃え上がり、よだれ混じりの唇が歪んで歯をむき出す。
その声は低く、震えながらも凄まじい迫力を放ち、洞窟の壁を震わせた。
よだれに濡れた顎、貪欲にぎらついた相貌が、ナーレにぞくりと向けられた。
「食わせろよ! お前の運命を、狂おしい程に狂わせてやる――
喰らい尽くして、骨の髄まで貪り尽くすんだ!
そいつらも、ずたずたに引き裂き、血まみれの花束をお前に捧げる!
はははは……これが、俺からのお前への贈り物だ――!」
狂気の笑いが空間に響き渡り、まるで獣そのものが破滅の化身と化したかのようだった。
『魔術師は賽を手では振らない-封印編Ⅰ-』をお読みくださり、ありがとうございます。
この物語は、ナーレという少女の何気ない行動が、遠い過去に封印された獣の運命と交差することで動き始めました。
カイル、ナーレ、ヴィネリが立ち向かうことになったのは、ただの怪物ではありません。
それは、退屈という名の狂気を抱え、他者の運命を弄ぶことを愉悦とする、恐ろしい存在です。
物語は中盤戦の様な呈を成して、彼らは後戻りのできない状況、
文字通り、命がけの「遊び」に巻き込まれていきます。
この先、彼らの運命はどのように狂い、どのような結末を迎えるのか。
そして、獣が望む本当の「遊び」とは一体何なのでしょうか。
次なる展開に、どうぞご期待ください。




