「喪われた三枚銅貨-調査編Ⅳ-」
風見鶏の根元に、三つの影が並んで座っていた。
フィーネが口を開いたのは、私の報告がひととおり終わってから、しばらくの沈黙のあとだった。
「……ひどいな。そこまでして……賭けて、騙して、それでも“家族の為”だったとか、言い訳になる?」
彼女の声には怒りと戸惑いが混ざっていた。けれど、そのどちらも純粋で、まっすぐな気持ちからくるものだった。
「フィーネ……」私が、静かに名前を呼ぶ。
「確かに、やっちゃいけないことだった。イカサマも、借金も、みんな、誰かを傷つける行為だと思う」
それでも、と彼女は視線を落とし、小さく息を吐いた。
「でも、私、思うんだ……」
月明かりの下、私はゆっくりと言葉を紡いだ。
「知らないままだと、きっとオルウェンさん――あの人、あの夜のことを“嘘のまま”抱えて生きることになる」
アヴェーラが顔を上げ、目を見開いた。
「……“嘘のまま”?」
「うん。キーランさんがどんな気持ちで、それをしたのか。全部知らずに、ただ裏切られたって思って……それで終わっちゃう」
風が静かに三人の間を通り抜けた。
「でも、私は見た。あの人、誰にも言わずに、ずっと苦しんでた。……奥さんに、銀で編んだ花の冠を贈ろうとしてた。自分の背丈には合わないくらい、きっと無理して、でもそれでも……届けたかった気持ちが、あったんだって」
フィーネが目を伏せた。彼女の長い髪が風に揺れ、小さく揺らいだ声が落ちた。
「……じゃあ、それを知ったオルウェンさんは……どうすると思う?」
「わからない」私は首を振る。「赦せないかもしれない。怒るかもしれない。全部、崩れるかもしれない」
その言葉に、三人とも息を呑んだ。
だが、私の目だけは揺らがなかった。
「それでも、ちゃんと知ってほしいの。……嘘と裏切りの奥に、“本当にあった想い”があったってことを」
アヴェーラが、そっと私の肩に手を置いた。
「……ナーレ、あなたはやさしいね」
「やさしさだけじゃないよ」私は微笑んだ。「私も、すごく迷った。でも、あの人の背中を見た時……『伝えなきゃ』って、そう思ったんだ」
その横で、フィーネも肩をすくめ、小さく苦笑いを浮かべた。
「……あーあ、ズルいな。あんたのそういうとこ。泣きそうになっちゃうじゃん」
アヴェーラも目元を指で拭いながら、やわらかく頷く。
「伝えましょう。ちゃんと、全部を。オルウェンさんがどう受け取るかは……彼女に任せましょう」
私は頷き、三人は夜の風の中、しばらく静かに空を仰いだ。
風見鶏が、またひとつ、向きを変えた。
それはまるで、心の向きが少しずつ変わっていく様にも思える。
風が止んだ。
風を受けて揺れていた風見鶏も、きぃきぃと最後の音を鳴らし――
やがて、静かに動きを止めた。
ふと、それに気づいたのは私だった。
沈黙の中、私は小さく息を吐く。そして、ぽつりと口を開いた。
「……けれど、私たち、見たわけじゃないんだよね」
フィーネとアヴェーラが、同時に私の方を見た。
「なにを?」
「“あの花の冠”を、キーランさんが受け取るところ。
……キーランさんの手に手渡されたって確実な証拠を」
言葉に、二人の表情が凍る。
「え、でも――」フィーネが反論しかけたが、私は静かに首を振った。
「確かに、それっぽい話は拾えたよ。
冠のことも、支払いの話も、帳簿の矛盾も……全部、繋がって見えた」
私の声は落ち着いていた。
けれど、その瞳の奥には、迷いと責任が滲んでいた。
「だけど、それは“可能性の積み重ね”にすぎないの。
……“事実”とは、まだ呼べない」
アヴェーラが黙って頷いた。
彼女は、私の言わんとすることを、すぐに理解したようだった。
フィーネが視線をそらして、やや声を強める。
「でも、あの人の気持ちは本物だったんだろ? だったら――」
「“気持ちが本物だった”って、誰が決めるの?」私の声が割って入る。
「私たち? それとも、オルウェンさん?」
その問いに、三人の間の空気がぴんと張った。
「今すごく迷ってる。信じたい。
でも、これを“真実”として伝えるには、何かが足りない。
もっと確かな、……この手で掴んだ“答え”が欲しい」
アヴェーラが静かに目を閉じる。そして、ぽつりと言った。
「つまり……もう一歩、踏み込まなきゃいけないってことでしょうか?」
私は頷く。
「だから、キーランさんを追わなきゃ――見失う前に」
フィーネも、アヴェーラも一瞬だけ目を見交わす。
けれど、止める言葉は誰の口からも出なかった。
「……たしかに、今のままじゃ、ただの“情報”でしかないわ」
アヴェーラが低くつぶやく。
「その花の冠を……キーランさんが受け取るのを。
……その瞬間を、見届けなくては」
アヴェーラの声はかすかに震えていた。
それは、単なる確認じゃない。
たしかに目で見て、心で受け止めるための――覚悟だった。
「うん、まだ“鍵”がかかったままなんだよ、全部」
私は小さく頷いた。
「見たことのない“事実”だけじゃ、気持ちが置いてけぼりになる」
私の声は、どこかもどかしげだった。
「だから……ちゃんと見届けなきゃ。自分の目で、心で」
少しの沈黙の後に、私は振り向いた。
「――だから、行こう」
フィーネ、アヴェーラもようやく歩を踏み出す。
「そうだな、あの人が罪を犯した理由が、本当だったのかどうか――確かめよう」
「そうですね、ここまできたら、皿までもですわ」
三人は、静かに夜の道を駆け出す。
酒場を後にした男の影を追って、
“銀でこしらえた花の冠”が、どこで、どんな風に受け渡されるのか。
その代金が、どんな手で支払われるのか――
目指すは――キーラン。
今彼が向かうとすれば、可能性が高いのは一つだけ。
港の場末にある古びた倉庫。
潮の匂いと錆びた鉄の香りが混ざるその場所は、
昼でも人影がまばらで、夜ともなれば、誰も足を踏み入れない。
「たぶん、あそこだと思う」私が呟いた。
「以前、あの男と話してた――ほら、煤けた麻の上着を着た、粗末な身なりの人。夕暮れの頃だった」
「覚えてる。あれは、取引の途中に見えたわ」フィーネが頷く。
「それも、ただの買い物じゃない。……隠すようにしていた」
「でしたら、その続きを……今、確かめに行くのね」アヴェーラの声は、
どこか静かで、でも揺るぎなかった。
倉庫の外壁に沿って、三人は息を潜めながら歩いた。
風は止み、あたりはひどく静かだった。
夜の帳がすでに降りかけており、港の街灯も心許ない。
倉庫の隙間から漏れる微かな光を頼りに、私が壁際に手をかける。
「ここ……少し、開いてる」
私はそっと、古びた木戸の隙間から中を覗いた。
フィーネとアヴェーラも、順に肩を寄せる。
倉庫の中は薄暗く、湿気を帯びた埃の匂いが漂っていた。
隙間から漏れる月灯りの筋が、古びた木箱の上に影を落としている。
キーランは一人、その箱の前に立っていた。
向かいに立つのは、黒いフードを深くかぶった男――
その顔は見えない。だが、この男が“取引相手”だということだけは確かだった。
「金は……持ってきたか?」
フードの男が、低く問いかける。
キーランは無言のまま、腰の革袋を外し、天板の上に置いた。
袋の中には、ずっしりと銀貨が詰まっている。
じゃらり……
金属音が、倉庫の静けさの中に重く響いた。
「これで最後の支払いだ」
フードの男は袋の口を開け、中身をざっと確かめると、ひとつ頷いた。
「……たしかに受け取った。約束の品だ」
男は脇にあった小箱を引き寄せると、蓋を開け、中から何かを取り出した。
――それは、銀糸で丹念に編まれた、小さな花冠。
繊細な細工が施されており、一目で贈答品と分かる品格があった。
だがキーランは、すぐには受け取らなかった。
代わりに、腰から銀貨を一枚取り出し、そっと冠の縁に打ち当てた。
――チン……。
澄んだ金属音が、静かに響く。
キーランは花冠を手に取り、目を伏せるようにして小さく息をついた。
「……銀に偽りなし、か」
フードの男が、やや皮肉めいた声で問う。
「気は済んだか?」
キーランはしばし黙ってから、静かに答える。
「ああ。……これでようやく、贈れる」
彼の手には、花の冠。
――それは、決定的な瞬間だった。
「証明された……全部、ほんとだったんだ……」
私の目が潤む。
知らず、胸の内に溜め込んでいた重しが崩れていくのを感じた。
誰かを疑うことの苦しさ、
心の奥に渦巻いていた葛藤、
それらが一つの真実によってようやく光の中に曝された。
――カシャン。
乾いた音が、倉庫の片隅に響いた。
ほんの小さな音だった。
古びた樽が傾いたのか、
それとも石ころを踏んだ音か。
しかし、その場にいた二人の男には、雷鳴にも等しく響いた。
キーランの手がピタリと止まる。
フードの男の背が、わずかに強張った。
空気が、瞬時に変わった。
「……今の音、聞こえたか?」
フードの男が低く呟く。その声には、確かに警戒の色があった。
「……誰か、いるのか?」
キーランの声は掠れていた。
恐れよりも、むしろ焦りが混じっている。
ここで“何か”が知られれば、
全てが水の泡になることを、
彼はよく理解していた。
フードの男がキーランに促す。
「……受け取れ。そして、ずらかれ。今すぐだ」
フードの男が低く、しかし鋭く告げた。
「言っただろ。“最後”だ。商品も手に入った。――後腐れは、無用だ」
キーランは短く頷くと、手にした包みをしっかりと抱えて立ち上がった。
その背には、言葉にできないほどの重みが乗っているように見えた。
そして、倉庫の裏口へと駆け出し、夜の闇の中へと姿を消していった。
倉庫には、再び沈黙が落ちる。
だがそれは、長くは続かなかった。
フードの男がゆっくりと振り返り、音のした方へと歩みを進める。
軋む床を踏みしめるごとに、倉庫内に張り詰める空気が強まっていく。
――三人は、物陰で固まっていた。
私の肩が、ぴくりと震える。
アヴェーラの手が、無意識にフィーネの袖を掴み。
フィーネは唇を噛み、目を閉じた。
息も、心臓の音も、今は全てが大きすぎる。
――まずい。
――近づいてくる。
――見つかる。
――逃げなきゃ……!
三人は反射的に身をひそめた。
軋む扉の隙間から、薄暗い倉庫の内部を覗き込む。
息を潜め、互いの手を握るようにして、静かに鼓動を抑える。
足音が止まった。
――気づかれた?
重たい沈黙が空間を満たす。
倉庫の奥、黒いフードの男が、わずかに首を巡らせる。
その動きは、静寂の中でやけに大きく思えた。
そして、男の声が響いた。
「……そこにいるのは、誰だ?」
声は低く、だが鋭く、空気を切り裂くように届く。
その瞬間だった。
「パキィ」
乾いた音が、場の緊張を決定的に破った。
私の足元で、小さな木片が踏み割られた。
まるで氷の薄皮を踏み抜いたかのように、軽く――、
だが絶望的に。
男の視線が、はっきりとこちらを捉えた。
フードの男の視線が暗がりを射抜いた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……今夜はやけにうるさいと思えば――」
男はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「……迷いネコが三匹も、とはな」
その声音には、怒りではなく、
どこか楽しんでいるような嘲りが滲んでいた。
私が息を呑む。
フィーネが無意識にアヴェーラの手を握った。
次に何が起こるのか、誰にも分からない。
フードの男の足音が、再び静かに響く。
一歩、また一歩と、まるで獲物に近づく猫のように。
「……ここで何をしている? お嬢さん方」
木箱の影に身を隠したまま、三人は答えられずにいた。
返事をしたところで、事態が良くなる保証はどこにもない。
物陰から不意に姿を現した私が、一歩だけ前に出て言った。
「わ、私たちは……見届け人。依頼されただけです。
取引の証人を――ほら、商売敵の差し金、ってやつ」
口にした瞬間、自分でも無理があると感じた。
だが言うしかなかった。背後のフィーネとアヴェーラが息をのむ。
フードの男はしばし沈黙し、やがてゆっくりと首をかしげた。
「……証人、ね?」
低く笑うように言ったその声には、微かな嘲りが混ざっていた。
「なら、何故倉庫の外で“猫のように”隠れていた? 堂々と正面から来ればよかったはずだ」
私の喉がごくりと鳴る。返す言葉が、ない。
「それに――証人を送るほど、この港で俺を敵に回す店があるなら……
そいつの名を、まず聞こうじゃないか」
彼の目が鋭くなり、私たちを射抜いた。三人の背中に、冷たい汗が流れる。
言葉が詰まった瞬間、私が小さく呟いた。
「……ダメ、完全に見抜かれてる……!」
私がそう呟いたそのときだった。
フィーネが足元に転がった石に目を留めた。
しゃがんで素早く拾い上げ――
まるでそれがずっと手に馴染んでいたかのような自然さで、右手に構える。
「な、なんでもいいから走れっ!」
フィーネが声を張り上げ、物陰から飛び出した。
驚いたフードの男が一歩退いたその瞬間、フィーネが小石を一斉に投げ飛ばす。
それは絶妙にフード男の顔をかすめ――一瞬、彼の視界を逸らせた。
「まったく……そういうのは私の役目なんだけど!」
私も苦笑しつつ、両手いっぱいに倉庫の古布を放り投げる。
舞い上がった布の雨が、視界をさらに覆った。
「こっちですわ!」
アヴェーラが叫び、三人は倉庫の隙間をすり抜けるようにして、一斉に駆け出した。
フードの男の怒声が背中を打つ。
「待てっ、貴様らァッ!」
だが、港町の倉庫地帯は迷路のようだ。
夜の帳が降りた中、狭い路地に身を潜めながら、三人は何とか息を整えた。
「……ひ、ひゃあ……久しぶりに心臓飛び出すかと思った……!」
フィーネが地面に座り込んで苦笑する。
「でも――見たよね」
「あの冠、銀の糸で編まれてた。……キーランさんは本当に、渡そうとしてたんだ」
私が静かに言う。
「……なのに、どうして隠してたんでしょう。あんな場所で……」
アヴェーラの声が、港の風に消えていった。
「誰にも知られたくなかったんじゃない?」と私が低く返す。
「奥さんにすら、言えなかったことかも……」
「でも、あれ……綺麗だったよ」
「銀の花の冠……本当に、奥さんに渡すつもりだったんだね」
フィーネがぼそりと呟いた。
私は唇を噛み、目を伏せた。
――それが本当に「愛」なのか、それとも「贖罪」なのか、まだ分からない。
…………けれど、確かにキーランの手は、震えていた。
キーランの選択は、正しかったのでしょうか?
彼の行動には、どこか矜持が見え隠れしていたように思います。
誰にも語らず、誰にも誇らず、それでも、彼なりの「正しさ」を貫こうとした。
それは、愚かさと紙一重の誠実さだったのかもしれません。
彼が選んだのは、救いでもなく、赦しでもない。
ただ、「贈る」ということ。
過去に負った痛みの清算を、自分なりのかたちで終わらせようとする姿に、
ナーレ達は何を感じたのか――
銀で編まれた花の冠は、証でした。
彼の罪でもあり、愛でもあり、祈りでもあったのでしょう。




