「時間よ! 逆巻け!」
俺は──その日の営業を“終了”させた。
首に取り付けられた時限爆弾でさえ、だんまりを決め込んでいた。
極致に至ると、人は何も考えたくなくなるらしい。
俺でさえ、思考を停止してしまっていた。
俺は、引力に引きずられるように、塵芥となり果てていた。
部長にあらかじめ渡しておいた辞表の効力が、ようやく、遅ればせながら発揮され始めたのだ。
にじり後ずさるような想いと共に、俺は帰社したのだった。
あの老婆の言葉が、頭から離れなかった。
「王は常に独りなのです。私も、王に添い遂げるつもりです。」
俺に、添い遂げたいと願い出る乙女など存在するのか?
そんな物好きがこの世にいるなんて、考えたこともなかった。
何せ俺は──道化師なのだから。
誑かすことしかできない、
お道化るしか能のない。
屑ゆえに、土瀝青にへばりついたままの存在。
俺は、トボトボと支社のラウンジにたどり着いた。
そこでは部長が仏頂面で、缶コーヒーを片手に休憩していた。
「よう、夏枝──やっと帰ってきたか」
そう声をかけられ、俺は苦虫を噛み潰したような顔で応えた。
「その様子だと──やっぱり駄目だったんだな」
部長は、諦めとも、悟りともつかない目で、俺の顔を覗き込む。
俺は、ただ俯くばかりで、言葉も出なかった。
今、矢面に立っている俺が、いかに駄目であるか、
まるで “二重” に称されているような感覚すらあった。
「約束したはずだぞ……夏枝。明日から、もう出勤しなくていい」
その言葉は、痛みを伴って俺の体を貫いた。
魂までもが、貫かれた。
「はい、部長──皆さんに、お世話になったとお伝えください」
それしか、もう俺には言えなかった。
「皆に挨拶しないのか?」
部長の問いに、俺は黙って目を逸らした。
「お前の気持ちも、理解している。皆には、きちんと伝えておくよ」
部長は全てを理解していると言わんばかりに、
缶コーヒーをゴミ箱に無造作に放り投げた。
「はい、部長……お騒がせして、すみませんでした」
俺が言えるのは、謝罪だけだった。
どのように責任を取ればいいのか。
それは、会社や部長にも関わることなのに、──俺は、もっぱらこれからのことばかりを考えていた。
(明日から、どうするべきだろう……)
どうにかなると思って、まったく身の振り方を考えていなかった。
職安のことだって、どうするか未定だ。
(明日からバイトでも……パートでも探すか。どこか、無いかな……)
俺は、ゆっくりと家路をたどっていた。
遠くから響くエキゾースト音や電車の通過音が、やたらと耳障りに感じられる。
事あるごとに、「お前は無能」「お前は屑人間」
──自動販売機や電柱でさえ、今の俺を罵倒してくるように思えた。
それは、どこか狂気じみた群青色に溶けた、
あの沈みきった太陽のように、俺自身も狂ってしまったかのようだった。
夏の夜は、独特のオーラを纏っている。
この季節特有の異様な陽気に孕まれ、じっとりとした愛情に、俺は包まれていた。
その、じっとりとした愛情が、風に乗って囁いた。
「さぁ──すべてを、なかったことにしましょう」
俺は、そんな狂った愛情を、心から欲しがった。
大気の死神に抱きしめられ、欲しいままにされて、あなたのその高みに舞い上がって、
俺は粉々に砕け散ってしまいたかった。
全てから解放され、この因果に身を預けたいと、強く願った。
そんな妄想を抱えながらも、俺は自宅近くの路地にさしかかった。
目と鼻の先にまで迫った家の前、ポストにひらひらと風に揺れるものが見えた。
(なんだろう?)
よく目を凝らして近づいてみると──
それは、ポストの投函口からはみ出していた一枚のチラシだった。