「明白なカンバスに転写されしモノ」(In.Ⅱ)
ナーレの誕生日は、決して祝福されるようなものではなかった。「自身の幼少の話」、「悪魔付き」、「選別の儀」――
それらはすべて、彼女の知り得ぬところで決まっていたことだったからだ。
父は、昨年の出来事が深く心に残っていたのだろう。不安に駆られて畑と倉庫の確認へと出かけたきり、もう一時間半も帰ってきていない。
雷鳴を孕んだ黒雲はいまだ空に繋がれたまま、まるで動く気などないかのようだ。
木々たちは突風に煽られ、身を寄せ合いながら、この時をやり過ごそうとしていた。
――いや、それはまるで、「その時」が来ないようにと、風の中で見悶え、乱舞しているようにも見えた。
窓はたびたび、「明白なカンバス」となって、外の情景をナーレの心に焼き付けてゆく――。
湿った空気は、いまだ明確な答えを与えぬまま、
ナーレの傍らに、ただ在った。
年を経て、苔むしるほどの“モノ”が、来るのを静かに待ち侘びているように。
誰もがその姿を目にしているはずなのに、
宵闇に鎮座する“それ”が、ようやく重い腰を上げた。
ナーレとアリフが掃除に追われている頃――
雨に湿った大気が、どこか不穏な兆しを帯びはじめていた。
食卓の東側にある窓から見える風景では、霧雨だった雨が細く糸のような雨へと変わり、
闇夜の空には一層の紗が重なっていく。
やがて黒い雲たちが空の上で互いに手を取り合うように集まり、
一つの塊となって唸り声をあげると、あっという間に土砂降りへと変わった。
そのとき、耳を劈くような雷鳴が轟き、
全てを白く焼き尽くすかのような稲光が闇を裂いた。
一瞬、世界が稲光に切り取られ、
土砂降りの中に存在する“モノたち”の姿が、純白のカンバスに描かれたように浮かび上がる。
――まるで世界が、ほんの数秒だけ切り取られて別の時間に存在したようだった。
「あらやだ!? 雷……!」
お母さんの声に、私は幻のような情景から現実へと引き戻された。
「大丈夫さ。落ちたとしても、引火はしないよ――この雨ならね」
お父さんはそう言いながらも、ずっと天井を見上げている。
雨が火を消してくれる可能性があったとしても、
木造の我が家が雷に耐えられないことは理解していた。
お父さんは窓のそばまで歩き、ふと立ち止まる。
「去年の秋、倉庫が半焼したのは記憶に新しいな……でも、あの時より雨足は強いみたいだ」
強がるような口調とは裏腹に、彼の足元は落ち着かず床をとんとんと踏み続けていた。
私はその様子を見逃さなかった。
「あの時、家も石造りにしておけばよかったわね……悔やんでも仕方ないけど」
「そうだな。……とにかく、ナーレの誕生日を始めよう」
外では雷鳴が響き続け、
内でもどこか落ち着かない空気が流れる――
そんな三者三様の思いの中で、ナーレの誕生日は始まった。
今回は、少しホラー寄りの展開となりました。
ナーレというキャラクターが抱えてきた「見えないものへの不安」や、「過去と自分とのずれ」が、形を持って部屋に侵入してくる……そんなイメージで描いています。
“何かが来る”という感覚は、子供のころ誰もが一度は味わったことのある、説明できない恐怖かもしれません。
視界の端にちらつく影、閉めたはずの窓、――それらはすべて、ナーレの心に巣くう「存在しないはずのもの」の投影でもあります。
この「転写された情景」が、彼女の中の何かを暴き、揺さぶっていきます。
ナーレの誕生日、それは本来祝われるべき日だったはずなのに、
彼女にとっては、何か“それ以外”の意味を帯びた日でもあったのかもしれません。
人は、自分の記憶や理解の及ばない何かが、
静かに傍にあったと知ったとき――どこまで冷静でいられるのでしょうか。
今回のお話では、
「視えないものに見られている感覚」、
「当たり前の空間が静かに侵されていく違和感」
……そんな恐怖を描いてみました。
ナーレの見た“それ”は幻だったのか、現実だったのか。
あるいは、彼女の深層に刻まれた何かが呼び寄せたモノだったのか。
それはまだ明かされていません。
次回、その“モノ”がもたらす余波が少しずつ現れてきます。
どうぞ、お楽しみに。




