「雷兆と共に来りて」
ナーレとアリフが掃除に追われている頃――
雨に湿った大気が、どこか不穏な兆しを帯びはじめていた。
食卓の東側にある窓から見える風景では、霧雨だった雨が細く糸のような雨へと変わり、
闇夜の空には一層の紗が重なっていく。
やがて黒い雲たちが空の上で互いに手を取り合うように集まり、
一つの塊となって唸り声をあげると、あっという間に土砂降りへと変わった。
そのとき、耳を劈くような雷鳴が轟き、
全てを白く焼き尽くすかのような稲光が闇を裂いた。
一瞬、世界が稲光に切り取られ、
土砂降りの中に存在する“モノたち”の姿が、純白のカンバスに描かれたように浮かび上がる。
――まるで世界が、ほんの数秒だけ切り取られて別の時間に存在したようだった。
「あらやだ!? 雷……!」
お母さんの声に、私は幻のような情景から現実へと引き戻された。
「大丈夫さ。落ちたとしても、引火はしないよ――この雨ならね」
お父さんはそう言いながらも、ずっと天井を見上げている。
雨が火を消してくれる可能性があったとしても、
木造の我が家が雷に耐えられないことは理解していた。
お父さんは窓のそばまで歩き、ふと立ち止まる。
「去年の秋、倉庫が半焼したのは記憶に新しいな……でも、あの時より雨足は強いみたいだ」
強がるような口調とは裏腹に、彼の足元は落ち着かず床をとんとんと踏み続けていた。
私はその様子を見逃さなかった。
「あの時、家も石造りにしておけばよかったわね……悔やんでも仕方ないけど」
「そうだな。……とにかく、ナーレの誕生日を始めよう」
外では雷鳴が響き続け、
内でもどこか落ち着かない空気が流れる――
そんな三者三様の思いの中で、ナーレの誕生日は始まった。
「誕生日おめでとう! ナーレ!」
両親の声が明るく響き、私を祝福する。
けれど――外では雷雨が激しさを増していて、
まるでこの祝福の言葉を否定するかのように鳴り響いていた。
それはまるで「この瞬間さえも悲惨な一頁なのだ」と告げるかのようだった。
「ありがとう、お父さん、お母さん!」
私は笑ってそう返した。
けれど、心のどこかで――
私たちは皆、この不穏な空気から逃れようとしているのかもしれないと思った。
誰もが、この日が「悲惨な一頁」にならないようにと祈っていた。
「さあ、料理を食べて飲もう!」
「私は飲めないわよ」
いつものような両親の掛け合いに、ようやく暖かい雰囲気が戻ってくる。
パチパチと爆ぜる暖炉の炎が、
ほのかな明かりと暖かさを食卓に与え、
三つの座椅子が家族をやさしく包む。
私はその空間だけに意識を集中させようとした。
「ナーレは今日で十三歳。晴れて“レディー”の仲間入りだな」
お父さんが少し感慨深そうな表情で私に微笑んだ。
「長かったわね……最初は不安だったのよ?」
お母さんも、同じような顔でお父さんに目を向けた。
「何が不安だったの?」
「ナーレが三歳の頃、不思議なことがあったの。
いつも何もない空間をじっと見つめて……まるで誰かに挨拶したり、会話していたり」
「えっ!? そんなの覚えてない」
「覚えていないでしょうね。五歳になる頃には、自然と収まったから」
「そうそう。いつも虚空に向かって話しかけてたんだ。
……まるで“悪魔憑き”かと、ちょっと不安になったよ」
「悪魔憑きって……?」
私は、その言葉の響きに少し不安になる。
「悪魔憑きっていうのはね、幼い魂を蝕もうとする精霊。
取り憑かれると、奇行を起こすようになるの」
「最終的にはその精霊に心を乗っ取られてしまう。
寺院でも危険視されている病だよ」
「でも、ナーレは違ったみたいね。
よくある“自我の芽生え”だったんだと思う」
「だから、私たちは安心したの。
五歳になると、そんなことも全くなくなったから」
「ふーん……。でも、“悪魔憑き”って、どうなるの?」
私は、両親があえて口にしなかったことを尋ねた。
「う……そうだな……」
お父さんが言いよどむ。
「寺院に保護されるわ。そのあとは、分からない。
寺院はその後のことを秘密にしているの」
「秘密に!? なんで?」
「分からない。ただ……他の人への影響を防ぐため、
って言われているけれど……」
「この話はやめよう。今日は、ナーレの誕生日だ」
「そうだ、ナーレ。誕生日おめでとう。
そろそろ“選別の儀”が始まるよ」
「う、うん……。私も気になってるの。何をするのか全然知らないんだもん」
「仕方ないじゃない。“選別の儀”は他言無用なのよ。
だって、みんな違う経験をするんだもの。参考にならないの」
「そうなの?」
「そうよ。お母さんのときは、広い海辺に一人でいたの。
一番奥にあった四つの石像が、“上級神”“中級神”“下級神”“藩神”を模していたの」
「石像に火を灯して、目を閉じると声がして、
目を開けたら、どれか一つだけに火が灯っていたの」
「それで?」
「私は“中級神”に選ばれたわ。ただ、それだけのことよ」
「お父さんも同じだったの?」
「ああ。場所は違ったが、似たようなことだった。
俺も“中級神”だった」
「で、何ができるようになるの?」
「それは、私たちにも分からないの。
目に見えることだけに影響が出るわけじゃない。……でも、何かが変わったという感覚はある」
(うーん……さっぱり分からないや)
「“全てが秘匿されている”」
――私が分かったのは、それだけだった。
結局、何も変わらない。
全てが秘密にされ、見えないまま。
神の姿も――
その裏で糸を操る“モノ”の影すらも。
全ては、この宵闇の、深く静かな場所に、
じっと息を潜めて苔むしているようだった。




