「城下町の市場調査-巡礼編XLⅧ 家政婦体験篇XXXⅨー」
男はオニュクス・メラス等を見向きもせず、
跳ね橋を渡り、
反対側の絶壁へと辿り着く。
≪奇妙でございます。この側の封は、確かに開いたままでした。
ならば何故、“誰も来なかった”のでございましょう≫
ヴァルは静かに私に尋ねた。
【あの時は、跳ね橋が上がっていた。
──つまり、此方に封が無くとも、渡ることは叶わなかったのだ】
男は、在りし時をなぞるように語る。
【お前も見ただろう?
私と共にゴンドラへ乗り、眺めた筈だ】
ヴァルは少し、思い出したように口にする。
≪確かに、あの時はこちら側へ封が為されておりました。
ですが、跳ね橋は降ろされていた故、我らは此方へ参れたのです。
……では、食料は如何にして運ばれているのでございましょう。
洞窟は封じられ、エレベーターも貫通しておりませぬ≫
ヴァルは、構造そのものに綻びがあることを告げた。
【一度、戻るぞ? ヴァル……】
男はヴァルを伴い、オニュクス・メラスのエントランスホールへと引き返した。
─────。
オニュクス・メラスのエントランスホールは、
嘗てと変わらぬ厳粛を湛え、男を吟味していた。
【ここだ────】
男はエントランスホールのエレベーターを指差した。
≪主よ……。十二階までは地層で塞がっている、と≫
ヴァルは、以前の会話を確かめるように私を見た。
≪あの時、十二階までは地層で埋まっていると仰っておりましたな? ≫
────あの蒸し暑い、密室で交わされた会話を私は思い返していた。
【私は十二階より下を“下層”と呼んだ。
だが、それが最下層だとは告げていない】
男は、常にジョーカーを複製していた。
胸元へ隠し持ち、必要になれば山札から引き当てた体で差し出す。
しかも本人は、「ああ、まだ持っていたのか」とでも言いたげな顔をする。
【このエレベーターが示しているのは、正位置のみ。
逆しまの階層は、未だ伏せられている】
男は今頃になって、ようやく昇降機の秘密を明かすつもりになったらしい。
【ヴァル────レリーフを操作しろ。
逆しまへ、反転させるのだ。
それで……我らは地上へ出る】
男は僕へ、レリーフを操作しろと命じた。
≪稼働キーがございません……。
あれはナーレが保管している筈です≫
僕は、せめてもの常識を主へ示した。
【何故、私が複製を持っている前提で話す?
ヴァル────。
ナーレの鍵こそ、写しである可能性を考えろ。
原型は、常に私の側にある】
男は衣の脇より、
見慣れた球体を“吐き出す”ように零した。
【ほら────これが欲しかったのであろう?
このいやしんぼさんめ♪ 】
男は唇へ人差し指を軽く打ち鳴らしながら、
その合間に、ころりと球体を私の掌へ落とす。
≪その癖はお止めになったらどうです?
──────不気味ですよ? ≫
【小気味良いの間違いだ。
────急げ、ヴァル。
ナーレ達が来る前に道を開くぞ】
男は、僕の手付き一つ一つを吟味するように眺めていた。
まるで、失敗すら期待しているかのように。
≪下へ行くのに、何故“地上”なのです?
本当に意味が分かりません……≫
僕は、この方の思考についていけない。
【お前は先程、言っていただろう。
洞窟には階層があり、内部は完全な暗闇だった。
しかも、カンテラを消さねば扉は視認できない。
そんな場所を経由して、
どうやって日常的に食料をオニュクス・メラスへ運び込む? 】
【考えてみろ、ヴァル。
灯りを消さねば道が見えぬ洞窟を、
食料搬入の経路として使えると思うか? 】
≪いえ。
それなら両手は塞がりません。
カンテラを腰のベルトへ吊るせば済む話では? ≫
ヴァルの指摘は、至極尤もだった。
【そうだ。一度や二度の搬入なら成立する。
だが此処は、家政婦を何か月も居住させる前提で造られているのだぞ?】
≪……長期運用を前提に考慮しておりませんでした≫
僕は、自身の推論不足を認めた。
【お前は、“あの橋だけ”が此処へ至る道だと思い込んだ。
故に、洞窟側へ意識を囚われたのだ】
【考えてみろ。
何故、オニュクス・メラスは絶壁に挟まれるよう築かれている?
お前は見た筈だ。
ナーレと共に、欄干から“地上”を】
────やっと主の言いたいことが分かった。
≪谷を経由するということですね! ≫
男は穏やかな表情を浮かべ、静かに頷いた。
【その通りだ。
我々は一度、谷底へ降下する。
そして対岸の洞窟───
食料運搬用の昇降機へ乗り込み、再び絶壁上へ戻るのだ。
そうすることで……四阿へ辿り着ける】
あまりにも壮大な移動経路だった。
そして同時に、恐ろしいほど合理的な運用構造でもあった。
【我々は、洞窟へ入る前に見ている筈だ。
中庭から望めた、あの大型昇降機を。
出口は、あそこになる】
男は当然のように告げる。
【谷を渡り切った先にあるのが、あの大型エレベーターだ。
我々は、最終的にそこから地上へ出る。
……まぁ、四阿までは歩くことになるが】
最初から、全て計画されていたのだと僕は気付かされた。
─────謎を解く鍵は、常に風景の中へ溶け込んでいたのだ……。
私はヴィーウィ先輩に導かれるまま、跳ね橋を越えた。
橋の下では、風に揺れる草花が、密やかなさざめきを上げている。
オニキス・メラスの門前には、すでにエスリンさんとアヴェーラ、それにフィーネが待っていた。
彼女たちが作り出す輪だけが、世界から切り離されたような静寂を保っており、
私とヴィーウィ先輩は一歩遅れて、その静寂の底へと足を踏み入れた。
「やはり、お嬢様───。一度、谷に降りた方が賢明かと存じます」
エスリンさんの進言を受け、アヴェーラは対面の絶壁へと視線を移した。
その瞳は、切り立った岩肌の向こうにある「何か」を見つめているようだった。
「……誰か、来た道を戻れる者はいて?」
その声は穏やかだったが、拒絶を許さない響きがあった。
「あの洞窟を……? 確かに綺麗だったけどよ」
フィーネは億劫そうに足元をもぞりと動かし、体重を預け替えた。
アヴェーラはその様子を一度だけ一瞥し、それから私へと視線を巡らせる。
「私もフィーネに同感。脚の裏がひりひりするわ」
私は踵に意識を集中させ、歩き詰めの痛みをやり過ごした。
するとアヴェーラは、私の手元に目を留めて、小さく手を差し出した。
「ナーレ? その恒球、いったん返してもらえるかしら。
あれがないと、動かせませんの」
差し出した恒球が、彼女の掌へと移る。
指先がわずかに触れ、彼女の体温が伝わった。
ほんのわずかな間、彼女は恒球を見つめたまま立ち尽くしていたが、
やがて何も言わずに歩き出した。
オニュクス・メラスのメインホール、すなわちエレベーターホールは、
墓所のように静まり返っていた。
アヴェーラは迷いのない足取りで中央の装置へ歩み寄る。
かつてエスリンが行った手順をなぞるように、
操作盤へと指先を滑らせた。
触れた瞬間、装置は音もなく、青白い光を帯びて応じる。
アヴェーラはその光に照らされた横顔を一度だけこちらに向け、静かに告げた。
「エスリン、ヴィーウィ。貴女たちが先に乗って頂戴。……私たちは、後でいいわ」
その指示に、場にわずかな緊張が走った。
エスリンさんは一瞬だけ何かを言いかけたようだったが、
直ぐに深く一礼し、躊躇いなく歩き出す。
───ヴィーウィ先輩もその背中に従った。
二人がエレベーターに乗り込み、重厚な扉がゆるやかに閉ざされる。
駆動音だけが、上方へと遠ざかり、消えていった。
残されたのは、私たち三人。
「……アヴェーラ? 谷に降りるって、どういうこと?」
溜め込んでいた疑問を吐き出すように、フィーネが声を荒げる。
その声音に押されるように、私はアヴェーラを凝視した。
アヴェーラは乱れた装いを、指先で静かに整える。
まるで──何事もなかったかのように。
やがて、深淵を覗き込むような眼差しのまま、唇を開いた。
「このオニュクス・メラスは、地上と繋がっておりますの。
昨日は上へ向かいましたけれど……」
言葉は滑らかだった。
だが、その続きを、彼女は僅かに濁した。
「あの時は、“唯一の通路”だって説明してただろう?」
フィーネが間髪入れずに切り込む。
記憶を確かめるというより──矛盾を突きつけるように。
アヴェーラは一拍だけ、沈黙した。
指先が、整えたばかりの衣をなぞる。
「……私はお二人を思って、説明を省いたのですわ」
静かに告げられた声音は、あくまで穏やかだった。
「オニキス・メラスに到着して間もなかったですし、
──皆、疲れていたはずですもの。
一度にすべてを説明して……理解できまして?」
問いかけは柔らかい。
だが、その実──反論を許さぬ形で置かれていた。
「そうだけどもさ……」
言い淀みながら、フィーネは視線を落とした。
あの時の状況が、脳裏に蘇る。
疲労で思考は鈍り、
何かを疑う余地すらなかった、自分自身の姿。
──否定は、できない。
だが……。
それでも胸の奥に、拭いきれない違和が残っていた。
──そのとき。
エレベーターが、
音もなく、するりと降りてくる。
上階から滑り落ちるように、メインホールへ。
やがて、わずかな間を置いて──
その口を、静かに開いた。
「その続きは、食事の席に致しましょう?」
アヴェーラはやわらかく微笑んだ。
この話題は、ここで終える──そう決めてしまうように。
何気ない仕草で、エレベーターへと視線を向ける。
言葉にせずとも、乗るよう促していた。
渋々と、フィーネはエレベーターへと乗り込む。
従いはする。
だが、それだけだ。
奥へと歩みながら、ちらりとも振り返らない。
ただ、歪めた口元だけが──まだ終わっていないと告げていた。
「私も、その件には違和があるわ……
どうして今になって、説明するの?」
声は抑えていた。
だが、胸の奥に引っかかるものは消えない。
疲れていた──それは確かだ。
けれど、それだけで説明を省く理由になるのか。
納得には、程遠い。
私がエレベーターに乗り込む。
──わずかに間を置いて。
アヴェーラも遅れて足を踏み入れ、
静かに扉を閉めた。
「ナーレも、このエレベーターの謎には気づいているのでしょう?」
静かな声音だった。
だが、その言葉は逃げ場を与えない。
アヴェーラは壁のレリーフを指し示す。
視線ごと、そこへ縫い止めるように。
「……レリーフが対応している、ってこと?」
言葉にしながら、どこか引っかかる。
それだけでは、足りない気がした。
アヴェーラは小さく頷く。
肯定でありながら、続きを促すように。
「レリーフは、階層に対応しておりますの。
ですから──今は“上”ですわ」
アヴェーラは壁のレリーフに触れ、
躊躇いもなく、それを逆しまに組み替えた。
低く────、擦れるような音がエレベーター内に残る。
「フィーネ?
その“恒球”を、一度外して──嵌め直してくださる?」
フィーネは、あからさまに不満げに舌打ちする。
「……はいはい」
吐き捨てるように応じると、
エレベーターの壁に嵌め込まれた“恒球”へ手をかけた。
わずかに力を込める。
──恒球が外れる。
掌に収まったそれは、思いのほか冷たかった。
乱暴に外し、そのまま、押し込むように嵌め直す。
──小さく、噛み合う音がした。
エレベーターは何かを感じ取ったかのように、
ゆっくりゆっくりと、私達を下へと誘っていく。
────エレベーターの外に広がるのは、
岩の地層と、その狭間に挟み込まれた屋敷の構造だった。
それらが幾重にも連なり、
層のあいだに、生活の断片が覗く。
窓越しに見えたのは──
家政婦たちの、何気ない日常。
言葉も届かず、音もない。
ただ、切り取られた一場面だけが、こちらを掠めていく。
────やがて、エレベーターは最下層へと辿り着いた。
谷底。
そう呼ぶのが、最も近い場所だった。
谷底にあるエレベーターホールへ、私たちは降り立つ。
岩を穿って造られた窓の向こうには、草原が広がっていた。
その先には谷、そして対岸の絶壁が遥か高く聳えている。
風が吹いている……。
岩を穿って造られた窓の向こうには、草原が広がっていた。
風が吹いていた────。
風は、谷の上から下へと流れていた。
ここではそれが、まるで当然のように息づいている。
私たちは、正面に開いた通路を抜けて、外界へと踏み出した。
(凄い……綺麗──)
茜色を背景に、谷と絶壁の合い間に私達は佇んでいた。
風は草原を激しく揺らし、
ただ徒に、愛撫するような気配を残しながら、
谷へと奔っていく─────。
谷の下方には、森と峻嶺の山々が重なり合い、
その連なりは地平線の向こうへと消えていく。
まるで、それらすべてが世界を囲い込んでいるかのように────。
「さぁ、参りましょう?」
アヴェーラは小さく微笑みながら、声を弾ませる。
まるで何事もないかのように。
「このままですと、直ぐに暗くなってしまいますわ」
そう言って、アヴェーラは反対側に穿たれた“穴”を指差した。
私たちは、一瞬だけその先を見やる。
そして──アヴェーラの背を追うように、草原へと歩き出した。
「反対側にもあるのか?」
フィーネが背中越しに問いかける。
「いいえ、ございませんわ。
これは運搬のための構造ですもの。
ですから、あの時は“唯一の道”と申し上げましたの」
アヴェーラは穏やかに応える。
そこに迷いはない。
だが私は、その言葉よりも上を見ていた。
頭上に架かる、唯一の上げ橋。
その基礎となる柱は、谷底へと深く伸びている。
見上げても尚、その全貌は掴めないほどに高い。
「ナーレ? そんなに上ばっか見てると、躓くぞ」
フィーネが背中越しに、ぶっきらぼうに言った。
「いいじゃないの。フィーネも見てみたら?」
私はそう言って、視線を上へ向けたまま歩を進める。
「お前のそのバイタリティーには感服するよ」
フィーネが呆れたように返す。
私達は歩き続け、
反対側に穿たれた“穴”に入り込んだ。
────その空間は、アヴェーラの言う通り食糧倉庫だった。
荷車が静かに並び、
樽と袋が、壁を埋めるように積まれている。
生活の気配だけが残された机と椅子。
そして、簡素な炉の痕跡。
机の上には、根菜類や肉、麦類の粉袋が並べられ、
その傍らで、分別の記録簿らしき帳面が開かれていた。
記録簿には、署名ではなく四角い印のようなものが押されていた。
そこには、一日の搬入量と減少量が、図式のような記号で記されている。
「家政婦たちは、普段こういうことをしているの?」
記録簿をめくりながら、私は軽く呟いた。
「勿論ですわ。商家ですもの」
アヴェーラは微笑みを崩さずに言った。
「数えられない、などという状態では困りますでしょう?」
アヴェーラは、記録簿の数字を一つずつ確かめるように視線を滑らせていた。
フィーネもまた、壁際に並ぶ樽と粉袋を見渡す。
「……なるほどな。求められてる“精度”が違うわけか」
私は視線を記録簿から上げて、ふと口にした。
「これ、誰が管理してるの? さすがに大変じゃない?」
アヴェーラは私達にゆっくりゆっくりと、言葉を選びながらこう答えた。
「私の屋敷には五百人の家政婦が暮らしていますわ。
その中で五十人が婦長格、さらに三十人が副婦長格ですの。
それぞれの部門ごとに配置しておりますわ」
「……どうしても食料との兼ね合いがございますし、
これ以上の規模を抱えるのは難しいのです」
「計算が合ってないじゃないか?」
フィーネの言葉に、アヴェーラは一瞬だけ表情を曇らせる。
「それに、私の規則として、文字や数の扱いを学ばせる必要もありますし……
人員と経費が、どうしても釣り合わないのです」
───確かに見る限り、
五百人の家政婦を賄うというには現状の食料状況は芳しくないように見えた。
「大丈夫なの、それ?」
「ですから、販路を広げなければなりませんの!」
アヴェーラの声が、ほんの少しだけ早くなる。
抑えていたものが、言葉の端に滲んだ。
「そういった意味では、貴方のお父様の存在は──こちらにとって“渡りに船”なのです」
お父さんが作った酒のことを言っているのだろう。
それを利用して、販路を広げるつもりなのかもしれない。
私はそう考えながら、その言葉の重さを測りかねていた。
「確かに“アレ”は販路になるかもしれないけど……
大丈夫? 買い手、ちゃんといるの?」
希少性に対して、値段が釣り合うのか。
そんなことが頭をよぎった。
「ある程度の貴族や商家、あるいはその上位にいる方々であれば……
お支払頂けるかと存じますわ。
それでも難しい場合は、薄めてでも安価にして──市場へ流すだけですわ」
アヴェーラは少し思い残す点があるように言葉を紡いだ
「薄めるって……それ、大丈夫なの?」
私は思わず聞き返した。
「希少性があるなら、そのまま売った方が価値は出るんじゃないの?」
「一般の方が口にされる場合は、供給量を確保する必要がございます。
そのためには価格を下げる以外にございませんの」
アヴェーラは仕方ありませんわ~という身振り手振りをした。
「でも、それって結局……安くして数を出すってことでしょ?」
私はアヴェーラの言葉を追うように、さらに踏み込んだ。
「希少なまま売った方が儲かる場合もあるんじゃないの?」
「それでは倉庫が圧迫されますわ。
本末転倒ですもの」
迷いはない。
「倉庫は、常に空けておくべきなのです」
「そこまで管理して大丈夫なのか?」
フィーネが商売の側面から問いかける。
「いつまでも寝かせてしまえば、倉庫は圧迫されますわ。
圧迫はそのまま、機会の損失に繋がりますの。
どのようなものにも鮮度があり、いずれは腐る。
長期保有は、それだけで経費を増やすだけですわ。
──結果として、機会を失うのです」
「それって結局、余裕がないってことじゃないの?」
「だからこそ、あの商品なのです!」
即座に返る声には、わずかな焦りが混じっていた。
「あのような酒精であれば、腐りにくい。
貴族たちが求めるのは、まさにそうしたものですわ」
「薄めても高いんじゃない?」
フィーネが追及する。
「フィーネの言う通りよ。薄めても原価が高いなら、結局は高いままじゃない」
私はその意見に同調する。
アヴェーラは珍しく、言葉を詰まらせた。
───沈黙が、一瞬だけ落ちた。
「そもそも……倉庫を空ける必要って、何なの?」
私は、そう口にした。
アヴェーラは少し考えるように、間を置いてから答えた。
「それは……新しい商品が来る可能性があるからですわ。
貴族というものには、常に“新しい風”が必要ですの」
「それは、誰のための循環?」
問いかけに、アヴェーラは一瞬だけ言葉を選んだ。
「貴族との根回しは重要ですの。
商家である以上……先んずれば人を制す、ですわ」
アヴェーラの言葉は、ようやく本質に触れたように思えた。
「それって結局……権力の話じゃないの?」
「商家には力がございませんもの」
迷いはなかった。
「貴族や華族に取り入るのは、当然の基本戦略ですわ」
アヴェーラは、商家における構造的欠陥を口にしながらも、
どこか諦めにも似たものを滲ませていた。
「そこまでしないと、いけないのか?」
フィーネは、この息苦しい商家の構造的欠陥に嫌気が差したのか、口を挟んだ。
「商家は大変なのですわ、フィーネ」
アヴェーラは静かに言葉を返す。
「常に前へ進む者だけが生き残る世界ですもの。
その中で選べるものなど、ごく僅かですわ」
「私はそういった意味で、恵まれているのですわ
──長話が過ぎましたわね……。
四阿に参りましょう?」
アヴェーラは重苦しくなった空気を振り払うように、さりげなく歩みを促した。
そして──食料搬入用と称される大型エレベーターへと手を伸ばす。
「お前の辛さは分かったからよ。ちゃんと話せよ」
フィーネはそう言って、アヴェーラの肩に手を置いた。
「お話しすべきことは……あまりにも多すぎますわ、フィーネ、ナーレ」
彼女にしては珍しく、どこか物悲しさを滲ませた声だった。
そして私たちは、大型エレベーターへと乗り込んだ。
重く軋むような感覚とともに、それはゆっくりと上昇を始める。
私たちは、アヴェーラという存在の立ち位置を、少しずつ掴みかけていた。
(これが、家政婦“体験”ってことなの……?)
私はエスリンさんの最後に私に投げかけた言葉を思い出した。
≪よく覚えておきなさい。
祈りとは、何かに殉じるということです。
───“過去”から、“これから”へと続くものです≫
その意味の輪郭が、少しずつ形を持ち始めていくのを感じていた……。
≪主よ。一つ、お尋ねしたいのです。
エスリン達は、どのように別館から本館へ連絡を取っていたのですか?≫
僕は、とうとう最大の疑問へ踏み込んだ。
主は、僕から視線を逸らしながら答えた。
【アヴェーラの命令は絶対だからな。
先に本館まで走って行ったのだろう……】
≪違います。
アヴェーラは、先に休むよう命じていました。
本館へ向かう理由がありません≫
主は最後まで、僕と視線を合わせようとしなかった。
【手旗信号さ────。
此方へ来る途中、見ただろう?
あれで合図を送ったのだ。
本館の家政婦達へな】
また始まった。
主は、都合が悪くなると物理的な理屈を持ち出してくる。
≪別館から本館までは、一時間以上掛かる筈です。
しかも貴方様は仰いました。
ここは絶壁に挟まれた谷だと≫
……僕は常々思っている。
主は、土壇場での誤魔化しが致命的に下手なのだ。
≪どうやって、本館へ連絡したのですか?
……お教え下さい、主よ≫
主は視線を床へ落としたまま、しばし黙り込んだ。
【……音響管だ。
跳ね橋の基礎に埋め込まれていてな。
昔ながらの方法で、本館へ伝達したのだよ】
主は露骨に話題を逸らすように、
足場の悪い地帯へ先導を始めた。
≪一時間離れた本館まで、音響だけで?
……本気でございますか?≫
【途中で……別の家政婦が聞き取り、
更に伝達していたのやもしれん。
ヴァル────。
もう夕食の時間だ。
お前も馳走を口にしてこい】
─────今の一言で、僕は確信した。
主は遂に、誤魔化し切れない領域へ踏み込んでしまった。
≪主よ……。
そのような設備は、何処にも見当たりませんでした。
そして貴方様は、吹雪の中でナーレへ中庭と通路を見せた筈です。
あの時も……音響管など存在しておりませんでした≫
─────とうとう。
僕は主を論破した。
─────遂に、主の論理へ綻びが生じた。
これで逃げ場は無い。
僕は遂に、主の矛盾を突き崩したのだ。
【くくく────】
【素晴らしい。
君は遂に、私の口車を看破した】
主は、まるで道化師のような笑みを浮かべながら拍手した。
【そうさ!
音響管など存在しておらん】
────主は遂に白状した。
百十話にも及ぶ問答の末、
僕はようやく主の虚飾を剥ぎ取った!!
確かに僕は論破した。
だが、何故だろう。
主の眼だけは、最初から何一つ変わっていなかった。
【僕は嘘を吐く。
常にだ。
では問おう、ヴァル。
今の僕は、真か偽か。
それを選び取れた時、
君はようやく此処を卒業する】
主にとって、会話ですら試験だった。
─────そして今、
僕は最後の問いへ立たされている。
【さて、ヴァル。
この章最後の問いに、今こそ答えてやろう。
今まで、占星術の話をした。
ならば読者達も、
この謎が占星術を基盤としていると理解している頃だろう】
【最上階でも、同じことをするのだろうと。
皆、そう予想している。
ならば、まずは簡単な問題から始めよう】
【入門問題だ、ヴァル。
“青白い炎”の正体を答えろ。
安心しろ。
答えは、最初から風景の中に置いてあった】
僕はもう知っている。
主の問いは、答えそのものより“解き方”を試してくる。
─────故に、鵜呑みには出来ない。
主が“そのままの意味”で語ることなど、殆ど無い。
あの方は、常に象徴と抽象を好むのだから……。
『済まないねぇ~……。
僕は“行き返り”は三回までと決めている。
流石に、もう一度とはいかないのだ。
フフフ────。
人生とは常に、一回きりだからな。
ままならないね───? ヴァル♪』
男は嗤っていた。
この世界に於いて、人生は一度きりだと。
主は、ずっとそれを語り続けていた。
─────だからこそ僕は、
最初から“逆巻く力”など持っていなかったのだと、
今──────悟った……。
『僕は、一度だって嘘を吐いたことは無い。
常に単純明快だ────。
たとえ君が地面へ這いつくばり、泥に張り付こうとも。
僕は君へ小便を引っ掛け、
蹴り飛ばしてでも起こす。
倒れることは構わない。
だが、地面に甘えるな。
僕は踏み付けてでも、お前を立たせる』




