522話 勝てない要素は
『お兄さん、生きてるの?』
一ノ宮耀は三門玲司の兄が死んでいるという話は嘘なのか、情報源に直接尋ねた。高校が違うので電話ではある。その相手は茗荷谷翼、レイジの幼なじみの同学年の女子だ。
『誰が言ってたの?』
『レイジ。春休みのうちに、一緒に帰省したって』
ツバサはまず質問に質問を返した。するとヒカリから、発信源はレイジだという情報を得られた。だがなぜ彼がわざわざ明かしたのかは分からない。
『じゃあそうなんじゃない?』
ツバサはなあなあに返事をしてみた。確かにヒカリたちに、レイジの兄は他界している。それを彼に知られないように、秘密を知った人は心に鍵がかかって言葉でも心の声でも伝えられなくとも告げた。
けれども言動に責任を持とうとせず、その情報自体が誤りだっただけということにして片付けようとする。
『ごめん、そろそろ次の授業が』
『うん……ありがとう』
ツバサは授業を言い訳に話をぶつ切りさせにかかる。ヒカリも長話はできないため、同意して電話を切った。
真相は見えてこなかったが、恋敵と好きな人、どちらの言っていることを信じたいかで考えると答えに悩むことはない。
なぜヒカリがレイジの兄の真相を知ろうとしたのか。それは春休みの間の彼の発言を思い返したからだ。
レイジが本当に好きな相手はツバサ。だが彼女は兄に好意を抱いている。だからヒカリを選んだし、また付き合いたい。そんなことを言っていた。
話を聞いたとき、ツバサは叶わなかった思いを引き摺っているのだとヒカリは考えていた。だが今朝レイジから、兄とともに故郷へ行ってきたと聞いて見方が変わった。
途切れた恋ではない。まだ希望はある。それどころか、もう実っていても不思議ではない。そして関係が進んだとして、密かに仲を深めようとしても、人の心が読めるレイジには全部筒抜けになるわけで。
知りたくない現実を知ったがゆえの今朝の荒々しい態度だったのかもしれないと思うと気の毒になった。
「あっ、絵のこと謝るの忘れた」
教室に戻る途中、ヒカリは伝え忘れたことに気づいた。時間もないし、ツバサ自身に聞こえるように言ったわけではないのでわざわざかけ直さなくていいと考えたところにレイジの姿が視界に映る。
レイジに嘘はつけない。このまま謝罪なく教室に戻ったら、また突き飛ばされるかもしれない。
『気味悪い絵って言ってごめんなさい!』
『え、何のこと!?』
ヒカリは急いで電話をかけ直したが、ツバサに謝罪の意図は伝わらない。彼女が絵を貶したことは、レイジから告げ口されていなかったのだ。
『あ、えっと……さっきの話のとき、あの絵のことを私が口にして……』
ヒカリはさっきの電話と繋がりがある話という前提を伝え、謝罪の経緯を語る。
そのときヒカリはある考えが浮かんだ。
『もしかして、レイジが会ったのはあなたの絵で作ったお兄さんなんじゃ……』
『あっ……』
ツバサはイエスと答えようとした。だが前の電話で、レイジが兄と会っていたことは知らないと言ってしまった。そこにヒカリが気づいたら、ごまかすのは難しい。
『ごめん、そろそろ始まるから』
ツバサは授業を言い訳にして通話を強制終了させた。
「やっちゃったなぁ……」
ツバサはヒカリからショートメールが来ることに怯えながら、これからどう言って彼女を納得させることができるのか頭を抱えた。
教室に戻ったヒカリは、推測をレイジに伝えようか悩んでいた。彼が春休みに一緒に帰省したという兄はツバサの絵を実体化させた偽物かもしれないという推測だ。
だが悩むまでもなく、心の声が読めるレイジには筒抜けだと思い直すと、言葉で伝える必要はないと割り切った。
一方でレイジの意図は言葉にしない限りヒカリには伝わらない。彼が兄を生きていることにしたい理由は二つある。
一つ目は、兄が亡くなってから会っていた偽物の兄も、同じときを過ごした以上は本人と変わらない。死という事実を知った今でも、これまで通り兄として見ることができる。
二つ目は、ツバサが思いを募らせている兄が生きていれば、彼女の恋が成就する可能性がある。死んだと片付けてしまえば叶わぬ恋となり、レイジには彼女の特別になれる可能性が芽生えてしまう。
レイジがツバサと結ばれる可能性がゼロになれば、彼がヒカリを選んだ理由に納得してもらえる。二つの理由のうち、彼が重要視しているのは後者だ。
だがどちらの理由もヒカリは察していない。レイジ自身で言葉で伝えない限り、彼女は兄の死を現実として捉え続けるだろう。
そこでレイジは兄に相談すると決めた。次の休み時間、本日初めて教室の外へ出る。相談は電話で、だから周囲に人がいない廊下へ移動するためだ。
だがヒカリが後をつけてくる。電話をかけにいくことは彼女に伝えていないわけで、他クラスの女子に会いにいくのかと疑われているためだ。
尾行しているのはバレると分かっていてよくも行動に移せるものだと感心しつつ、これはレイジの反応を試すための行動だと理解した。ヒカリは自分がつけていることをレイジに読まれていると分かったうえで、彼がどんな対応をとるかを味わうために追っている。
走って逃げて隠れるか、外出の理由を伝えるか、あるいは返り討ちにするか。ヒカリは特に期待しているリアクションはない。だがレイジの対応の想像がつかないために、彼の本心を知りたいがゆえに自分から行動を起こす。
しかし一つは有り得ない反応だと決めつけているのが読み取れた。それはレイジが逃げ切ってヒカリに見失わせるというパターンだ。
その理由は単純かつ侮辱的なもの。走るのが遅いレイジに自分を振り切ることは不可能だと甘く見られているためなのだ。
バカにしやがって、とレイジは内心キレる。春休みに兄と帰省したときは、大学の学長の部屋に侵入して故郷の思想にまつわる論文を入手し、警報から逃げ切って島へ帰還した実績ができた。
一般人一人を振り切ることくらい、朝飯前だ。心を読む力があるということは、目で見なくても相手の位置が分かるということでもある。捕まらない距離を確保しながら前だけを向いて走れるのだから、普通の人よりは逃げる面でのアドバンテージがある。
実績と可能性、二つの側面から自信を得たレイジは、最もヒカリの読みを覆すべく、逃げ切る道を選び駆け出した。
そうと決めると走り出した。疎らに人がいる廊下を突っ走り、注目を浴びる。ヒカリはレイジのダッシュに不意を突かれたうえに周囲の目を気にして躊躇したものの、彼を見失ってはいけないことを最優先に考えて真っ直ぐ追いかける。
追いかけてきた以上、逃げるしかない。普通に走っていては徐々に距離を詰められいずれ捕まってしまう。だがここは校舎内、高低差と窓がある。
レイジは下り階段の前に着くと大きく跳躍した。段差の途中に着地すると、もう一回飛んで踊り場に到着。
速く降りるには最適な方法だが、一人にぶつかるリスク、そして怪我することへの恐怖から躊躇ってしまう。足で勝てない要素は度胸で補う。それがレイジの一つ目の作戦だ。
目論み通り、ヒカリは階段の前でブレーキをかけた。連られて飛びそうになったが反射的に制御がかかり、上げてきたペースがゼロに還る。助走あってこその大ジャンプ。ビビって速度を殺したらもう手遅れだ。
その隙にレイジは差を広げる。階段を降りたらとにかく曲がり角目指し、追ってきても見つからないように徹底する。
『レイジの所へ案内して』
ヒカリはゆっくり階段を降りながら、他校の知り合いに電話をかける。その人の“ノーツ”は、遠くからでも虫を経由して様子が見えるというもの。
あらかじめ彼女を見守るように四六時中飛ばしていることを知っているヒカリは、その力を借りてレイジを追いかけることにしたのだ。
その人、八王子漫芦はヒカリに協力的で、彼女が電話するとすぐに出て、追いかけっこも見ていたので二つ返事でナビゲーションに応じた。
レイジにとっては想定外の判断をとられたが、現在地が割れたくらいで見つかるほど弱くない。隠れて過ごすのはできなくなったが、ヒカリの位置に応じて移動しつつ隠れ続けることはできる。
だがレイジは欠点に気づいた。走り回っていては電話をかけられない。
兄は死んだのだとヒカリに納得してもらうために相談をしたいが、彼女に追いつかれたくもない。彼女が追うのを諦めてくれたらどちらも達成できるのだが、追い続ける限りどちらも叶わない。
最後の手段、窓から飛び降りようと決意する。その様を見せつければ、さすがにヒカリは諦めるはず。そう信じ、あえて見つかる距離まで引きつけて窓に手をかけた。
だが足が思うように上がらない。さっき階段を飛んだときに痛めたのか、震えて力が入らない。
すぐに行動に移せなかった時点でレイジの負けは決まった。もたついている間にさらに距離を詰められて、仮に今から窓に身を乗り出しても体を掴まれて失敗に終わる。
レイジは負けたことより、ヒカリの目の前でみっともない姿を見せたのを屈辱に感じていた。せめて足の違和感には気づかれないように、若干足を曲げて壁に寄りかかり鎮まるのを待ってみる。
「もう逃げないの?」
「時間だ。もう戻らないと」
ヒカリはレイジの言葉を聞いて嫌な気持ちになった。言い訳の手口がツバサと同じだ。彼がそう言ったのは本心ではないのだろう。自分がツバサと電話したことを知っていて、彼女の言葉を真似たとしか思えない。
せめて違う言い訳をしてくれたら、と思ったが、今さらどうすることもできない。
「で、目的は果たせたの?」
教室へ戻る最中、ヒカリはレイジに尋ねる。追いついたのは事実だが、それは彼の想定通りかもしれない。追いかけっこで捕まえても、彼の目的次第では彼の勝ちかもしれないから聞いた。
「いいや。兄貴に電話したかったけど、振り切れなかった」
「そんな理由で逃げてたの?」
レイジは首を横に振る。そして逃げた理由は、たとえ逃げても追いつけるという楽観的な考えをさせなくするためだったと明かした。
いつまでも足が遅いと見下されるのが嫌だったから、工夫次第で逃げ果せるのを立証したかった。そう告げた。
「ふーん……」
それを聞いてヒカリは呆れた。そして思ったことは、黙っていても読まれてしまうからあえて言葉で告げる。
「じゃあ最後、飛び降りられたらよかったね」
最後の決断が勝負を分けたと考えるヒカリは、レイジが躊躇って失敗したことを残念に思った。
「度胸がなかったんだね」
長所だと思っていた要素が薄れ、魅力がなくなった。その現実を知ってもらうために、嫌われる覚悟で声にする。嫌と言われたら止めるが、そうでないなら言い続ける。
「私、最近色んな男子と会ったんだ。レイジよりいいなって思う特徴も色々あった」
レイジと出会った当初は他の男子に目も暮れなかったヒカリだったが、彼と別れてから見方が変わった。彼の足りない点が見える一方で、良い点も見えてきていた。
「それでもレイジの思い切りの良さは他の人にはないよ。でも度胸も前ほど無いんだね」
躊躇いなく無茶ができる勢いの良さがレイジの強みだと実感した。だがそれも出会った当初に比べると霞みつつあるように感じる。今回の勝負も決め手は彼が臆病になったことだ。
「確かに私はソゾロの手を借りたけど、防ぐこともできたよね? ヒカリは俺が守るから余計なことするな、って感じで」
ヒカリの勝因は他の男子の協力を得られたことでもあるが、それはレイジが未然に防げたことだと指摘する。それができなかったのも、彼が衝突を嫌ったからにちがいない。
本当はレイジに守ってもらいたい。だが自分では力不足だから他の人に任せようとしている。そんな実態を我慢して受け入れたくはない。
「度胸がなくなったレイジなんて、何も残ってないよ」
だからヒカリはストレートに不満をぶつけた。本来の強さを取り戻して、その力を自分のために使ってほしいから発破をかけてみた。
レイジは何も言わないまま、気づけば教室に着いていた。