527話 知らない情報
「一向に治る気配がない」
三門玲司は放課後、学校に残って降り階段の前に立って、そう呟いた。
レイジがやろうとしていることは一段飛ばして降りること。今までは何の躊躇いもなくできていたことで、他にもできる人は大勢いる。
けれどもいざやろうとすると足が震えて進まない。呪いをかけられたわけでも、この階段に異変があるわけでもない。率直に言うと、もし足を滑らせたらと考えてしまい、恐怖で動けないだけだ。
「人に見られていれば大丈夫だと思ったんだが」
レイジはこの現象についてある仮説を立てた。それは誰も見ていない所で、高い場所から降りようとするのがいけないということだ。
人の心が読めるレイジは、自分では気づかない危険であっても、他人目線を読み取ることで回避できる。授業中、指名される前に心を読んで対応できたことが閃きのきっかけだ。
だから今、階段の下から知り合いに見てもらっている。段差に危険がないことも、駆け上がってくる人とぶつかる心配がないことも確信しているが、それでも結果は変わらなかった。
「……進歩なし、だ。悪いな、付き合ってもらったのに」
「構わない。万物を誘う不可視な魔物にたじろぐのは脆き作品の定書」
逆らえない重力によって体を痛めることに怯むのは知恵と命を持つ生き物の本能だと、上原千聖はレイジに同情する。
「古の我が身も魂とともに天地の境を彷徨った」
“ノーツ”が目覚めたてで翼の扱いが不安定だった頃にセインも似た思いをした。だから恥じることも焦ることもないとレイジを励ます。今日は克服できなくても、明日、来週、来月と長い目で見守るつもりで臨んでいる。
「何か他の方法はないか」
怖くて階段から降りられなくなった人など知らないレイジは、治療の方法が思いつかない。彼は今まで悩んだことがあっても、同じ思いをしている人の心を勝手に読んで解決させてきた。
解けない問題は他の生徒、あるいは出題者の心を読めば理屈を理解したうえで解答に辿り着ける。睡魔に耐えられないときは他の人が試した覚醒に効くお菓子や仕草を使ってきた。
だが今回は例外だ。心を読む力があっても、誰も知らない情報は得られない。そんな欠点を突かれたがゆえにぶつかる壁なのだ。
「でも他の人に相談したくないし」
ならば情報を増やす努力をすればいいだけの話で、同級生に相談して克服のアイディアを出してもらうのが手っ取り早い。しかしレイジはその方針を取りたくたいと確たる意思で拒絶する。
情けないからというのも一因だが、最大の理由は、こんな状態になったことは一ノ宮耀に知られたくないからだ。ヒカリはクラスメイトであり、情報が耳に入りやすい。
知られるリスクを減らすために、他言しないと決めている。セインに頼っているのは、彼女の前で発覚したがゆえに、隠すことができなかったためだ。
「普通に降りることはできるんだ」
階段を降りられないというのならそれは日常生活に支障を来す大問題だ。だがレイジの場合は一段飛ばしで降りられないだけであり、ちゃんと一段ずつ歩けば今まで通りの速さで移動できる。
「壁に手が着いてるけど」
「本当だ」
無意識のうちにレイジは壁に手のひらを当てて降りていた。セインに指摘されて離してみても、その状態で進もうとすると足が震えてしまうことが分かった。
レイジは突如不安に襲われた。
「嘘だろ……」
「心身の揺らぎを鎮める柱に縋る見習い曲芸師のごとき様」
一輪車に乗れるようになるために壁に手を着きながらペダルを漕ぐ小学生のようだと感じるセインは、レイジが思っているような重大な問題だとは捉えなかった。
最初に見たときは焦ったが、物は違えど最初はそうやって慎重になるものだと解釈し、彼の有り様を受け入れた。
「まあ壁も手すりもない所なんて無いし」
レイジは階段の内側へ移動して、今度は手すりを握って降りてみる。相変わらず触れていないと無理だが、壁でなくても支えがあれば平気だということが分かった。
そんな彼を見て、セインは手を差し出した。意図は告げない。言わなくても伝わると分かっている。
「いや、さすがに手を繋ぐのは」
「乱れる柱が信用に値するかの実験。大丈夫、信じて」
セインはレイジが拒否した理由を、壁や手すりと違って人の支えは信用できないからではないかと捉えた。
危険物はないと伝えていても自力で降りられないくらいだから、支えてもらう覚悟が決まらないのは仕方がないことかもしれない。
けれどももし、両側に物的な支えがない道を下るときに進めなくなってしまわないか、今のうちに検証しておきたい。
そして問題がなければ、誰かと一緒に行動しておけば平気だと判明する。そこまで分かれば安心して生活できるから、セインは強く勧める。
「そんなことしてるって知られたら、ヒカリ、きっとまたネチネチ言ってくる」
どんなにレイジにもセインにも他意はなくても、人気のない放課後の校舎内で手を取り合っていると耳にしたものなら、ヒカリが黙っているはずがない。
そうなると厄介だしセインにも迷惑をかけてしまうから、距離感を蔑ろにするわけにはいかないから、レイジは彼女の提案を拒んだ。
「そうしたら余計絡んでくるだろうし、それが原因でまた俺の身に何かあったら、お前も嫌だろう?」
二人の関係を疑われると、ヒカリは一層レイジのマークを徹底する可能性がある。高所に怯えるようになったことも彼女に追われたことがきっかけの出来事だ。
だからヒカリの監視が強くなると、同じことの繰り返しになりかねない。そうなることで一番困るのはレイジ本人ではあるのだが、彼に苦手が増えることで弱くなってしまうのは、セインにとっても喜ばしくない。
セイン望まない結末を迎えないためにも、ヒカリを刺激するような行為に出てはならないと、レイジは説得を試みる。
「……これは俺の問題だ。あいつに非があるって押しつけないで、自分でなんとかしてみせる」
レイジの信念を聞いて、セインは次のプランを提案する。これも言葉ではなく、心の声で伝えた。
言葉にしないのは、嫌だからというわけではない。そして言わなくても心を読めば伝わるからと丸投げにしているわけでもない。
周りを気にするレイジのために、外部に情報が漏れないよう気を使った結果だ。彼はそれを分かっているから、声に出してこないことを指摘することも不快に思うこともない。
「だからお前の考える、時の石の力にも頼らない」
セインのセカンドプラン、それは過去を変えてしまうという案だ。それによってレイジが階段から飛び降りた過去を消して、高所恐怖症にならなかったことにする。
それが問題なくできるのなら、レイジは迷わず話に乗るだろう。だが彼はそう思わない。
「過去を変えたところで、自覚が遅くなるだけだ。きっとどこかのタイミングで、高い所が駄目になる」
レイジは飛行機の墜落による兄の死を知った現状、高い所から落ちると死ぬという思い込みが心の底に刻まれていると察している。だから一時の恐怖の芽生えを回避したところで、それは回避でなく先送りに過ぎない。
今回とは違ったタイミングで恐怖を自覚することになるだけなら、解決にならない。そうと分かっているから、セインの提案には反対する。
まず前提としている過去の改竄ができるのかだが、セインは“同期”に町屋時多という、時の石の探知ができる“ノーツ”を持った人がそれを可能にする。
時の石は時空を操り、特定の人の時間を巻き戻したり、物体を瞬間移動させたりできる。そんな石を探せるトキタに、セインは協力を求めに行こうと言っているのだ。
だが何もしなければいつまでも変えられない。いつかアイディアが思いつくからと曖昧な希望を抱き続けていても無意味だというのがセインの反論で、レイジもその点を言い返すことはできない。
思ったことに対して言葉が返ってこない。それでもセインはレイジのことを責めない。言い返せないのなら提案に乗れなどという力業には出ずに、じっと彼の決断を待つ。
「分かった。やるだけやってみよう」
レイジは考えを変えた。一人で解決できないから、こうして他人の視点を参考にしてみた。せっかく自分が出せない案を出してもらったのに、耳を傾けなくては、結局一人で彷徨っているのと同じこと。
ならば冒険してみてもいいと思った。悪い方向に働いたとしても、それは自分のせいではないから心なしか余裕を持てる。
そしてレイジの決断を聞けたセインは、嬉々としてトキタに連絡を送った。だがここで浮ついてボロを出してはまずいと考えるレイジは、当日までの約束を取りつけることにした。
「ただしこのことは学校の奴らには内緒だ。連絡も外でやろう」
「無論。しかし世間の叛逆者の集う円卓が恋しい」
校内での連絡は取らない。人目につかないためには当然の判断だが、空き教室に拠点を作って秘密裏に計画を進めてみるドラマや漫画で見た展開をこの機会にやってみたかったという思いもあり残念がる。
「あえて目立ってみるのもありかな」
セインの独り言からレイジは逆転の発想を得た。下手に隠そうとするから怪しまれる。
だったら堂々としていればいい。そんな彼の突拍子のないうえに妥当性のない、しかしそれが間違っているとは誰も気づけない考えをセインは飲み込めず頭にハテナが浮かぶ。
「つまりあえて人目につく場所で話すんだ。周りから見たら全然違う話に聞こえる感じで」
セインは他人に通じないよう言葉を選ぶ。本音は心の声としてレイジに届く。堂々と公言しているように見せかけて、裏ではまったく別の話を進めていくというわけだ。
そうやって時の石探知計画を進める。セインがトキタたちから得た情報は、レイジにだけ伝わるように表向きの言葉を濁す。そうして疑われず目的を果たすというわけだ。
「まあ物は試し。そもそもトキタが乗ってくれたらの話だからな」
提案するだけで納得してもらうのは難しいから、やるだけやって手応えを確かめるのもいいと考えるレイジ。だがこの話自体、計画が進められることを前提としているため、今から始めるのは早計だ。
まずはセインがトキタへ交渉を通すことから始まる。もちろんレイジも協力するつもりだ。
早速セインは電話して計画の加担を依頼する。石の力が必要だから探すのに協力してほしいと告げると二つ返事で承諾を得られた。このとき彼女はレイジの名前を出していない。
断られたときに備えてレイジを待機させていたわけで、その心配がなくなった今、彼の手を借りなくて済んだ。
そしてそのまま、他の二人の仲間にも声をかけて欲しいと依頼した。レイジには同級生なのだからセインの方から伝えて欲しいと頼まれると、すでに話は通していると即答して解決した。
今日するべき話は終わった。後は人前での秘密の会議の筋書きを決めるが、それは揃ってやる必要はないのでもう学校に残る必要はない。
だが帰ろうにもタイミング良く電車が来るわけでもなかった。
「抱えて飛んでもらえばすぐに帰れるけど、人目につくしな」
人の目以前に抱えて飛ぶのは怖がってできないのではと内心突っ込むセインだが、レイジもそれは分かっていた。
これは飛べないことを公言しないようにする練習であり、それを指摘しないのもセインたち秘密を知る者の役目だ。
「一人で大丈夫?」
「心配ない。じゃあまた明日」
セインは一足先に飛んで帰ろうとしたが、壁か手すりに頼らないと階段を降りられないレイジを一人で帰らせることに不安を覚えた。
だが彼とてそんな険しい道を通って帰るなんてことはなく、一人でも平気だと返す。
実際にレイジは家に着くまでは何事もなかった。




