9 幻影は語る
不意に、前触れもなく急ブレーキがかかったようにトロッコが止まった。
内臓を上から押さえつけられたような強い不快感に下唇を噛み、へりに肘をついて顔を覆っていると、指の隙間からヘイゼルがトロッコから降りたのが見えた。
顔から手を外して彼女の行く先を目で追うと、そこに岩壁にそのまま打ち付けられている扉がある。
ここまで辿り着くまでに似たような扉を何度か見かけていた自分は、そこで大体のことを悟った――その扉の奥にきっとダイアナがいるのだろう、と。
「入りましょう」
辺りを見回して確認している俺を横目に、ヘイゼルがその扉に手をかけた。
まるで火口口のように穴の空いている天井から星々が瞬く空を見上げていた俺は「分かった」と返しつつトロッコから降りる。
その時になって改めて落ち着いて見てみると、橙の光は蝋燭やガス灯のようなものから発されているのではなく、宝石のような色味の鉱物が発光しているようだった。
「この先にダイアナが?」
「ええ、ルーヴェの案内は確かですから」
「まるで今までに何度か似たようなことをしてきたような口振りじゃないか」
ヘイゼルはそれに返事をしなかった。黙り込んだ彼女が扉を開けた先には、最後にダイアナと別れた時と大して相違ないアーベントの丘が広がっている。
長い夢を見ているような気分だ、全くもって想像のつかないことばかりが起きる今日という日は、本当に現実のものなのだろうか。
草原にそっと足を踏み入れてみる。あの鼻につく潮の匂い――紛れもなく本物のアーベントと同じだ。
どこまでこの空間は続いているのだろう、と疑問に思ったが、それ自体は今重要なことじゃない。
「ダイアナ、どこにいらっしゃるのですか」
ヘイゼルが声を思い切り張り上げる。痩せ細った体格からは当然か細い声しか出なかったが、この空間は見た目に反して異様に音が響くらしかった。
彼女の声に反応するように草木が大きくうねり、ごうと音をたてて鳴る。
橙と桃色が混じった空は最後に彼女と別れた時と同じ色をしていて、いくつか星が輝いていた。
「取り敢えずあのダイアナの家に行ってみないか、あそこの森は後回しにして」
そう言って丘の下の方にある緑の屋根の家を指さす。昨日見たものとは僅かに外観が異なっていて、無かったはずの薪がいくつも積まれている。
それを見たヘイゼルは眩しそうに目を細めて「そうですね」と消え入りそうな声で頷き、それから顔を上げた。
「悪くない考えだと思います。でもグレイソン、私はここに留まっていてもよろしいですか?」
「どうして?」
「恐ろしいからです、あの家が」
沈まない夕日に照らされた彼女の顔は逆光になって見えなかった。
ヘイゼルはクリフ家に一体どんなことをされたのだろうか、と思うけれど、きっと聞くべきではないと考え、口元まで出た疑問の言葉を呑み込む。
人の抱えている秘密を何でもかんでも暴こうとしたところで、相手が自らそれを打ち明けようと決心したのではない限り、人としてどうかしているだろう。こんな所で彼女からの信用を失いたくはないのだ。
草が駆られているだけであまり整備のされていない道をひとりで下っていく。青や赤や黄の小ぶりな野花が風も無いのに揺れ、草が擦れあって音を鳴らす。
草原には現実には無かったはずの大きな岩がいくつか転がっていて、それから家の前に辿り着くと白く塗られている門扉を開き、玄関前の階段を上って扉を無遠慮に開いた。
「ダイアナ」
名前を呼んだが、返事は無かった。
中では両手で抱えられるくらいの埃の塊のような黒い何かが毛虫のように広い玄関の壁や床にひしめいていていたが、覚悟を決めて中に押し入る。
薄黄色の壁に手を当てて体を支え、不可抗力でその塊を踏むと、それがぴぃと小さな悲鳴を上げた。砂糖が溶けるように黄色い液を撒き散らして消えたそれに肌を粟立たせつつ、階段を探して更に中へと足を進める。
廊下は暗く、窓から射し込む光以外の光源は何も無い。壁に掛けられている白黒の家族写真をふと見てみて、そこに予想外の人物がいることに目を瞠る――この家を背景にして微笑んでいるダイアナの後ろに、あの集会所を管理しているというオルティスさんが立っていたのだ。
いくつか掛けられている個人の写真も見てみても、その内の一つにオルティスさんがいる。
それなりに若い頃に撮ったのだろうその写真の中で、彼はダイアナの従兄弟とよく似た顔をしていた。
まとわりついてくる塊を足で蹴ったり手で払い除けたりして振り払い、花瓶を落としたりしてしまいながらようやく見つけた階段の手摺りに手を伸ばす。
すると塊たちは俺を階段から引き摺り落とそうと群れをなし、巨大な手となって俺の片足を掴んだ。
「離せよ!」
そう叫んでもう片方の足でその手を蹴飛ばし、一瞬の隙を突いて四つん這いになって階段を一気に駆け上がる。
ダイアナがそこにいるのだろうか、その塊は俺の行く手を阻もうと今度は壁を伝って先回りしようとしてきた。
ならその塊が真っ先に塞ごうとする扉に彼女がいるはずだ――そう考え、間一髪のところで塊が覆い隠そうとしていたドアノブに手を掛けて部屋の中に滑り込んだ。
どんどんと巨大な質量が扉を破ろうとぶつかってくるのを背中で抑えて鍵をかけ、中に入り込んでいた塊を手や足で潰す。
扉の下の隙間から黒い何かが見え隠れするが、どうやらもう入って来れないらしい。一安心して顔を上げると、小さな少女が窓際の机に突っ伏しているのを見た。
「なあ、君――」
手に握っているペンで何かを書いていたのだろうか、分厚い手帳に文章が書かれている。開け放たれた窓から射し込む夕日が、背中に流れる焦げ茶の髪を黄金色に輝かせていた。
その小さな肩に触れようとした時、少女がゆるりと顔を上げる。驚いて後退った俺に振り返った彼女は、さも今起きたばかりかのように目を擦り。
「なあに」
舌足らずの声がそう尋ねる。長く濃い睫毛の下に輝く緑がかった薄灰色の大きな瞳に、子供らしく切り揃えられた前髪が影を落とす。
眠たげに赤い唇、腕の跡がついた薔薇色の丸い頬。世界で最も純真な存在であるその幼い子供には、ダイアナの面影があった。
――本当に彼女なのではないか、と鼓動が高鳴る。
「なあ君、少し聞きたいことがあるだけど――」
「お父さんが殺されちゃったこと?」
突然の告白に、な、と、声が漏れた。
目を見開いて固まった俺を横目に、彼女が椅子から立ち上がる。
その時に初めて向こうの景色が透けて見えることに気がついて、彼女がダイアナそのものではないことを知った。彼女はダイアナが作り出した世界の中の、ひとつの幻影でしかないのだと。
「……お父さんが? 君の?」
「うん、死んじゃった。おじさんがお父さんを銃で撃ったの、私見たんだよ」
こちらを見つめる純新無垢な瞳に、ぞわりと肌が粟立った。
叔母の家に来ていた男はダイアナのことを「私の愛する娘」だと言っていたが、実の父では無いというのだろうか。
別にそれ自体は養子だなんだで特別疑問に思うようなことではない、けれど何か強烈な違和感が胸の奥でつっかえている。
ヘイゼルの言葉を信じるなら、あの養父がダイアナに何かをしたのではないか。
「……新しいお父さんは出来たか?」
「うん、でもね、お母さんとお兄ちゃんは一緒じゃないの。そのおじちゃんがね、『言うことを聞かないお前のお父さんを殺して、それでお前を自分の子供にするんだ。そうすれば全部うまくいくから』って言ったんだよ」
「それでそのおじさんの養子になったってことか?」
「そういうこと!」
つまりあの養父がダイアナの実の父を無惨に殺したということか――そう気付いた時、猛烈な吐き気が喉奥から込み上げてきた。
「ダイアナを追い詰めたのは彼女の家族だ」と言っていたヘイゼルの言葉がようやく現実味を帯びてじわじわと広がっていく。
あのダイアナと顔がよく似ていた従兄弟とやらは、もしかすると彼女の実の兄なのかもしれない。
確かその従兄弟はオリバーという名前だったはずだ、と思い出して彼女に「君の兄さんの名前は」と尋ねると、満面の笑みを浮かべた彼女から予想通りの答えが返ってきた。
「オリバーはねぇ、とっても格好よくて頭がいいの!」
本当に馬鹿げた話だ、と思う。顔に滲み出た冷や汗を手で拭い、彼女の前に片膝をついて跪く。
幼く見える彼女からこれ以上の情報を聞き出すことは難しいと判断した俺は、早々にここを去ることを決意した。
「ダイアナ、必ず君をアーベントから連れ出す。だから頼むよ、早く俺の前に出てきてくれないか」
ダイアナのことは断片しか知らないのに、どうしてこんなにも心が引き裂かれる思いがするのだろう。
幻影にそう伝えたところで意味なんて無いだろうに、まるで神を模した像に縋る信者のように彼女の瞳を見つめた。
焦点の合わないその瞳は俺の存在を無視するかのように違う方向を向き、何かを口先で口走ったかと思うと、彼女の姿が水に溶けるように崩れて霧散した。
意識しないと上手くできない呼吸に顔を歪め、外に出ようかと踵を返そうとした時、彼女が書いていた手帳がまだ机の上に残っていることに気がついた。
文鎮がわりらしい青みがかった光沢のある巻貝と何かの拍子で倒れたらしいインク瓶をどかし、その手帳を拾い上げる。
殆どの頁は真黒になって読めたものではなかったが、捲っているうちに文章が残っている場所を見つけ、そこに目を落とした。