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『太初の鯨』
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アイリは、『太初の鯨』から次のような意味のある文字列を見つけた。
八月十四日の中山道を走るバスの中は混んでいる。理由は、盆のUターンラッシュがあるからだ。僕は、合宿のメンバーとともに、だらだらとした時間を過ごしていた。合宿のメンパーについては、二人だけだが解説しておこう。一人は、山崎くん。彼は、僕の隣で寝ている。今日の朝、早くおきて富士山が見える湖の周りを散歩した。だから彼は疲れているのだろうと僕は推測している。そして、彼は僕よりも人前で寝ることに遠慮がない。だから、一緒に散歩に行った僕が今、おきているのにも関わらず、バスの中で寝ているのだろう。
もう一人のメンバーは、論理的にわかると思うが、僕のことである。この文章を書いている僕だ。と書いても読者には、今までの文章に書いてきた分しかわからないだろう。だから、これからは僕に関する情報を書いて、読者に僕をわかってもらえるように努力したいと思う。まず、名前から。僕の名前は、山岡美咲、である。山崎くんとは、苗字に同じ漢字の「山」が入っているということで仲良くなった。美咲という名前については、少し気に入らない。でも、両親がつけてくれたものだから、仕方なく受け取っておく。僕は、いつか好きになれる時を待っている。必ずしも、大切なものと、たった今大切なものは一致するとは限らないからだ。いつかは、僕が、または僕の周りの状況が変わって、今は気に入っていない、この名前を好きになれるかもしれないということだ。僕について、言わなければならないことは、このぐらいだろうか。僕は、この文章を読んでいる人に知ってもらいたいことは、僕自身のことについては、このぐらいでいいと思った。もっと、僕の周りのことを書いた方がいいのではないかと思えてきたからだ。やはり、人間とは、自分自身のことだけではうまく見えてこないものであると思った。
これからは、僕の周りのことについて話そう。
このバスは、渋滞に巻き込まれてちっとも進んでいない。その渋滞に退屈して山崎くんは寝てしまっているわけだ。山崎くんとは僕の唯一の友達である。そして、このサークルの部長である。長身である。そして、文学サークルの部長らしく小説を書いている。僕は、山崎くんの小説よりかは、詩の方が好きなのだが山崎んくは小説に挑戦したいとよく言っている。詩は自分で書いていても自分で良さがわからないらしい。だから、上達できない。その分、自分は小説はよく読んできているから、自分で書いたもののダメなところがよくわかる。次はどういう風に直そうとか、考えるから楽しいのだという。山崎くんは、絶対に夏目漱石しか読まない。それ以外の本を読んでいる時間はないので、どうせなら一人の作家を追求していた方が豊かだと割り切っているそうだ。この世界で本を心から楽しむ方法は、一冊も本を読まないか、一冊だけをなんども読み続けるかだけだと言っている。山崎くんは、「明暗」しか読まない。未完の小説だからだ。終わってしまった小説は、いつか飽きてしまうからだそうだ。
山崎くんは、足をお腹にくっつけるように抱きかかえて、バスの中で寝ている。まるで、母胎の中にいる赤子のような姿勢である。僕は、まるでこのバスが胎内のように思えてきた。紅のバスシートがまるで胎盤のように。黒いシートペルトは、臍の緒のように。僕たちは待っている。
渋滞は、終わらなかった。バスの放送は、なり続けた。僕たちに何かを言い聞かせるように。
ただいま、予定より一時間ほど遅れております。ただいま、予定より二時間ほど遅れています。ただいま、予定より三時間ほど遅れております。ただいま、予定より四時間ほど遅れています。ただいま予定より五時間ほど遅れております。ただいま、予定より六時間ほど遅れております。ただいま、予定より七時間ほど遅れております。ただいま、予定より八時間ほど遅れております。ただいま、予定より九時間ほど遅れております。・・・
定期的に訪れるそのアナウンスは、やがて、僕たちの耳に入らなくなった。そのアナウンスがなっている間、山崎くんは一度起きて、僕と少し話した。バスのトイレは綺麗だったかどうか聞いてきたのだ。僕は綺麗だったと答えた。山崎くんは、歩いてトイレに行った。僕たちは、一番後ろの席に座っていたから、トイレには行きやすかった。どんな人がトイレに入ったのかもわかった。バスに乗っている間、ほとんどすべての人が1回ずつトイレに入ったと思う。
僕たちはお腹がすいてきた。お土産を食べてしまおうと思ったが、山崎くんに止められた。山崎くんは、じゃがりこをバッグから取り出して、僕にくれた。僕は、じゃがりこを一本ずつ噛みしめるように食べた。じゃがりこの硬い、油をまとった繊維が前歯に砕かれてバラバラになっていく感覚。塩が舌に触れ味が現象する瞬間。僕は、ものを食べるという口が持つ機能を再確認した。じゃがりこを一つ食べ終わる頃には、バスは静かになっていた。山崎くんは、もう一度眠っていた。ほかのみんなも眠っていた。僕は、シートベルトをとってバスの席を立った。
みんな、何かを待っていたのだ。しかし、待ち続けているうちに、何を待っているのかもを忘れてしまった。そして、その忘却の時間がバスの中の日常になってしまった。あらかじめ何かが欠損している日常。その中で僕たちは、眠るか手元の小さな携帯電話の画面を見ることぐらいしかできないのだ。
僕は、バスの運転手席の方までまっすぐ歩いて行った。そしてまっすぐ前を向いている運転手に声をかけた。
「そろそろ、休めよ」
運転手は、僕を無視した。
僕は、しばらく彼の後ろに立っていた。ふと、振り返ると乗客はみんなあの胎児のような姿勢で眠っていた。紅いシートに身を納めて、黒いシートベルトに身を縛って。
「みんな、君のことをすっかり忘れて勝手に寝ている。でも、君だって人間だし、ずっと運転していたら疲れるだろう。もう休んでしまいなよ。僕が運転を変わるから。」
運転手は、バスを一旦止めると、と行っても進んでもいない渋滞の中だったが、運転席から立ち上がった。僕は、一番後ろの席が空いていると彼に教えた。彼は、黙って空いている席に向かっていった。
僕は、運転席に着くと、バスを発進させた。バスは長いトンネルの中をゆっくりと進んでいるようだった。
やがて、トンネルが終わった。
アイリは、『太初の鯨』から次のような文字列を発見した。




