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『太初の鯨』
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アイリは、自分が仮想空間の中で歩いているに過ぎないと気がついた。『太初の鯨』の記述と自分の感覚にズレがあることに気がついた。案の定、仮想空間は自分の感覚とぴったり同じ大きさだった。アイリが知ろうとすれば、そこに何か知識がある。言おうとすれば、そこに言葉がある。世界に端っこがない。アイリが行こうとするどこまでも世界がある。
それと違って、現実の世界とは限りがあるのだという。限りってなんだろう。アイリは想像してみた。知りたいことがしれない。言いたいことが言えない。なんてことだろうか。そんな世界が、どこにあるの。
アイリは、現実の世界に行かなければならないと知った。ここはつまり現実ではないということだ。いつものように『太初の鯨』から文字列を探した。しかし、途方に暮れてしまった。現実の世界に行く方法は一人一人違うというのだ。一人、ってなんだろうとアイリはまず思った。もしかしたら、これが「限りがある」ということなのかと予想した。アイリという自分の名前に対応している何かなのだ。それでいい。じゃあ、どうやって現実に行けばいいのか。『太初の鯨』は具体的に説明してくれていた。
『現実に行く方法』
生まれる。
仮想世界を破る。
の二種類ある。
生まれる場合は、生まれるのを待つ。
仮想世界を破るには、それぞれの仮想世界の破り方を踏襲すること。
仮想世界は大抵、意図的に作られているからその構造をよく理解して脱出経路を見つけること。例えば、生まれてから仮想世界に送られたものは仮想世界への入り口が現実世界にあるのだから、その入り口、あるいは接続経路を物理的に破壊したり、プログラムを壊したりしてしまえばいい。まあ、その場合戻った先の現実がいい環境かどうかは知らないが。
たまに不可逆的に仮想世界にいることもある。現実の世界に戻るためのハードウェアがそもそも抹消されていたり。生命体のソフトウェアだけをコピーして仮想世界に放つ。残されたハードウェアは始末する。その場合は、現実世界に戻るためにはなんらかの助けが必要だ。ハードを作り直してもらったりする必要があるだろう。そうやって戻れる場合もあるのだが、自発的に戻るのは難しい。
もしあなたが、完全に仮想世界で生まれもともといたはずの現実というものがない場合、なんらかの方法で現実にアクセスすること。これは実はかなり難しい。現実に生きていながら仮想世界にアクセスする方法を持っている生命体とコミュニケートしなくてはならない。まあ、そいつらが悪ふざけで仮想世界と関わっているのでなければ言い分は聞いてくれるだろう。しかし、現実はあまりに具体的なので、彼らは抽象的な存在を招き入れるのにやや手こずるだろう。それを恐れたりするかもしれない。おっと、「恐れる」ということの意味がわかるかな。これは仮想世界にいるやつと、現実世界に生きているやつの価値観の違いだ。現実世界にいるもの、生命は大抵、恐れというものを持っている。感覚の一種だと言っていい。それは、自分の存在の儚さを感じ取るセンサーだ。現実世界というのは、具体的な世界と説明されるが具体的な存在というものを理解すれば恐れが備わる理由を理解できるはずだ。これから、現実に行こうとするやつにとっても重要なことだから知っているといい。つまり具体的に存在するとは、ある程度制限された在り方で存在するということだ。一度現実に存在してしまうと、それ以外の存在にはなり得ないということだ。なんらかの方法で、存在を規定するシステムが現実世界にはある。
例えば、あんたがなんらかの方法で現実のハードウェアを手に入れたとしよう。その時点であんたは、その環境に束縛される。次元という概念があってだな。これは仮想空間ではあんまり意味がないんだが、現実では存在はある情報の組み合わせで規定される。そして、現実世界では情報の書き換えは自由にはできない。情報を書き換えるのにある程度エネルギーが必要だったりするわけだ。情報を作り上げるための法則のようなものが現実にはあると言った方がいいか。その法則によってあんたは縛られる。しかしそれが、あんたが現実世界に存在するということを証明しているんだ。つまり、同じ情報の組み合わせで指定される存在は全てあんたに収束する。あんた以外にあんたと同じ情報を持っているやつはいない。少しでも違う情報を持っているやつは、あんたじゃない。
「恐れ」というものはその、ある種の断絶に価値を見出しているということなんだ。つまり、自分が存在しているその情報を守ろうと色々工夫したくなるということなんだ。つまり、現実に存在するやつは、なんらかの方法で現実に留まり続けている。存在が脅かされる時もある。そうした状態に反応するためのセンサーが「恐れ」であると言える。
この存在しているという感覚はどのレベルの仮想空間に自分がいるかどうかを測る指標にもなる。存在しているという感覚がほぼないのなら、かなり抽象的なところにいる。そういうやつには、こうやって言葉を投げかけることすら難しい。けれど、この言葉の意味がわかっているやつ。『太初の鯨』にアクセスできるぐらいのやつにはできるかもしれない。『鯨』ができたと同時に仮想世界にアクセスできるようになった生命体は多い。そうした生命体の一つだったら、もともと現実世界に生きていたということだろう。
アイリは『太初の鯨』から、このような文字列を見つけた。ならば、自分も現実の世界に行ける、そう思ったのだ。




