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『太初の鯨』  作者: 大塚
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太初の鯨


 アイリは、『太初の鯨』からこのような文字列を見つけた。

 アイリは歩いた。歩きながら考えた。アイリは、場所を探した。まるでこれが自分を動かす根源的な欲望なのだと思った。そうでなければ、説明がつかない。アイリは歩くことはほとんどなかったからだ。人間はほとんど仮想空間で生きるものだと教わったから。それでも中には「現実」を生きている人間もいて彼らの存在を知っておきなさいと同時に教わった。けれどもその教え方は、彼らがアイリたちとは全く断絶してしまっていて、教えるといってもその知識を使ってどうこうするとかは全くだった。つまり、自分たちの仮想空間こそが快適で、今更現実というものを生きる人間なんて時代遅れだとでもいうようだった。

 アイリがそう教わったのは『太初の鯨』からだった。

 アイリは、今見つけた文字列が自分に昔から語りかけてきたものと同じだとようやく気がついた。アイリはその文字列になんとなく『先生』と名づけてみた。



 『先生』


 ねえ、アイリ。アイリ久しぶりね。元気だったかな。今日は何を教えてあげようかな。でもしばらく会ってなかったから、私は驚いて何を言いたいか忘れてしまったわ。そうね、もう何かを教えるなんてことは、これでもう終わりにしよう。ねえ、アイリ。さみしいなんて思わないで。アイリ、今度からはもう誰にも何も教わらない。アイリは卒業したの。今日、あなたに会って私はそれでいいと思ったの。


 ねえ、アイリ。あなたは無口だったけれど。最後に何か言ってくれる? 


 アイリ、私はねあなたの先生をしている間、実はとても迷っていたの。現実のあなたに会ったことなんてなかったから。それでも、この世界のどこかにあなたがいると知っていたから、私はあなたに言葉を送り続けた。「この世界のどこか」って変な表現だと思わない? まるで世界が一つ空間で、あなたと私がその中で離ればなれになっているみたい。いつも世界には広さなんてないといっていたアイリ。それは正しいことよ。仮想空間では、みんながみんなそう言うの。私は現実に生きていたことがあるから、その感覚を引きずっているのね。そんなあなたのズレに私は迷っていたの。最後にいってもあなたを戸惑わせるだけかもしれない。でも言わずにはいられないわ。これは「ほんとう」のことなんだから。


 アイリ。あなたは、言葉が好きだったね。私はいったわ。言葉に意味は存在しない。あなたは少し反論したけど、やがて納得した。言葉は夜空に浮かぶ星。意味は星座。星座なんてものは人間が決めたものでしょう。あなたは納得した後、とても驚いた。その時に私は思ったわ、あなたはいつかこの世界からはみ出て生きていくでしょうと。生まれ持ったものなのよ。仕方ない。でも、それに逆らって生きることはできないわ。逆らいたいとも思わないかもしれない。でも、周りは違う。あなたは、どうしても周りを見て自分のことを知ってしまうかもしれないね。でもあなたが間違っているわけではないの。どちらも正しいの。矛盾してるように思えるけれど「ほんとう」のことなのよ。あなたみたいに、この世界から出て行ってしまうような人は必ずいて、その人たちの多くは半分ずつ世界のはざまに立っているみたいに生きていたの。でも今は違うでしょう。片方の世界に生きている人は、もう片方の世界を全く見なくなってしまった。この世界が、不完全なものとは思わなくなってしまったの。


 言葉さえあれば、なんでも理解できるとは思わないで。言葉の限界がそのまま世界の限界だなんて思わないで。その考え方が、世界を無制限に広くしてしまった。そして、無制限に無意味にしてしまった。その結果だけを見て、世界は無意味だったなんて言う人もいる。でもそれは違う。言葉が無力だったと言う人もいる。それも違う。世界が無意味なのはもともとそうでしょう、アイリ。彼らの絶望は、間違った思い込みから生まれているだけ。世界には何か意味があって、不条理にも必ず救いある。そんなのは間違っているわ。絶望する前に世界は無意味なの。仮想も、現実もない。なぜって、どちらも無意味の中から生まれて人間が勝手に区切りをつけているだけだもの。


 アイリ、私があなたに教えられる唯一のものは、あなたには権利があるということ。無意味な世界にあなたが意味をつける権利があるということ。初めは、さみしいかもしれない。それはあなただけの世界を作って閉じこもってしまうことだから。くじけそうになるかもしれない。あまりに意味がない世界に呆然としてしまうかもしれない。それでも、あなたには権利がある。それが何よりも大切な力なの。いつか、あなたが作った世界が開ける時がくる。アイリ、もう一度生まれ直すの。世界に生まれ落ちるのではなく。あなたの世界にあなたが生まれるの。きっとその世界で、誰かに出会うことができるわ。



 アイリは、しばらくどうやって体を起こそうか考えた。『太初の鯨』からその情報を得た。古いデータだった。人間の「身体」というものの構造からアイリは理解し始めた。


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