55話 乾坤一擲
そこには、先程まで褒め殺し作戦で顔を真っ赤にしていた黒咲はもういなかった。
「そ……そんな馬鹿なっ……」
まさか事前に(ネットで)予習していたのに敗北するとは夢にも思わず。ガックリと膝を落としたオレを得意げに嘲笑う悪魔のような女がそこには立っていた。
「それじゃ、景君が飲んだ条件だけど……当然だけど実行してもらうからね。ほら」
「……は?」
当然ながら、この勝負に黒咲がした時にオレが交わした約束くらい、こんな短時間で忘れるわけがなかった。
あえてとぼけてみせたのは、敗者であるオレのせめてもの抵抗だと思ってほしかったのだが。
「……は、じゃないよ──ほらっ、早く!」
黒咲は険しい表情を浮かべながら、一歩前に足を物凄い勢いで踏み出すなど。明らかに不機嫌な態度を見せて、オレに敗者であることを認めさせようとする。
オレが黒咲を名前で。つまり「杏里」と呼ぶという。
(な、何でそんなムキになってるんだよ、黒咲のやつはさ……)
別に名前で呼ぼうが苗字で呼ぼうが、どっちでもいいじゃないか、とオレは思っていたが。
だけど、もしかしたら黒咲がオレに名前を呼ばれたいのは別の理由なんじゃないかと考えてみるのだった。
(そういや……何でオレ、真由は名前で抵抗なく呼んでるのに、黒咲だけ苗字で呼んでんだ? んー……)
小学生の頃に下の名前を知らずに親しくなったから、黒咲はずっと「黒咲」と苗字のまま。
真由なんかは、最初に出会った頃から自分のことを名前呼びしていたから「真由」とオレも釣られて呼んでいただけだ。
黒咲のことを、真由と同じように名前で呼ぶという発想なんて。つい先日までは思いもつかなかったのかもしれない。
だが。そうじゃなかったんだ。
「あ、あー……くろさ、いや」
「な、なんだい、景君っ……」
オレの呼びかけに、黒咲が名前を呼ばれるのを期待しているのか。目をキラキラと輝かせながらこちらに一歩踏み出し、笑顔でオレの顔を覗き込んでくる。
(多分、オレは友達だと思ってた黒咲を、一人の異性として見るのが怖かったんだ……うん)
沖縄に到着してからのやり取りだけじゃない、大騒ぎになった夏休み直前の停学騒動の時もだし。両親が不慮の死を遂げたあの日にオレに寄り添ってくれた時も。
何なら、中学、高校とずっと一緒にいたのも、黒咲がオレの事を友達以上に見てくれていた彼女の、慕情に限りなく近い好意を。
オレはずっと気づかないフリをしてきたのだ。
ホテルの前で一度は黒咲のことを、サンダルを用意してくれたお礼がわりに名前で呼んでみせたが。
あの時のオレは本当に軽い気持ちで呼んでみただけにすぎなかったが。
(え、ええいっ! オレは勝負に負けたんだっ……だったら覚悟を決めろっ、灰宮景!)
ついに。
過去から引きずったわだかまりを捨てたオレは。
「──あ、杏里っ」
ようやく。目の前にいる黒咲の……いや、杏里のことを名前で呼んでみせると。
何故か、オレの顔をジッと覗きこんでいた杏里の目にじわりと涙が浮かんでいた。
「って、な、何で名前呼ばれたくらいで泣くんだよっ? ふ、普通、泣くとしたら賭けに負けたオレのほうだろうがっ」
名前を呼んだことで、異性として意識せざるを得なくなった杏里が、突然泣き出したのだ。オレは慌ててズボンのポケットからハンカチを取り出すと、ぶっきらぼうに彼女に差し出す。
「ほ……ほらっ、早くふけよっ……」
「あ、ああ……そうか、私、泣いていたんだな」
杏里は杏里で。最初はいきなりハンカチを差し出してきた意味を理解できなかったような、きょとんとした顔をしていたが。
どうやらオレがハンカチを差し出したのと、オレの言葉を理解して、そこで自分が涙を流している事実に気がついたようだ。
「ふふ……まだ私も精進が足りない、といったところかな?」
オレの手にあったハンカチをようやく受け取った杏里は、自分の目元に浮かんでいた涙を拭き取ると。
「いや、すまないね景君……まさか、名前を呼ばれたくらいでこんなに心が掻き乱されるとは思ってもいなかったよ」
「いやいや、名前なら昨日も呼んでやっただろ?」
杏里、と名前を呼ぶ程度のことで七年間も悩んでいたオレ自身を棚に上げて。照れ隠し……にしてはずいぶんと下手な返し文句を口にするオレだったが。
「確かにそう……なんだけどね。でも、昨日と今日じゃ、名前にこもった熱が違う……そんな気がしたから、私は思わず泣いてしまったのかもね」
ホテルの前での軽い気持ちで名前を呼んだのと、杏里を意識しての違いをしっかりと把握していた彼女は。
ニヤリ、とオレの心を見透かしたかのような微笑みを見せてきたのだ。
(……ゔっ、す、鋭い)
さすがは杏里。オレと七年、一緒にいただけあってかかなり的確な読みをしてくる。
だとしたら、名前を呼ぶまでのオレの心の中の葛藤までも実は読まれているのではないか……と思うと。
恥ずかしくなったオレは、ふと杏里から目を逸らしてしまうが。
「おい景君。こっちを、見るんだっ」
視線を外したのを察知した杏里が、オレの両の頬を左右の手で挟み。杏里から視線を外せないよう強引にオレの顔を真っ直ぐに向かせると。
「じゃあ……そろそろ行こうじゃないか、景君っ」
「ふえっ、ど、どこにうぶっ?」
自分でも間抜けな答えをしたと思った。
「どこに、って。水族館に決まってるだろ? ん?」
オレと杏里は今、水族館の入館口にいて既に営業は開始している。この状況で、水族館以外の一体どこへ行こうというのか。
「……ひ、痛ひ痛ひ痛ひっっ?」
そんな間抜けなオレへの罰は、さらなる杏里の両手の圧迫だった。ぎゅぅぅぅと両の頬を挟まれたオレは、口がすぼまって間抜けな声を出してしまう。
ようやく杏里のお仕置きから解放されたが、オレの頬はまだヒリヒリと痛んでいた。
「く……ぷぶっ、あっ、あはははははははっ!」
頬をさすりながら痛がるオレの様子を見て、腹を抱えて大笑いする杏里の姿は。
いつも見慣れていた彼女の態度とは、どこか違うように見えた。
はっきりと何かが違う、という表現は間違っていて。正確にはここ最近の杏里では見られなかったという懐かしい気持ち。
(そういや……中二の時か。大会で優勝してから、あいつは落ち着いた性格に変わったんだよな……)
中学生になりたての頃は、まだ小学生気分の抜けていなかったオレと杏里はよく二人で近所の公園で遊んでいたりしたし。うちにも来て、母さんが用意したおやつの取り合いをしていたっけ。
そんな杏里が、剣道部に入部したのが中二の頃だったが。入部してすぐに参加した剣道の大会で破竹の勢いで勝ち進んでいった杏里は、あれよあれよと言う間に全国優勝を果たしたのだ。
当然ながらオレは杏里の優勝を祝った。
だが、全国優勝をしたことで杏里への周囲の評価が激変し、マスコミの取材なんかも受けることがあった杏里は。
そんな部活や周囲の対応の合間をぬって、杏里は変わらずにうちに遊びに来てくれてはいたが。
まだ小学生気分が抜けなかったオレとは違い、背中が見えなくなるほどの大人の階段を先に登っていってしまったように思えた。
そんな懐かしい回想に浸っていたオレは、不意に手を握ってきた柔らかな感触で我に返る。
「何をぼーっと立ってるんだい景君? せっかく邪魔者がいないデートなんだ、一分一秒でも惜しいんだよ、私はっ」
「で、でで、デートって、そ、そんな大層な」
「だって……そうじゃないか。年頃の男女がこうやって名前を呼び合いながら、手を繋いで水族館を見て歩くなんて、デート以外の何だと言うんだい?」
真由の療養のための時間をデートとは呼ばないだろう、と異議を申し立てたオレだったが。
オレの主張は、杏里の言葉によってもれなく論破されていってしまう。




