第参楽章
「イズールゥゥゥウウウウウウウウッ!」キノは、絶叫した。「【アァァアアアアアアアアアアア!】」
キノの丹田から、どす黒いヱーテルが湧き出てくる。絶望、怒りといった感情とともに、無尽蔵のヱーテルが後から後から湧き出してくる。その量が、【アマテラス・オリジン】が時間当たりに吸収できる上限を超えた。ヱーテルの自由をかろうじて取り戻したキノは、絶叫をそのまま歌唱にして、【アマテラス乙式】召喚した。
生み出した鋼鉄の肉体は、創ったそばから女神の心臓にヱーテルを吸い取られ、粒子となって崩れていく。この部屋にいては、長くは持たない。だからキノは、敵将校たちを踏み潰しながら『心臓の間』から飛び出した。途端、女神の心臓によるヱーテル吸収の効果が切れ、キノは完全に自由になった。
「ナゼダ、イズール! ナゼダナゼダナゼダ、イズールゥゥゥウウウウウウウウウ!」
キノは、暴れた。アズマ皇帝の近衛らしきデュエットが【アマテラス乙式】で斬りかかってきたが、絶叫とともに【火球】を放ち、塵芥も残さず燃やし尽くした。
皇帝の姿はない。既に逃げたのか。
いったいどこに潜んでいたのか、四方八方から何体もの【アマテラス乙式】が飛びかかってきた。が、キノは全員燃やした。最後の一体を燃やし尽くした次の瞬間、
「ぎゃっ」
強烈な衝撃を受けて、気が付けばキノは倒れていた。自機を押しつぶそうとしているのは、拳だ。【アマテラス甲式】よりもなお大きな拳だ。全長数十メートルはあろうかという超巨大【アマテラス】が、城外から拳を振り下ろしてきたのだ。あれも、【甲式】の一種なのだろうか。あれは、アズマの最終決戦兵器の類だろうか。だが、そんなことはキノには関係ない。
「【ウガァァアアアアアァアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアアアッ!】」
獣のごとき絶叫に、キノの全ヱーテルが載る。一億単位、十億単位、百億単位、千億単位――――……一兆単位。
太陽、が、生み出された。
天守閣の上空、超巨大【アマテラス】の頭上に太陽が顕現し、ゆっくりと超巨大【アマテラス】を押しつぶしていった。瞬く間に、城下町は火の海になった。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ」
キノは、自機を押しつぶしていた超巨大【アマテラス】の腕を蹴り退かす。超巨大【アマテラス】の二の腕から先は、炭になって崩れ落ちた。少し遅れて、巨大な腕がヱーテル粒子となって消えた。キノの圧倒的火力を前に、【女神送還】する間もなく敵女神召喚師が絶命したのだ。
「はぁっ、はぁっ、あぁぁ……あぁぁぁあああああああああああああああああああ!」
いつしかキノは、泣いていた。鋼鉄の体は、涙を流すことができない。だが、キノは確かに泣いていた。心で泣いていた。大切な、大切な仲間たちだったのだ。十日間の旅で、絆を結べたと思っていたのだ。今朝の戦いで、自分は確かに、本当の意味で彼らの仲間になれたと思ったのだ。なのに、なのに。殺された。あっさりと殺された。ゴミみたいに殺された。イズールが、殺した。キノの大切なものを、殺して壊して奪ったのだ。イズールは裏切っていた。敵だったのだ。
「をいをいをい、やってくれたな姫さん」
その、イズールが。かつて、キノが愛した男が。兄にして師にして恋人が。……敵が。今、キノの前に立っていた。燃え上がる天守閣の中心で、身の丈以上の長さを誇る長巻を構えながら、悠然と立っていた。
「せっかく、最小限の犠牲でお前さんを捕まえるべく一芝居打ったっていうのに、このとおりご破産だ。いやぁ、参った。まさか太陽を降らせてくるとはな。やっぱりお前は最高だよ、キノ。お前はいつだって、余の想像を超えてくれる」
「イズール、なぜだ」
「言っただろ」イズールが冷ややかに笑っている。「余は日出処ノ皇子。アズマ皇国の皇太子が、アズマを勝たせるための極秘作戦に従事していただけのことだ」
「…………。お前、そんな顔してたンだな」
美しいアズマ顔だった。切れ長な目、すらりと通った鼻筋。髪は黒く、伸ばして結い上げられている。こんな時でなければ、見惚れていたことだろう。あれほど見たいと渇望していた、愛する男性の顔。願いは、最低最悪の形で成就された。
「それに、その目」
「そう。だから余は、仮面を外すことができなかった。あの仮面は、目の輝きを抑えることのできる特別製でな」
そう言えば一度、テント内で仮面を外していたイズールが、キノの入室とともに慌てて仮面を被った時があった。あの時キノは、テントの中に明かりが灯っていたような気がしたが、室内が暗かったので、気の所為だと思い直した。だが、気の所為などではなかったのだ。あれは、イズールの瞳が放つ輝きだったのだ。
イズールはいつなんどきも、仮面を被り続けていた。幼少期、あの暗い塔で出逢った頃から被り続けていた。あんな幼い頃から、イズールは既に【アマテラス・オリジン】の加護を受けていたのだ。……当然だろう。国を愛し、国のために単身でスパイ活動に勤しむ幼き皇子を、アマテラスが愛さないはずがないのだから。
「イズール、お前はノルニルの敵だ。私の敵だ。だから……だから、ここで、殺す」
「できるのか、お前に?」イズールが一歩、前に出た。生身だというのに、七メートルの鋼鉄の巨人を前にして、臆することなく踏み出した。二歩目からは、疾走になった。
(速すぎる!)キノは、目で追えない。相手は生身の人間なのに。脚部に車輪は付いておらず、ジェットヱンジンを噴かしているわけでもないのに。
だからキノは、大きく息を吸った。それから、
「【ウガァァアアアアアアッ!】」
咆哮。ヱーテル制御も何もない、キノ赴くままの叫びだ。叫びとともに放出された大量のヱーテルが熱を帯び、【大火球】を生じさせはじめるが、
「ッ⁉」
次の瞬間、炎は消失した。イズールが低音域歌唱とともに、その長大な刃でもってキノ機の首を斬り飛ばしたからだ。強制【女神送還】され、キノは宙に投げ出される。
「かはっ」背中を強かに打ち付けたキノは、「【ウガァアアアアアアアアアッ!】」
再び、【アマテラス乙式】を召喚。立ち上がり、速やかに【火球】を生じさせようとするが、その時にはもう、イズールが背後に回り込んでいた。
「遅すぎる」
胴体を真っ二つにされた。上半身と下半身が泣き別れる激痛とともに、キノは強制【女神送還】される。
「【アァァアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアアッ!】」再び、女神化。
だが、結果は同じ。キノが【アマテラス乙式】として顕現し、燃え盛る天守閣をカメラが捉え、轟々という炎の音をマイクが捉えはじめた時にはもう、イズールがキノの死角に回り込んでおり、長巻きを振り下ろし終わっていた。
再び、【女神召喚】。強制【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。【女神召喚】、【女神送還】。キノは必ず、一手遅れる。【アマテラス乙式】にならなければ、【火球】や【鉄鼠の檻】を始めとした攻撃魔術が使えない。が、【女神召喚】のためには最短でも一、二秒の隙が生じる。ただでさえ目で追えないイズールが、一秒もの巨大な隙を見逃してくれるはずがない。
(くそっ! 【思考加速】と【身体加速】さえあれば、渡り合えるのに!)
その思考に意味はない。【伍式ヴェルダンディ】も【伍式スクルド】も【伍式ウルド】も、【アマテラス丙式】も同【甲式】に至るまで、それらを召喚するための魔石はすべて、イズールに預けてしまっている。キノがいつも裸身の上に羽織っているトレンチコート。あの中にすべての武装は収められているのだ。今のキノには、この右手の中にある【アマテラス乙式】しか武器がない。
それにそもそも、イズールの歌がなければ、キノは運命の三女神を召喚することができない。キノは【加速】、【未来予知】、【過去改変】という三女神の超強力な魔術を使いこなすことができるが、それはイズールに歌で鎮めてもらえればこそなのだ。あの、圧倒的な力。六百倍の世界で、アズマ軍最精鋭の女神の群れを鎧袖一触にした、あの無敵の力はすべて、仮初のものだったのだ。
イズールと再会してから、キノは幾度もの女神戦を経験した。そのほとんどの戦いにおいて、キノは圧倒的な勝利を収めてきた。女神を暴走させることなく、思う存分力を振るうことができた。キノ自身にも目で追えないほどの動きで、敵を打ち倒すことができた。イズールの歌は、キノにとっては翼だったのだ。イズールの歌が、暗い塔に囚われ続けていたキノを救い出してくれたのだ。
イズールさえいれば、キノは無敵だ。
だが、そのイズールが敵に回ってしまった今、
(私は……弱い)
そう、自覚した瞬間、決定的に力が抜けてしまった。鋼鉄の肉体が解けて、中からキノの裸身が現れる。キノは、地上数メートルの中空に投げ出される形となる。急激に、眼の前が暗くなっていく。疲労と心労が極限に達し、キノは思考もままならない。
(受け身を取らなければ……怪我……)
気を失う寸前、優しく抱きとめられた。大好きだった男性の、逞しい腕の感触に包まれながら、キノは気を失った。
♪
ノルニル王国の作戦司令室は、混迷を極めていた。心臓破壊作戦の決行時刻になっても、キノたちからの連絡がなかったからだ。一方で、軍のスパイが入り込んでいる複数のレジスタンス組織から、大攻勢が始まったとの報告が数時間も前に入っている。
『殿下は失敗なさったのか⁉』と嘆く若手将校、
『連絡が遅れているだけだ。もう少し待とうではないか』と自分自身を安心させようとする年配の将校、
『失礼ですが、用がないなら今すぐその口を閉じてください! 通信を聞き漏らしたらどうなさるおつもりですか!』とヒステリックに叫ぶ通信兵。
「キリヱスタ・ノルニル中尉からの連絡はまだなのか⁉」青い顔をした陸軍司令官の言葉に、
「……まだです!」魔導通信機にかじりつく通信兵が、泣きそうになりながら答える。
「閣下、今すぐ空挺師団を出撃させるべきです!」作戦参謀将校が司令官に訴えかける。
「駄目です、閣下」今一人の参謀将校が、反対意見を口にする。「ノルニル中尉からの作戦成功の報がない限り、軍は動かすべきではありません。今打って出ても、いたずらに犠牲を増やすだけです」
「何を馬鹿なことを!」最初の参謀が声を荒げる。その勢いは、今にも軍刀を抜きそうなほどだ。「既に、編成は完了しています。長時間飛行装置付き【伍式ヴェルダンディ】千二百、同【伍式ウルド】百、【伍式スクルド】十! 我が国の、近衛を除いたほぼ全軍です。これほどの大軍を『盆』の縁に待機状態にさせている以上、間違いなくアズマに気付かれています。相手が防御を固める前に、速やかに空挺降下作戦を開始すべきです」
司令官は頭を痛める。どちらの意見も正論だからだ。心臓破壊作戦が失敗に終わったのだとしたら、空挺降下作戦を敢行するのは愚行だ。だが、たとえ心臓破壊作戦が上手くいかなかったにせよ、今現在、敵の心臓内部で一大攻勢が起こっているのは事実。打って出るとしたら、今以上の好機はそうそう訪れない。
いや、今、敵国内部で戦っているのは、『最強の女神召喚師キリヱスタ・ノルニル』と『最強の傭兵イズール・サン』のデュヱット。恐らく、ノルニル史上二度と現れないかもしれない強カードだ。その最強カードが、二度とは通用しないであろう敵の心臓破壊作戦を敢行したのだ。これほどの好機はもう、二度と訪れまい。一か八か、大攻勢を仕掛けるなら今しかない。
「ならば、やはり打って出るべきか……」司令官は煩悶する。「陛下は何と仰っておいでだ?」
「何も」秘書の役回りをしている老将校が、首を振った。「ただ、政治が軍事に口を出すべきではない、と」
「ぐっ……」それもまた、正論だ。司令官は、軍事を預かる者として、国王陛下に泣きつこうとした自分を恥じた。「今少し、今少しだけ、待つ。空挺師団には引き続き待機命令を出す」
大の大人たちが右往左往しているその部屋の外では、シノ姫――シヱスタ・ノルニルが恋する乙女の目で携帯魔導通信機を握りしめている。
「キノ、アンタなんかにイズール様は渡さない」熱病にでも侵されたような調子で、シノは呟く。「ずっと憧れていたんだもの。無敵の傭兵、最強の剣士、『東方不敗』様」
ずっとずっと、ずーっと憧れていた。新聞が伝えるイズール様の勇姿。絵師たちが描く、牛角の面の雄々しき姿。数多の戦場で何人もの女神召喚師たちを乗りこなしてきたイズール様。イズール様に乗ってもらった女たちに嫉妬したりもした。
そんなイズール様がノルニル空中庭園にやって来たと聞いて、シノは小躍りしたものだった。何としてでも逢いたい。あわよくば、自分に乗ってもらいたい――。そんな願いは、あの、悪夢のような模擬戦の日に打ち砕かれた。
「キノ……」
落ちこぼれ、出来損ない、棄却済みの王女キリヱスタ・ノルニル。売国妃チノは今もって『救国の英雄』として民間の間では人気で、そんなチノ妃の娘たるキノを支持する声は一定数存在する。誇り高いシノは、そんなキノの存在が許せなかった。キノが居るせいで、人々は売国妃チノを忘れられない。そんなだから、母ボルケシア・ノルニルがいつまでたっても『第二妃』と呼ばれ続けているのだ。チノ妃は、もう死んだのに。母は、あんなにも優秀で、あんなにも頑張っているのに。
娘の贔屓目などではない。母は、事実として強い。最強だ。あの『天剣』ピヱール・ノルニルが満足するほどの女神を召喚し、実際にキノ・イズール機に勝ったのだ。
自分ならば、あるいは――と、思う。いや、尊敬する父と母に敵うとは思っていない。思っていないが、キノほど無様には負けなかったのではないか、と思っている。あんな、女神という女神を無様にも暴走させて、大切なデュヱットを軒並み病院送りにするような落ちこぼれよりも、自分のほうがずっとずっと上手くやれたに違いないのだ。
……なのに、選ばれたのはキノだった。
東方不敗、イズール・サンが乗ったのは、自分ではなくキノだった。
シノは、狂った。嫉妬に、怒りに、切望に。だが――。
『準備はいいか』
無線からの声に、シノは頷く。「はい。愛しのイズール様」
今となってはもう、そんなことはどうでもいい。
♪
目覚めると、キノは『心臓の間』にいた。部屋には、ベッドや水桶、瓶などが持ち込まれていて、簡易な独房のような形に整えられていた。キノがあれほど散々に燃やし上げたはずなのに、綺麗なものだった。あるいはこの部屋は結界か何かで守られていて、最初から火事に見舞われずに済んでいたのかもしれない。
この部屋は、アズマ皇帝が住む天守閣の最奥。固く閉じられた扉の先には、先ほどキノがさんざんに燃やし上げた謁見の間がある。焦げ臭さは漂ってくるが、外から炎の音がしないところを見るに、謁見の間を始めとした天守閣の方も、消火が済んでいるのだろう。焼け死ぬ心配はなさそうだ。
キノは、ベッドに寝かされていた。花柄の、アズマ服を着せられている。可憐な印象の着物だったが、勝手に着させられたというところに嫌悪感を覚えた。
右足首には、足枷。枷からは鎖が伸びている。
「そう、か……私は、ずっと騙されていたのか」
キノは、レジスタンスたちの死を思い出す。輪切りにされたヤタロウとマナコ。次々と撃ち殺されていった仲間たち……。
捕らえられるだけで済んだ者たちもいたように記憶している。カヱデ、カヱデは生きているのだろうか。それに、突入タイミングが遅れたために、『心臓の間』に居合わせなかったフレディや銃隊のメンバーたちは? 退路の確保に努めていたジークやカラスマ、サルトビなどは、逃げることができたのだろうか。心配だ。心が引き裂かれそうなほど、心配だ。だが、心配したところで、どうにもならない。
(私は、軍人だ。軍人ならば、次の攻撃の機会に備え、今できることをすべきだ)
ベッドから起き上がったキノは、さっそく行動をはじめる。
まず、脱走可能かどうかを検証した。強固な鉄製の足枷。溶接の跡がないところを見るに、【アマテラス丙式】で生成したのだろう。ベッドの金具部分でガンガンとやってみたが、びくともしなかった。引きちぎることも、無論、無理。鎖の先は部屋の壁に打ち込まれている。引っ張ってみたが、キノの細腕では到底引っこ抜けそうもない。
次に、行動可能範囲を確かめた。鎖の長さは三メートルほど。ベッド、水桶、瓶などの間は不自由なく行き来できるが、扉にはギリギリ手が届かない。やはり、この鎖を何とかしない限り、動けそうにもない。
この程度の鉄、【アマテラス】の魔石さえあれば簡単に焼き切ることができる。だが、当然ながら武装はすべて取り上げられてしまっていた。【アマテラス甲式】、同【乙式】と【丙式】、そして三女神たちも。トレンチコートの内側に隠し持っていた解体ナイフと拳銃も、もちろん押収されていた。
(干しキノコまで奪うことはないだろうに)
だからキノは、武器になりそうなものを探した。が、当然ながら何も見つからず。強いて言うなら、この瓶くらいか。
『心臓の間』の中央、【アマテラス・オリジン】の心臓は依然として脈打っている。試しに、キノは心臓へ瓶を力いっぱい投げつけてみた。が、心臓はびくともせず、悠然と脈打ち続ける。瓶は部屋の隅、足枷の範囲外に転がっていってしまい、用を足すこともできなくなってしまった。
(ま、まぁ……こうして捕らえている以上、こうしてわざわざ服を着せている以上、放置したまま殺す、ということもないだろう。食事くらいは持ってきてくれるはずだ。その時に、元の位置に戻してもらえば)
ともあれこれで、この部屋でできそうなことはなくなってしまった。せめてもの抵抗として、キノはベッドに寝転がり、体力の回復に努める。目を閉じると、脳は自然と思案に傾いた。
イズールはアズマ人で、敵で、皇太子だった。キノは十年以上も騙され続けていた。
『キノ、「心臓の間」は、この部屋の奥だ』――あの時、咄嗟のことで疑問にすら思えなかったが、考えてもみれば、初めてここに来たはずのイズールが、最高機密であるはずの『心臓の間』の位置を知っているはずがない。だが、タネを明かせば当然のことだった。イズールにとって、ここはいわば家。そして、国を継ぐべき皇太子が、アズマ皇国の文字どおり心臓部である『心臓の間』の場所を知らないはずがない。
思い返せば、奇妙な点はいくつもあった。幼少期からアズマ語が流暢で、キノの教師になれるほどだったこと。アズマの街並みにやけに詳しかったこと。
『をいをいをい、さすがに喰いすぎだぜ。ほら、廁――トイレはこっちだ』
『う、うう……ん? イズール、初めての街なのに、よく知っているな』
箸の持ち方、湯呑みの扱い、着物の着付け。アズマの流儀に長けているのは、東西の文化が入り交じる最前線での経験が長いからだ、とイズールは言っていた。なるほど、上手い言い訳だ。あらかじめ用意していたのだろう。
思い返せば、サルトビが道中の分岐で迷った時など、イズールの何気ない言動が一行を正解の道へと導いていた。イズールは、事あるごとにレジスタンスの優秀な情報網を褒めていた。それは事実そのとおりなのだろうが、イズールが一行を天守閣まで案内するに当たり、『レジスタンスの優秀さ』を隠れ蓑にしていたのは間違いない。思えば、『右心房』に至るまで、敵が本当に少なかった。キノやレジスタンスたちに疑問を感じさせないための演出や、計画外の遭遇戦を除き、戦闘は必要最低限だった。イズールがそのように道を整え、一行を案内したからだろう。
(あいつは裏切ったンだ。十年以上も前から、ずっとずっと私を裏切り続けていたンだ)
――ガチャリ
解錠の音とともに、扉が開いた。
「よぉ、姫さん」入ってきたのは、よくよく見知った立ち居姿と、見知らぬ顔を持つ男――イズール・サン。「って、うおっ。何で瓶が部屋の隅に転がってンだ? 何か物色した跡もあるし。ははっ、こんな時ですら抵抗を諦めないとは、さすがは俺が惚れた女だ」
イズールの一人称が『俺』に戻っている。こちらの気を惹こうとでもしているのだろうか。(だとしたら、今さらだ。十年以上も騙し続けてきて。大切な仲間たちを大勢殺して。本当に、本当に今さらだ)キノは唇を噛む。「……何をしに来た」声の震えは、隠しきれたと思う。「拷問でもするつもりか?」
「何のために?」最上級のアズマ服に身を包んだイズールが、首を傾げる。「俺が持っている以上の情報を、お前は持っていないだろう? 軍人としても、王族としても」
「…………」そのとおりだった。イズールは、キノと同等の軍事機密情報を持っている。そして王族として認められていないキノは、王族固有の機密情報を持っていない。「ならば、私を捕らえて、こんなところに閉じ込めて、何をさせるつもりだ」
「別に何も。強いて言うなら、俺はお前と仲良くなりたいンだ」
イズールには、何か重大なことを隠しているような様子がある。
(いや。恐らくは、私がこの部屋にいること自体が目的なのだろう)
目覚めてからずっと、【アマテラス・オリジン】の心臓から大量のヱーテルを吸われ続けている。【ノルニル・オリジン】の膝を折らせたとおり、【アマテラス・オリジン】には復活の兆しがある。復活に大量のヱーテルが必要なのだとしたら、【アマテラス・オリジン】にヱーテルを注ぎ込むための贄として、キノ以上の適任者など大陸全土を探しても他にいないだろう。
つまり、キノがこの部屋にいる事自体が、アズマにとっての大きな利であり、ノルニルにとっての不利。やはり、一刻も早くこの部屋から抜け出さなければならない。そのための方法を探るべく、キノはイズールとの会話を継続する。
「仲良くなりたい、だと? 私の大切な仲間たちを殺しておいて!」
「あれは、仕方がなかった」
「し、仕方がなかった、だと⁉ 大切な仲間だった! それを、そんな――」
「そもそもアイツらは、アズマに仇なす敵だった。アズマの法に照らして、極刑に値する連中だ。お前も王の血を引く者なら、そして軍人なら、分かるだろう?」
「ぐっ……」分かる。国家転覆は、企てただけでも大罪だ。「な、ならば、アズマ将兵たちは⁉ 自国民を見殺しにするような真似をして! 貴様は、私たちが道中怪しまないように、将兵をまるで生贄のように配置して、私たちに殺させた」
「殺めた本人が、おかしなことを言う。だが、あれは必要最低限の犠牲だった」
「必要、最低限」命を命と思わぬ発言に、キノは凍りつく。だがすぐに、己の思考の未熟さを悔いた。(何をうろたえているんだ、軍人キノ? 戦場において、将兵の死は『損害』と呼ばれる。人命とは、数だ。人は人格ではなく、数字。それが戦争だ)
「加護無し【アマテラス乙式】三、加護有り【乙式】一、将校十七、下士官二十五、兵卒百七、輜重兵三。それが、お前を『心臓の間』へ招き入れるまでに支払った損害だ。大戦果と言えるだろう。もっとも、お前を一度取り逃がしてしまってからの損害が多すぎて、仕込みに十年掛けたほどの旨味は得られなかったがな。それでも、追加の損害は加護持ち【乙式】七、虎の子の超大型【甲式】を一。人的損害は今もって調査中だ。数百人か、数千人か。何しろ、城下の三十パーセントが焦土と化してしまったからな」
キノが、あの超大型【アマテラス】を倒すために、ヱーテル一兆単位の【火球】を降らせた時の被害だろう。
「だが、それを差し置いても、なお大戦果と言えるだろう。我が軍がノルニル軍と正面からぶつかった場合、最低でも数千人が死ぬ。最も幸運なケースでそれだ。普通なら数万は死ぬだろう」
だから価値はあった、とイズールは笑った。
「……何が目的だ。なぜ、そうまでして私を手に入れようとする?」
「まるで、まだ手に入っていないかのような言い草だな」イズールの手が伸びる。キノはベッドの上に放り投げられた。イズールが覆いかぶさってくる。「このとおり、お前はもう、俺のモノだ」
「触るな!」
「お前も、ずっと期待していたンじゃないのか? こうなってみたいと、願っていたのでは? 俺がピノ王に、成功報酬としてお前を求めた時の、あの顔。とびきり可憐だったあの顔を、俺は今もはっきりと覚えているぞ」
「っ。う、裏切り者なンかに、心動かされるものか」
「本当に? 心臓はこのとおり、ずいぶんと高鳴っているようだが」
「さ、触るな……」イズールの手指が、襟の間に潜り込もうとしてくる。それを押し留めようと、キノはイズールの腕を掴む。が、イズールの力はあまりにも強く、キノの細腕ではびくともしない。
触れられた所が、ひりつく。あんなに心地良かったはずのイズールの手が、今は吐き気をもよおすほどおぞましい。イズールと再会してからずっと、イズールの逞しい腕を見る度に、抱きしめられたい、抱かれたい、男女の仲になりたいと夢想していた。自分の、いろんな部分に触れてほしいと、そう願っていた。願いは、最悪の形で叶えられた。こんなはずではなかった。こういう形で一緒になりたいのではなかった。
(イズールは、私を裏切ったンだ)キノは改めて、絶望に沈む。
だが、こちらの髪を撫ぜてくるその手つきは、ひどく優しげだ。せめて、乱暴にしてほしかった。キノの心はぐちゃぐちゃになる。
「お前の歌は」キノは泣き叫ぶ。「私の翼だと思っていたンだ! なのに!」
「今も変わらず、俺はお前の翼だよ。お前を乗りこなせるのは俺だけだ。俺の物になれ、キノ。この国でなら、その髪と瞳も笑われることはない。俺がお前を幸せにしてやる」
「やめろ、来るな。私に触れるな……私は人である前に軍人なンだ」
「軍人である前に、女だ。ほら、こんなにも美しい」
イズールがキノの着物を脱がす。
イズールの唇が、キノの心臓に触れた。
「っ……」胸は、高鳴る。キノは、動けない。拒むべきだ。抵抗すべきだ。なのに、動けない。
イズールの唇が、つつつ、と上がってくる。イズールの唇がキノの鎖骨に触れ、喉に触れる。それから、至近距離で見つめ合う形となった。
キノは、動けない。
イズールの唇が、キノの唇に触れた。
憧れ続けてきた初めての口付けは、絶望的な味がした。キノはもはや、思考もままならない。不快なのか、そうでないのかすら判別がつかない。
『イズールとともに、ノルニルで幸せな家庭を築く』という夢は、最悪の形で潰えた。どうせノルニルに戻っても、死ぬまで戦場で働かされるだけだ。運良く戦争が終わっても、『捨てられた王女』と後ろ指を差されながら生きていくだけ。ならば、ここで愛する男と暮らすのも悪くないのではないか? それがどれだけ歪んだ愛であろうとも。
――コンコンコン
「若様」ドアの向こうから、声がした。
キノは慌てて、乱れた胸元を隠す。
高級な衣服に身を包んだ、文官風の男が入ってきた。「若様、そろそろ……」
「そう、か」途端、イズールが皇太子の顔になった。「明日、また来る」
文官とともに部屋を去っていくイズール。キノは何も言えずに、その背中を見つめた。
♪
「……依代の様子は、どうだ?」天守閣の一角。豪華な調度品やきらびやかな装飾で満たされた私室で、アズマ皇帝は縮こまっていた。「【アマテラス・オリジン】を起動させることは可能か? あの娘を使えば、本当に皇国は勝てるのか?」
部屋に充満する臭いに、イズール――日出は顔をしかめる。(心の弱いお方だ。このような薬に頼らねば、正気も保てぬとは)
「なぁ、日出や、余の最後の宝や」皇帝の腕が、伸びる。その震える指先が、直立不動の姿勢を取る日出の腕にすがりつこうとした、その時。
「急報です!」ドアの向こうから、声。
途端、皇帝の顔になる父。「入れ」
最低限の矜持は残っているようで、日出は安心した。
「ははっ」金糸をあしらったきらびやかな軍服に身を包んだ高級将校が、入ってきた。敬礼する。
血はおろか砂埃の一つも被ったことのないまっさらな軍服を着込んだ将校が、その軍服と同じくらいにキラキラとした修飾語で着飾った文章を謳い上げる。やれ、どこそこの部隊の某という勇猛果敢なる将校が、いかに用兵して接敵肉薄し、正確無比なる敵情を持ち帰ってきたのか。そのようなことを、ダラダラと、実に数分もの時間を掛けて説明した後に、肝心の、その敵情がどのようなものなのかを述べた。
要約すれば、
『敵女神部隊一個師団ガ国境沿ニ集結シアリ』
ということだった。ほんの十秒で伝達し得る内容である。
(急報だぞ。正気か?)日出は失笑しそうになる。
『急ぎ』の報告に過剰な装飾を施してどうする。本来、報告は簡潔であるべきだ。軍人は、余計な美麗字句で戦果を過剰報告するのが仕事ではない。必要十分な最低限の語句で、事実だけを端的に報告すべきだ。
このような伝令一つをとって見ても、アズマ陸軍の老化・腐敗振りが手に取るように分かる。今、敵情を報告したこの高級将校は、本来の敵――ノルニル王国を見ていない。彼は、仮初の敵――アズマ陸軍内の敵対派閥を見ている。いかに自派閥の戦果を飾り立てた言葉でもって皇帝に伝え、自派閥の覚えめでたくなり、敵対派閥が力を落とすか、という、そういうことばかりを考えている。でなくば、『急報』に数分を掛けるようなことには絶対にならない。
もう、限界なのだ。かつては『日出処より吠える猛き狼』と称されたアズマはもう、衰え、贅肉によって動けなくなり、腐り落ちつつあるのだ。そして、この心の弱い父に、その贅肉のいっさいがっさいを切り捨て得るほどの大鉈を振るう体力はない……。
日出は、戦闘中のキノとのやり取りが懐かしい。キノと自分。過剰な言葉はなく、必要なやりとりだけを端的に。正に阿吽の呼吸だった。キノを逃がしてしまったが最後、この先、彼女ほどの女とデュヱットを組める機会は永遠に訪れないだろう。
無尽蔵のヱーテルだけがキノの価値ではない。
どれほどの困難に見舞われても、前進することを諦めない精神力。絶望的な状況下でも、余裕を忘れない楽観力。小さな小さな体に秘められた、あまりにも大きな精神力。不屈の闘志。それこそが、キノの価値なのだ。
捕らえられたその直後から、あらゆる武装を奪われた状態で、手の届く範囲になった瓶でもって【アマテラス・オリジン】の心臓にダメージを与えようとする、その気概。
日出がキノの女の部分を徹底的に揺さぶったにもかかわらず、『私は人である前に軍人だ』と言い切った覚悟。
(十年だぞ。十年掛けて、俺はアイツを籠絡しようとし続けてきたンだ。なのに、陥とせなかった。やはり、好きだな。堪らなく、好きだ。キノ以外の誰かを伴侶にする未来など、想像もできない。だが……)イズールは、悲しくなる。(キノは明日、俺と決別するだろう。俺がやろうとしていることを、けっして許しはしないだろう)
キノに、決定的に嫌われる――。それは、悲しいことだ。身が引き裂かれそうになるほど悲しいことだ。だが、同時にそれは、『たかがその程度のこと』でもある。引き裂かれそうなほど悲しいからといって、実際に体が引きちぎれるわけでも、ましてや命を落とすわけでもない。けっして、耐えきれないことではないのだ。
「あぁ、日出や、どうしよう、どうすれば良い?」伝令が辞去するや否や、可哀想なほどに狼狽しはじめる皇帝。「そなただけが頼りなのだ」
「大丈夫ですよ」すがりついてきた手を、日出は撫ぜる。
「余が愛した嫡子・守仁は死んだ」皇帝が、父が泣いている。「次男も死んだ。三男も死んだ。四男も死んだ。五男も死んだ。六男も七男も八男も九男も十男も十一男も十二男も十三男も十四男も十五男も十六男も死んだ。唯一戦地について来た第七妃も、死んだ。遺ったのはそなただけだ、日出。愛する第七妃が残してくれた、日出。余の宝。そなただけが最後の希望なのだ」
(そうだ。俺が――余が、何とかせねばならぬのだ。余はアズマ皇国最後の皇子。この父はもう、戦えない。余が戦わねば、アズマ皇国は滅んでしまう)
だがそのためには、心を鬼にする必要がある。キノを、深く深く傷付けることになる。彼女が再起不能になるほど、傷付けることになる。きっと、恨まれるだろう。
(キノ……)
できれば、彼女にこのような業は背負わせたくない。日出――イズールは、キノのことを愛してしまっていた。敵国の皇太子という立場でありながら、愚かにも、自分の心を制御できなくなるほどに。
始めは、好奇心だった。
三女神が掲げた『盆』の上に広がる、広大な空中庭園。その中央に広がる、王都ノルニル。そのさらに中心で、厳重に守られた王城。その、さらに中心に。上級貴族でも、軍幹部ですら立ち入りを許されない、厳重管理区域がある。
その中央に、ぽつりと立つ『塔』。
高高度飛翔が可能な【アマテラス乙式】斥候兵の決死の偵察によって見つけることができた、謎多き存在。いったい何が隠されているのか、と皇室でも話題に上るほどだった。極秘開発中の新兵器か、はたまた超重要な作戦情報か。好奇心と功名心に突き動かされた幼きイズールは、『いっちょ俺様が秘密を暴いてやろう』と立ち上がった。
イズールは、生まれついての天才だった。物心ついた頃から【アマテラス】の魔術を使い、五つになる頃には壁を走り、空高く舞い上がることができた。頭脳も明晰であり、剣の上達も随一だった。六歳になる頃にはもう、教師陣がイズールに教えられることは残っていなかった。
暇ができたのなら、父――皇帝の仕事でも手伝うべきだったのかもしれないが、彼は生来、座り仕事というものが嫌いだった。それに、胡麻を擦ることしか脳のない、腐臭のする軍官僚たちのおべっかを聞くのは我慢ならなかった。
だからイズールは、天守閣を飛び出した。父はイズールに甘く、彼の外出を許してくれた。イズールの安全のために彼を天守閣の中に縛りつけておきたい、という思いはあったようだが、その思い以上に、可愛い可愛い末の息子に嫌われることを恐れた。父には、そういうところがあった。
イズールは冒険に出た。始めは城下町。次に心臓全域。次に肺。続いて胃。そして喉。それから脾臓、膵臓、腎臓、肝臓と巡り歩き、最後に小腸迷宮を踏破して、【アマテラス・オリジン】内部で彼が知らない場所はなくなってしまった。たったの一年で『世界』を踏破してしまった七歳の彼は、やはり退屈した。
だから彼は、今度はノルニルを冒険することにした。【アマテラス丙式】の魔術【熱風】を応用した風で天高く舞い上がり、【ノルニル・オリジン】の体をよじ登り、盆の上の世界に出た。
盆の上は当然、ノルニル軍による警備が敷かれていた。が、アマテラスの魔術【陽炎】の応用で顔貌を変えたり姿を消したりできるイズールにとって、敵軍の警備はザルも良いところだった。牛角の仮面を被った彼は、時に姿を隠しながら、時に堂々と姿を晒して、『便利屋兼傭兵イズール・サン』として活動しはじめた。
アズマ皇国もそうだが、この辺りは先の大戦の影響でヱーテル濃度が高く、魔物が発生しやすい。若干七歳にして剣の使い手だったイズールは、孤児出身を装い、魔物退治を生業にしながら、空中庭園に馴染んでいった。馴染みながら、盆の片隅に存在する魔物の巣窟やダンジョンなどを攻略し、冒険を楽しんでいた。
来たるべき決戦に備えての情報収集――スパイ活動という側面も強かったため、皇帝はイズールの活動を喜んでくれた。定期的に、【アマテラス・オリジン】の天守閣にも帰った。そんなある日、彼は聞いたのだ。その、『塔』の話を。
『冒険の集大成だ』彼は立ち上がった。『ノルニルで最も厳重な場所に眠る、お宝。相手にとって不足無し』
そうして彼は、あっさりと踏破した。
そうして、彼は、出逢ったのだ。物言わぬ寝たきりの女性と、言葉を解さぬ、獣のような少女に。
後に知ることとなるが、少女は名をキノと言った。
当時三歳のキノ。
キリヱスタ・ノルニル。
それが、『お宝』の正体。
最初のうちは、【陽炎】で姿を消しながら、遠くから眺めているだけだった。だが、眺めているうちに、どうしても少女と話してみたくなった。飼育係のメイドたちが来ない時間帯を割り出すのは簡単だったし、メイドたちの目を盗んで塔によじ登るのも造作ない。だが、女性や少女に通報されるリスクはあった。観察した限りでは、女性の方は本当に寝たきりで、動くことはおろか喋ることもできない様子だった。少女が言葉らしき言葉を一度も発していないところを見るに、女性が喋れないのは確かなようだった。ならば、通報される心配はないだろう。
始めは、好奇心だった。こんな、ノルニルの中枢も中枢で厳重に隠されている少女。なにゆえ厳重に守られているのか。こんなにも大事に守られているにもかかわらず、どうして粗末な衣類と最低限の食事しか与えられていないのか。飼育係のメイドたちが定期的に出入りしているにもかかわらず、少女は言葉も知らない様子だ。明らかに育児放棄されている。大事にされているようでいて、放棄されている。警備の厳重さと、当の二人に対する扱いの温度差があべこべだ。いかなる理由で、そのような状況になっているのか。
あの少女は、何者だ? 何か、ノルニルの弱点となり得る大きな秘密を持っているのでは? その秘密を暴くことができれば、アズマ皇国は勝利に今一歩近づくことができる。ならばこれは、スパイ活動の一環だ。アズマ皇国のための大事な任務だ――そう己に言い聞かせて、イズールは獣の少女と接触することに決めた。だが、いろいろと理屈をこねくり回してみたものの、彼の本心は違っていた。
少女の容姿が、好みだったのだ。
観察を続けているうちに、すっかり気に入ってしまったのだ。
そして、そんな可憐な少女がいつも飢えているのを、見過ごせなかったのだ。
少女の歓心を買うのは極めて簡単だった。何しろ少女はいつも飢えていたから、肉を差し入れれば簡単に懐いた。少女は、イズールが差し入れるものなら何でも食べた。食べて食べて食べて、あっという間にイズールのことを信用したようだった。イズールが顔を出せば、『あう、あう』と言葉にならない声を上げながら駆け寄ってきた。
『他愛もないな』と得意満面のイズールだったが、数日後には、その顔色はすっかり悪くなっていた。少女の食欲が尋常ではなく、いくら肉を買い集めてきても少女が無限に喰らうので、路銀が尽きてしまったのだ。父に無心に行こうにも、ここから天守閣までは距離がある。いくらイズールが【アマテラス・オリジン】に愛され、中級以上の魔術が扱え、高速移動やちょっとした飛空ができるとはいっても、どれだけ急いでも数日は掛かる。それほどの長期間、少女を飢えさせたままにしておくのは忍びない。
苦肉の策として、イズールはそこいらの空を飛んでいる鳥系の魔物を狩って捌いて焼いてみた。毒見してみたところ、あまりにも高濃度のヱーテルで、酔って吐いてしまった。だが、そんなイズールを獣のような瞳で見つめる影があった。他ならぬキノである。
『駄目だぞ、これは。喰えたもンじゃない』
『ガルルルルル!』
奪い取られた。拙い、と思ったが、意外にもキノは平気のようだった。それ以来、キノの魔物食が始まった。
イズールは少女キノに肉を与え、肉以外のものも与えるようになった。まずは、言葉を。ノルニル語を。天才児イズールにとって、異国の言葉をマスターすることなど造作もなかった。天守閣時代に教師陣から標準的なノルニル語を学び、『便利屋兼傭兵イズール・サン』として空中庭園上で生活するうちに、もう少し砕けた、庶民的な、下品な喋り言葉も覚えていた。
キノに言葉を教えはじめてすぐ、イズールは気付いた。この少女は、頭が良い。今まで『にく』以外の言葉しか知らなかったにもかかわらず――『にく』を教えたのは、他ならぬイズールの『ほら、肉だぞ』という毎日の挨拶だったのだが――少女は、渇いた乳飲み子が必死に乳を吸うかのように、貪欲に知識を飲み込んだ。肉と、言葉。イズールが与えるそれらのすべてを、少女キノは貪欲に飲んで飲んで飲み干した。
イズールは、楽しかった。少女に言葉を教えているうちに、懐いてくれたのが心底嬉しかった。偽りばかりの世界の中で、キノとの日々だけが本物だった。イズールは、キノと女性を飼育するメイドたちの目を盗んでは、キノと会った。キノと会うのが楽しくてたまらなかった。気付けば、イズールはキノのことが堪らなく好きになっていた。当然だろう。自分がひとたび訪れれば、『イズール、イズール』と一生懸命呼びかけてくれて、自分が何か教えれば、必死に吸収しようとしてくれる、とびきり可憐な少女。可愛くないはずがない。
ある日、ライバルが増えた。フレドリクと名乗る、男とも女とも判別しがたい少年。フレディは正体不明な少年で、その目的もまるで分からなかったが、正体不明なのはお互い様。だからイズールは、フレディのことをことさら探ろうとはしなかった。フレディもまた、イズールのことを詮索しようとはしなかった。臭いものには蓋をして、イズールとフレディは不可侵条約を結んだ。
フレディはキノに魔術を教えた。そして、フレディはあっという間にキノのことを好きになった。当然だろう。理由はイズールと同じだ。
キノの知らない水面下で、どちらがキノをお嫁さんに迎えるのかを巡って、二人で喧嘩したりもした。結果はイズールの百戦百勝だった。十歳の頃にはもう、イズールは長巻を使いこなしていた。フレディはフレディで既に魔銃の扱いに長けているほどの天才児だったが、神速のイズールに敵うはずもなかった。
それに、フレディにはどこか達観しているようなところがあった。『僕はキノと結婚したい』と口では言いながらも、そうなることはできないのだ、と端から諦めているようなところが。それがなぜなのかは、ついぞ分からなかった。フレディがけっして語らない、彼の出自にまつわることなのかもしれない。
幸せな日々は、ある日突然終わりを告げた。
アズマの決死隊による空中庭園襲撃事件。ノルニル王都が炎に包まれたあの日以降、当然ながら空中庭園全土の警備は強化された。イズールはキノが住む『塔』に入り込むことができなくなった。いくらイズールが【陽炎】の魔術で姿をくらましたり、外見を変えたりできるとはいっても、限度というものがあった。
決死隊の攻撃が失敗に終わってからは、皇帝は残された『最後の作戦』に固執するようになった。【アマテラス・オリジン】にまつわる、起死回生の作戦だ。だがそれを実行するには、どれほど膨大なヱーテルを吐き出しても枯渇しない、ヱーテルの権化とも言うべき女神召喚師を必要とした。実験に志願したアズマ軍の女神召喚師たちは、全員ヱーテル枯渇で死亡した。
その『作戦』の種は、空中庭園襲撃作戦よりもずっとずっと以前から仕込まれていた。その種こそ、他ならぬイズールだ。『作戦』には、ヱーテル酔いをすることなく魔物肉を喰らうことができ、使っても使ってもヱーテルの底が見えないヱーテルオバケことキノがうってつけだったのだ。だからこそ、皇帝はイズールに、キノに毎晩のように会いに行くことを許可した。キノに毎晩会うためには、空中庭園に住み着かなければならない。だが、それを押しても皇帝はイズールに許可を出した。愛する我が子を手元に置いておくよりも、来たるべき『作戦』決行の日のために、ヱーテルオバケのキノを懐柔・操縦するためにイズールを働かせるほうが価値がある、と判断したからだ。
イズールは『これは国のための作戦だ』と己に言い聞かせながらも、愛するキノとの日々に没頭した。だが、その日々は終わった。終わってしまった。
キノと離れ離れになってから、イズールは傭兵と身分を騙って諸国を漫遊した。理由は大きく二つ。一つは剣の腕を磨き、いくさの勘を養うため。もう一つは、キノの代わりとなるヱーテルオバケを探すため。
そう、いざとなればキノを拉致して『作戦』の苗床にするしかない。だが、できればそうはしたくない。そんなことをすれば、キノは深く傷付き、最悪の場合、死んでしまうからだ。だから、キノの代わりを探して旅した。だが、代わりは見つからなかった。イズールを満足させ得るような女神召喚師は、やはりキノをおいて他にいなかった。
だからイズールは、キノの前に現れた。偶然を装って。あの日の、製鉄工場でのことだ。四年振りに逢ったキノは相変わらずちんちくりんではあったものの、いちだんと美しく、可憐に、より女性的に育っていた。そして何より、強かった。最強の傭兵、『東方不敗』イズールは数多の戦場で星の数ほどの女神に乗ってきたが、キノほど強い女神は初めてだった。イズールは再び、キノに夢中になった。
この十日余りは、まるで夢のような日々だった。『なんて血なまぐさいハネムーンなンだ』とイズールを揶揄したキノだったが、イズールとしては本心からそのつもりだった。必ず来る破滅を知っているからこそ、遠からず訪れる決定的な決別を知り尽くしているからこそ、彼は悲痛なほど必死に、その『ハネムーン』を楽しんだ。『喉笛の街』で過ごした短い時間を、あの、戦時中にもかかわらず滑稽なほど穏やかだった時間を、イズールは今も覚えている。あの時贈ったかんざしは、本心から彼女に似合うと思って買った。あの時。キノが許して触れさせてくれた時の感触は、今も、髪の一本一本に至るまで詳細に覚えている。
キリヱスタ・ノルニル。
恐らく、イズールが最初で最後に愛した相手になるであろう女。
イズールの、青春のすべてを捧げるに値する相手であり、同時に、『国と国』という、『戦争』というどうしようもない理由によって、決別せざるを得ない相手。
キノには嫌われたくない。キノには、幸せになってほしい。できれば、自分と一緒に。その、切なる願いはしかし、アズマ皇国全体と天秤に掛けられるほどには大きくない。
すべては、優先順位の問題なのだ。確かに、アズマは軍部を中心に、根幹から腐り果てている。小腸迷宮で遭遇した、民間人の子女を戯れに犯して奴隷にしようとしていた兵卒のように。将兵から一兵卒に至るまで、救う価値のない命は確かに多い。が、だからといって、四千万人の国民全員が、死んで当然の極悪人、というわけではない。救われるべき命はたくさんあるのだ。
だが戦争に負ければ、無辜の民たちは、良くて総奴隷化、悪くて民族浄化の憂き目に遭うだろう。今、ノルニル王国と行っているこの戦争は、講和も落とし所も存在しない、一かゼロかの絶滅戦争なのだから。ノルニルを、最後の一兵卒に至るまで殺し尽くす。そうする以外に、アズマに明日はないのだ。
「大丈夫です、父上」イズール――日出は、震える父の手を撫ぜる。「大丈夫。勝ってみせます。必ず」
アズマに、勝利をもたらさなければならない。そしてそれは、他ならぬ自分の仕事だ。自分はアズマ皇国の最後の皇子なのだ。この血を捨て去ることなどできない。生まれから、義務から逃れるすべなど、ない。
♪
翌日は、朝から騒がしかった。固く閉ざされた扉の向こう――アズマ皇帝たちがいる部屋で、何やら激しい議論・口論が交わされている様子だった。それに、天守閣の外から、度々サイレンの音が聴こえてきた。
――ガチャリ
そんな中、昨日と同じ音とともに現れたのは、
「……イズール」
キノの言葉に、イズールは無表情だ。
さらに、気の弱そうな老人――アズマ皇帝と、白衣姿の数名の男たちが入ってきた。『心臓の間』が、にわかに騒がしくなる。
「はようするのだ!」先日、キノたちが突入してきた時には哀れなほど怯えていた皇帝が、今日は声高に指示を出している。「羽虫どもが玉体に取り付きつつある。体内に入り込んでくる前に、早う叩き潰すのだ!」
「……御心のままに」無表情のイズールが、長巻を抜いた。
――ギィイインッ!
一閃。キノが丸一日を掛けても傷一つ付けられなかった足枷の鎖が、いともたやすく断ち切られた。
「こっちに来い」そのイズールが、神速のイズール、キノが認識するよりも早く納刀してしまった最強剣士イズールが、キノの腕を力任せに引っ張る。
「な、何を――」キノは、まるで抵抗できない。膂力差が大きすぎる。
「……来い」イズールは無表情だ。
【アマテラス・オリジン】の巨大な心臓が邪魔になって見えていなかったが、この部屋には続きがあった。部屋の奥まったところにある、大きな大きな、人間が通るにはあまりにも大きすぎる扉。
「……七メートルと、少し」キノは目算で、扉の高さを看破する。
七メートルとは、キノが最も成り慣れている女神【アマテラス乙式】の全長だ。自然、キノは一四〇センチばかりの生身の自分と同じくらいに――いや、それ以上に――七メートルというのを、実生活の基準にしている。
そんなキノから見て、この扉は明らかに、【アマテラス乙式】のために用意した扉に思えた。
「……キノ、【アマテラス乙式】を召喚しろ」
イズールの言葉から、裏付けが取れた。やはりこの扉は、【アマテラス乙式】に変じた女神召喚師が通ることを前提としているらしい。
「だが、召喚しようにもヱーテルが吸収されて――え?」言いかけて、キノは気付いた。
【アマテラス・オリジン】の心臓によるヱーテル吸収効果が、いつの間にか消えている。
キノは、嫌な予感がしている。【アマテラス・オリジン】の心臓の、さらに奥にある部屋。【アマテラス乙式】の状態で入ることを前提にした部屋。もし、今の【アマテラス・オリジン】が自ら体を動かせない状態だとしたら? 心臓によってキノから吸い上げたヱーテルを燃料にして、召喚された【女神】のように動く存在だとしたら? 他の【女神】たちと同じく、パイロットによって操縦される存在になっているとしたら?
「早くしろ」イズールの、ありとあらゆる感情を削ぎ落としたかのような声。
「イズール、この先には何がある? お前は私に、何をさせようと――ぎゃっ」
殴られた。イズールに。あの、いつだって優しかったはずのイズールに。昨日、自分に対して甘い言葉を掛けてくれたイズールに、だ。
「【アマテラス乙式】を、召喚しろ」
「い、いったい何をさせるつもり――がっ」
首を、締められた。
「言われたとおりにしろ」と言いながら、イズールの手は緩まない。一秒、二秒、三秒……十秒ほども経って、力が緩んだ。
「はっ、はっ、ひゅーっひゅーっひゅーっ……」キノは涙と恐怖と弱音をすべて飲み込む。「よ、よく聞こえなかったな。何をしろって――え?」
右太腿に、激痛。見れば、長巻の刃先がキノの太腿に深々と差し込まれていた。さらにその切っ先が容赦なく拗られる。
「ぎゃああああああああああああああッ!」、
「早くしろ」刃が抜かれる。アズマ服がキノの血を吸い、みるみるうちに赤く染まっていく。「でなくば、出血多量で死ぬぞ」
「し、死ねば、お前たちの企みを阻止することができるな」
体が震える。涙が零れそうになる。だが、屈するわけにはいかない。嫌な予感がするのだ。猛烈に嫌な予感が。今ここで屈してしまったら、絶対に後悔するという確信があるのだ。
「はー……」イズールが、苛立たしげに、そして大仰に、ため息をついてみせた。
直後、キノは腹部に激痛を感じた。いつの間にか、本当にいつの間にか、長巻の切っ先が右腹部に潜り込んでいた。
「あっ……はっ……ああっ……」焼けるような痛み。悲鳴を上げることすらできない。呼吸が、できない。
「安心しろ、肺は外してある。だが、長くはもたないぞ。この城には優秀な治癒魔術師がいるが、今から呼びつけても、ここに来るまでに十数分は掛かる。その間に、お前は死ぬぞ」
「ぐっ……うう……ううううううっ、【イズールゥゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!】」
怨嗟の叫びを歌唱に変えて、キノは【アマテラス乙式】を召喚する。丹田から湧き出てきたヱーテルがキノの体を包み込み、鋼鉄の肉体を成す。傷付けられたキノの本体は鋼鉄と混ざり合い、一時的に解けて消失する。つまり、【女神召喚】を維持している限り、キノの体のダメージはなかったことになる。もっとも、【女神送還】して本来の肉体に戻れば、ダメージは復活してしまう。つまりイズールは、『治癒魔術師が駆けつけるまでの間、鋼鉄の肉体に避難していろ』と言っているわけだ。
最低最悪なやり方で、【アマテラス乙式】を召喚させられてしまったキノ。だが、これ以上、イズールの思いどおりになってやるつもりなどなかった。キノはすぐさま、皇帝に掴みかかろうとした。人質にしようと考えたのだ。
本来、【女神】はパイロットがいなければ、緩慢な動きしかできない。手足を駆動させるためにも常時魔術が必要で、女神召喚師はそれら多数の魔術に限られたヱーテルを振り分け、運用するだけで手一杯だからだ。だが、キノは違う。キノは並外れたヱーテルでもって常時全身を満たしているため、細やかな采配が必要ない。だから、生身の体を動かすのと同じような感覚で、【女神】の手足を動かすことができる。
相手は、武術の心得など皆無のように見える皇帝だ。七メートルの巨体なら、捕獲することは容易い、とキノは考えた。殺さないように手加減するほうが大変だ、とすら思った。だか、できなかった。キノが手を伸ばしかけた、その時には既に、イズールがキノの背部ハッチを斬り飛ばしていたからだ。
低音域歌唱の載っていない剣は、キノを強制【女神送還】させない。ただ、コックピットだけを露出させる。イズールが、その異常な身体能力でもって跳躍し、コックピットの中に入り込んできた。
「止めろっ、イズール――」狼狽し、感情的になったキノは、愚かにも無駄口を叩いてしまった。そんなことを言ったとしても、イズールが待ってくれるはずがないのに。結果としてキノは、魔術に使うべきだった喉を自ら塞ぎ、貴重な数秒間を無為にした。
イズールが、操縦桿を握った。「【アイ・ハブ・コントロール】」
詠唱されてしまった。こうなった以上、機体の操縦権はパイロットに優先される。
イズールがキノ機を操り、七メートル強の巨大な扉を開いた。中は、キノが予想したとおりコックピットになっていた。巨人【アマテラス乙式】が、さらなる巨人――【アマテラス・オリジン】を操縦するためのコックピットに。
キノ機が、座席に入る。キノは必死に抵抗しようとする、が、駄目だった。イズールが巧みな操作によって、【アマテラス・オリジン】の操縦桿を握る。
途端、キノの視界が切り替わった。空。空だ。朝日の光を受けて、白みがかりつつある。
体の感覚から、『自分』が仰向けになっているということが分かった。視線を下げると、何やら小さなものが腹の上で蠢いている。キノは悲鳴を上げそうになった。が、すぐに事態を把握した。
(これは、【アマテラス・オリジン】の視界だ)
視界に映るあれらは、長距離飛行装置付きの【伍式ヴェルダンディ】たちだ。ノルニル王国の主力戦車にして決戦兵器。キノは今、【アマテラス・オリジン】と感覚を共有している。視界の先、【アマテラス・オリジン】の腹部に百機を超える【伍式ヴェルダンディ】の大集団が集結しつつある。まだまだ、空から降下してきつつある。つまりノルニル軍が、キノの心臓破壊作戦の成否にかかわらず、空挺作戦を決行したということなのだろう。
「視界良好。初搭乗でこれほどまでとはな。さすがは姫さんだ」
イズールが、キノ――【アマテラス・オリジン】の体を動かした。右腕を持ち上げようとする。轟、という音がして、視界の端で右腕が上がりつつある。キノの体感では、あたかも普通の腕のように見える。が、実際のソレは、指先で【伍式ヴェルダンディ】――全長七メートルの巨人を簡単に押しつぶせてしまうほど、大きい。
「まずは試運転だ」
「やめろぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
キノの悲鳴をよそに、イズールが【アマテラス・オリジン】の腕でもって自身の腹を叩いた。【伍式ヴェルダンディ】の一個大隊が、ただそれだけで消滅した。
「あぁ……あぁぁ……!」キノは絶望する。キノは泣き叫ぶ。アズマ皇国を倒すはずだった自分が、皇国の力になり、ノルニル王国を滅ぼそうとしている。
拡大した視界の中で、何組もの男女の亡骸が倒れている。特に、男性パイロットの方は、人の形を保っている者のほうが少ないほどの有り様だ。一方の女性は、女神化を解除されたものの、辛うじて生きている者たちもいる。だが、
「次に、起立」
【アマテラス・オリジン】が立ち上がりはじめたことで、なすすべもなく転げ落ちていく。地面が急に坂になり、崖になったようなものだ。全長四千メートルの巨人が立ち上がるのだ。いくら腹部にいたとはいっても、数百メートルから二千メートルの落下を体験することになるのだ。生き残れるはずがない。
いや、中には再度の【女神召喚】に成功し、ジェットヱンジンによって姿勢制御に成功する優秀な者たちもいた。が、
「お次は、蹴りだ」
【アマテラス・オリジン】の蹴りの前に、すべて消滅した。暴風が巻き起こり、大地に沈殿していた高濃度ヱーテルの霧が一時的に吹き飛ばされていく。
【アマテラス・オリジン】がゆっくりと前進し、数キロ先に屹立する運命の三女神へと手を伸ばそうとする。
「【火球・ヱーテル十兆単位・ララルララララルラルラララァーー~~~~ッ!】」
キノが、太陽を現出させた。自身の頭上に生み出した超極大の火の玉でもって、自身を叩き潰そうとする。視界が青で染まり、【アマテラス・オリジン】が膝をつく感覚があって、
「――はっ⁉」
気が付けば、視界が【アマテラス乙式】のものに戻っていた。けたたましい警報音がコックピットを満たしている。【アマテラス・オリジン】が大ダメージを受けたことで、接続が切れたのだろう。
「【アマテラス・オリジン】、倒れます!」コックピットの隅で、人間用の小型モニタを覗き込んでいた白衣の一人が、叫んだ。
衝撃はなかった。やはり、【アマテラス・オリジン】の体内は不思議な重力で守られているらしい。
「【アァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!】」キノは獣のような叫びを上げ、白衣の男たちを燃やそうとした。が、
「オォォオォオオオオ!」
低音域歌唱を載せたイズールの長巻によって、【アマテラス乙式】をコックピットの内側から串刺しにされてしまった。沈静化の力により、キノは強制【女神送還】させられた。
「【アアァァアアァアァアアアアアアアアアアアアアアアッ!】」宙に投げ出されたキノは、即座に再度【女神召喚】を試みる。が、「アァァ――がっ」
空中で、イズールに首を掴まれてしまった。発声はおろか、呼吸もできない。声が出せなければ、歌唱師は力を発揮できない。
途端、激痛がキノを襲う。忘れていたが、右腹部と右太腿に多大な傷を負ってたのだ。出血多量で直ちに絶命しかねないほどの傷を。
「眠れ」霞む視界の中で、イズールが拳を振り上げ、振り下ろした。
衝撃。
♪
「や、やはり、時間を掛けて懐柔すべきだったのではありませんか?」先ほどキノに燃やされかけた研究者が、青い顔をしながらそう言った。「いくら無尽蔵のヱーテルを持つ優れた女神召喚師と言えど、こうも非協力的では、どうにもなりません」
「今さらそんなことを言って、何になる?」イズール――日出は長巻を抜き放つ。「『速やかに敵を撃滅せよ』との皇帝陛下のご命令に背くつもりか? 抗命罪で死にたいか」
「め、めめめ、滅相もございません!」
「だったら、黙って調整を続けろ。何重にも精神抑制機構を設けて、女神召喚師に自由意志を起こさせないようにするのだ」
言いながら、日出は暗澹たる気持ちになっていた。キノの、あの、目。完全に、敵を見る目をしていた。当然だろう。国のためとはいえ、自分は、キノを――愛する女性を深く深く傷付けた。物理的に。一歩間違えれば死にかねないほどの傷を負わせた。同時に、精神的にも。手指の感覚が鮮明な、【女神】の体でもって、ノルニル軍の女神たちの群れを叩き潰させた。あれをやったのは、日出だ。だが、感覚の上では、キノは自分が自分の手で友軍を殺戮したように感じているだろう。
(だが、戦果はあった)
敵が国力を絞り尽くして用意したおよそ千体の女神。そのうちの約二割を、一度の【アマテラス・オリジン】起動で壊滅させることができたのだ。キノの逆襲によって大火傷を負ったものの、キノのヱーテルを吸って自己修復能力が劇的に高まった【アマテラス・オリジン】は、早くもその皮膚を回復させつつある。
心の弱い父は、【アマテラス・オリジン】が活躍した時には大歓喜していたらしいが、キノが太陽を降らせて以降は、気を動転させてしまった挙げ句、気を失ってしまった。
(やはり素晴らしいな、キノは。もっと、違う形で出逢うことができていれば。ただの男と女として、出逢うことができていれば――)
その思考に、意味はない。今や自分はキノを完全に裏切り、キノは自分のことを完全なる敵と認識した。二人がともに歩める未来は、来ない。絶対に。
(だが、それもまぁ、仕方がない。俺の望み、俺の願望など。アズマ四千万人の命には変えられない。すべては優先順位の問題だ。そのはずなンだ――)
♪
目覚めると、また、『心臓の間』のベッドに寝かされていた。飛び起きて、帯を解き、体を改める。腹と右太腿には、傷痕一つ残っていなかった。イズール――日出が言うところの『優秀な治癒魔術師』とやらが、適切に処置したのだろう。
「っ……」直近の危機が去り、やや冷静になってから、キノは震えた。友軍を叩き潰す感覚――あの、身の毛もよだつほどおぞましい感覚を、思い出したからだ。
自分は、軍人だ。ノルニル王国陸軍少尉キリヱスタ・ノルニルだ。ノルニル王国を、王国の脅威から守るべき盾だ。だというのに、その自分が、あろうことか友軍を――それもとびきり優秀な、女神の一個大隊、国家総力の実に数割を――壊滅させてしまった。この手指に、今も感触が残っている。
あの短時間で、自分はいったい、何人の友軍を殺した? こうして目覚めてしまった以上は、日出は再び、自分にあの殺戮をやらせるのだろうか。先の大戦末期、【アマテラス・オリジン】は、拳の一つ、踏み潰しの一つで、一個旅団を壊滅させたと言う。イズールやフレディから聞いた『昔話』のとおりに。そうだ。あの戦争は、けっして昔話などではなかったのだ。今日まで連綿と続いている、戦争の一幕に過ぎないのだ。
――ガチャリ
不吉な音とともに扉が開き、日出が入ってきた。思えばいつも日出は、不吉な音とともに現れる。
「傷は大丈夫か?」
「……傷付けた本人が、よく言う」睨みつけると、日出が目を逸らした。「お前は嘘ばっかりだ。お前の優しい言葉も、優しげな態度も、全部全部嘘ばっかりだ」
「嘘ではない」日出がベッドに上がってきた。「余はそなたを愛している。女神アマテラスに誓って、本心だ」
昨日は『俺』と言っていたのに。つまらない言葉遊びで、こちらに揺さぶりをかけるつもりなのだろうか? だが実際、キノは滑稽なほどに動揺していた。イズールが、彼自身のことを『俺』と呼んでくれない。ただそれだけのことで、自分の知るイズールが遠くへ行ってしまったようで動揺した。あれほどの仕打ちを受けておきながらもなお、キノはイズールのことを決定的には諦めきれずにいた。
「そんな言葉遣いは止めてくれ。私はイズールと話したいンだ」
「どちらも余――俺さ。お前を愛する俺も、国と民を愛する余も、どちらも本物だ」
「お前は、私に嘘をついたンだ。何がハネムーンだ。全部、私をここに閉じ込めるための罠だった」
「この戦争が終わったら、二人で暮らそう」
イズールが近付いてきた。キノは後ずさる。狭いベッドの中、逃げ場など大してない。
「政治は皇帝と宰相たちに任せて、静かに暮らすンだ」
「っ。触るな……」
「キノ」
「触らないでくれ」
「俺はお前に相応しい男になるために、身を削る思いで鍛錬に打ち込んだンだ。『東方不敗』の名のとおり、遠く東国へ旅に出て、諸国を巡り歩いて戦いに明け暮れた。お陰でこのとおり、今や戦士としても、パイロットとしても、俺に敵うやつなんて世界に一人としていない。なぁ、キノ、俺はお前を守れるよ。この先一生、お前をありとあらゆる外敵から守り続けてやれる」
「…………。滑稽な話だな。そんなことを言うお前自身が、私にとっての最大の外敵だというのに」
「キノ……」イズールが、キノの頬に触れてくる。その手つきは、どこまでも優しい。
憎まれ口を叩きながらも、キノは揺れていた。思えば、皇帝と一緒にいる時のイズールは、いつも様子がおかしかった。アズマ皇国皇太子としての重責と、本心の間で板挟みにあっているのだろうか。本心では、何度も口で言っているとおり、こちらに好意を抱いているのだろうか。だとしたら……いや、だとしても、キノを肉体的に死の寸前にまで追い詰め、同胞を殺させたことに変わりはない。それは到底許せるものではない。いや、だからこそ、ノルニル軍人として、イズールを懐柔するための糸口を探るべきなのだ。
「イズール、私は――」キノの方からイズールの分厚い胸板に触れた、
その瞬間。
轟音と、天地が引っくり返ったのかと思えるほどの衝撃とともに、『心臓の間』の壁がごっそりと消え失せた。崩壊した壁から飛び込んできたのは、やや鋭利なフォルムの【アマテラス乙式】。
「まさか――カヱデか⁉」
「キノ! 【女神送還・ヱーテル単位一・ラッ】」
カヱデだった。先日の、心臓破壊作戦失敗で死んだか捕らえられたかと思われていたカヱデが、そこにいた。幼き少年カヱデが、どのような道程でこの部屋にまで到達したのかは、分からない。分かるはずがない。カヱデは全身焼け焦げていて、右腕は失われており、生きているのが不思議なほどのありさまだった。なのに、その黒い瞳だけはらんらんと輝いていた。
「逃げてくれ」そう言って、カヱデがキノにトレンチコートを押し付けてくる。
受け取ったコートは、キノが日頃身につけている一張羅だった。中には自慢の干しキノコと、魔物解体用のナイフと、護身用の拳銃と、そして【アマテラス丙式】、同【乙式】、同【甲式】、【伍式ヴェルダンディ】、【伍式スクルド】、【伍式ウルド】の魔石が収納されている。キノが使い慣れた装備、キノの武装のすべてだ。
「やらせるわけが――」長巻を抜き放ったイズールに、
「【ギィィィイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!】」
カヱデが、魂までもを持っていかれそうなほどの、壮絶な歌唱を浴びせかけた。歌唱は熱を帯び、【火球】となってイズールに襲いかかった。それは、命の灯火だった。文字どおり、カヱデは彼の命を燃やしてイズールを牽制した。
「逃げてくれ」カヱデが、キノに泣きつく。「逃げて、立て直して、ヤタロウの仇を討ってくれ。俺たちの仇を討っ」
カヱデが、輪切りになった。
ボトボトボト、と。カヱデだったはずの肉塊が、ベッドと床に広がった。キノはカヱデを構成していた鮮血を、顔から浴びる。
「あ……あぁ……」喉が、震える。カヱデ。明日が怖い、と怯えていた少年。確かな絆を結べたと思っていた、大切な仲間。それが、こんな。「【アァァアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!】」
絶望とともに湧き上がってきたヱーテルは、瞬く間に【アマテラス・オリジン】のヱーテル吸収能力を凌駕した。キノが選んだ魔石は、【伍式ヴェルダンディ】。ヱーテルが鋼鉄の肉体となり、キノは瞬時に全長七メートルのケンタウロスの如きフォルムになる。その直後、
(【思考加速――最大】。【身体加速――最大】)キノは具体的なヱーテル単位も想定せず、ただひたすら、無限のヱーテルを魔術に注ぎ込んだ。
その瞬間、世界が止まった。実に、【思考加速】で千倍、【身体加速】で百倍もの数値が出ている。ピノ王すら到達したことのない、前人未到の加速度である。
早くも、イズールが反応しはじめていた。例の、太刀筋の見えない『神速剣』。イズールが一回剣を振るったかと思ったら、相手が輪切り――五、六等分になるやつだ。その、音速にすら達するのではないかと思える神速の剣を、キノは捉えた。当然である。こちらは音を悠々と置き去りにできる速度で動いているのだから。
イズールの長巻が、ゆっくり、ゆっくりとキノ機の右前足に迫る。キノはその剣筋を躱し、崩壊した壁から外へ出た。早くも肉体は暴走しはじめている。鋼鉄の肉がキノの制御を離れ、ぼこぼこ、ぶくぶくと膨れ上がりつつある。だが、キノの方がなお速い。キノはすべてを置き去りにする速度で、空高く舞い上がった。
どこを、どのように走ったのか覚えていない。気が付けば、キノは『喉笛の街』に到達していた。そうして、十余日前にイズールと一緒に通った道――少女フレディと出逢った『喉』を駆け抜けた。【アマテラス・オリジン】の口から飛び出して、女神の顎の辺りをを強く蹴って、高らかに飛び上がる。【アマテラス・オリジン】の体表には何体かのアズマ軍【アマテラス乙式】が立っていたが、誰もキノが出てきたことに気付いていない様子だった。キノが遠く駆け抜けてしまってから、衝撃波の音で異変に気付くことだろう。だがその頃には既に、キノはA/Bを全開にして夜空を駆け、【ノルニル・オリジン】の一柱の足元に辿り着いていた。
【ノルニル・オリジン】の足を、【伍式ヴェルダンディ】の四本脚でもって駆け上がっていく。駆け上がりながら、キノの精神は崩壊寸前だった。敵の支配領域から抜け出すことができて、心が弛緩した。その緩みの隙間から、膨大な量の悲しみが滲み出てきたのだ。
カヱデが死んだ。ヤタロウが死んだ。マナコが死んだ。三人とも、イズールに斬り殺された。フレディも、他の皆も、きっと死んでしまったのだろう。母は死んだ。イズールは裏切った。キノの魔術の師であり、兄であり父であり恋人でもあった少年フレドリクも、四年前の王都大襲撃の際にどこかへ行ってしまった。皆、いなくなってしまう。キノが愛した相手は、必ず、キノの手の届かないところへ行ってしまうのだ。
キノは慟哭しながら、【ノルニル・オリジン】の体を駆け上がっていった。キノは、帰りたかった。無性に帰りたかった。あの、暗い塔に。こんな悲しい世界など知らず、イズールとフレドリクと、そしてキノの三人で、仲良くやってたあの頃に。
【ノルニル・オリジン】の腕を駆け上がり、その手指を駆け上がった瞬間、唐突に視界が開けた。三女神が掲げる『盆』の上に出たのだ。
決定的に気が緩んだその瞬間、【伍式ヴェルダンディ】の暴走が極限に達し、鋼鉄の肉体が弾け飛んだ。キノは地面に叩きつけられ、何度も何度も転がる。
「あっ……はっ……!」
仰向けになって必死に呼吸をしていると、何人分かの足音が近付いてきた。
「あら。生きていらしたのね、お姉様」
「その声……シノか?」
よろよろと立ち上がると、目の前に見知った顔があった。シヱスタ・ノルニル。第ニ妃ボルケシア・ノルニルの娘で、キノの妹にして天敵。文武両道、才色兼備。王家の血筋に誇りを持ち、『汚れた血』を継ぐキノをことさら目の敵にしてイジメてきた相手だ。
学生時代は、煩わしい相手だと思っていた。が、敵と味方に分かれての、本物の『暴力』をたっぷりと経験してきた今となっては、シノの嫌味な表情など、いっそ小気味が良いほどであった。この十余日の間で、キノはあまりにも多くの暴力と死を浴びすぎた。
「軍は……どうなっている……?」近くに転がっていたトレンチコートを着込みながら、キノはシノに尋ねる。学生時代はいろいろとあった相手だが、今は友軍同士だ。
シノは今、軍服を着ている。階級は中尉。そしてシノの後ろには、七人の年若い男女が付き従っている。階級はいずれも少尉。男女がピッタリ四組ということは、みなデュヱットなのだろう。
「現在、再編の真っ最中よ。この先の盆外縁部で、ウノ司令官が指揮をとっておられるわ」
「そうか」
ならば自分もそれに加わるべきだろう、とキノは考えた。カヱデにもらったこの命。彼の望みどおりヤタロウの仇を討つためには、キノ一人では心許ない。そもそも、キノ機に乗ってくれるパイロットを見つけなければならない。
「それでシノ、お前は? お前も軍に入ったのか?」
「今朝の、【アマテラス・オリジン】による攻撃で、我が軍の女神師団は壊滅的な被害を受けたから。士官学校の上位百組が急遽徴兵されたのよ。それで、練習がてら盆の最外縁部の哨戒任務にあたっていたというわけ」
「ふぅん」
「疲れたでしょう。武器を預かるわ。アナタはもう、休みなさい」
「ふふ」まさか、シノの口から労りの言葉が出てくるとは思わなかった。「分かった」
キノはトレンチコートの中から武装を取り出す。解体用ナイフに、拳銃。軽装備だが、十三の小娘が持つには相当の重量だ。それを、シノのデュヱットが恭しく受け取る。荷物が軽くなって、キノはほっと息をつく。
「魔石もよ」
「ん? ああ」少しばかり不思議に思ったが、疲労の極限に達しているキノは、深く考えず、言われるがまま魔石を渡した。【アマテラス甲式】、同【乙式】、同【丙式】、【伍式ヴェルダンディ】、【伍式スクルド】、【伍式ウルド】。
すべての魔石が、シノの手に渡った。
キノが、決定的に丸腰になった。
次の瞬間、シノが、キノを『盆』の外へと突き飛ばした。
「…………え?」
キノは、呆けた。
呆けながら、落下していく。
盆の縁で、シノがこちらを見下ろしている。シノが、笑っている。その顔が、みるみるうちに小さくなっていく。
キノは、理解が追いつかない。理解できないまま、落下していく。
「くっ。【女神召喚】――」
いや。何を言っているのだ、自分は。魔石は、たった今、すべてシノに渡してしまったではないか。魔石がなければ、女神を召喚することも、魔術を使うこともできない。自分にはもう、できることなどなにもない。
あとはただ、五千メートルの自由落下だ。地面に叩きつけられた時、肉片も残るまい。いや、地面に到達するより早く、急激な気圧の変化で気を失うかもしれない。女神化しておらず、防護魔術も展開していない今の自分は、気圧変化にすら耐えることができない。
(シノは、私を殺したいほどに憎んでいた?)その思考に、意味はない。ないが、考える以外にやることがない。恐怖に震え、泣き叫びたくなければ、無意味だと分かっていても、思考するしかない。(いや、国の存亡が掛かったこの時分に、私怨で貴重な女神召喚師を殺すほど愚かだったか、シノは? 違う、と思う。ならば、裏切り? 分からない)
分からない。分からない分からない分からない。思考は限界を迎える。キノの恐怖が極限に達する。もう、駄目だ。今、この手の中には魔石の一つも存在しない。魔術が使えなければ、自分は無力だ。いくら冷静になったところで、どうしようもない。むしろ冷静になればなるほど、必ず訪れる死への恐怖が明瞭になるだけだ。
(……寒い)
キノの、小さな体を打つ風が、冷たい。キノは凍える。恐怖に、絶望に、身を縮める。もう、誰もいない。こんな自分を支えてくれる人は、温めてくれる人は、誰もいなくなってしまった。
「…………助けて」
せっかく、カヱデに命をもらったのに。何もなせぬまま、自分は死のうとしている。
「助けて、誰か」
誰か。誰がいるというのか。母は死んだ。イズールは裏切った。もう、あと、すがれるとすれば、記憶の中で微笑む少年フレドリクをおいて他にいない。
「助けて、フレディ……! お願い、助けて……!」
「ねぇ、キノ」記憶の中の、フレディが言う。「キミは誰のために歌うんだい?」
「私は……私は、誰のために歌えばいい? この喉を捧げたいと思った相手は、みんなみんな、いなくなってしまったンだ」
目の前が、暗い。いつの間にか、目を閉じてしまっていたようだ。キノは、目を開く。開いて、驚愕した。
「…………え? えっ⁉」
「キノ!」
目の前に、フレディがいた。三年前に別れたっきり、死んでしまったのではないかと思っていた相手が。キノの魔術の師匠で、兄で父で、恋人だった少年が!
「それならキノ、ボクのために歌ってよ。キノの喉を、ボクに頂戴」
いつしか、風は止んでいた。自然落下に伴う風が。
そう、キノは今や、空中でふわふわと浮いている。死の危機は、去ったのだ。
「お、お前は、誰だ⁉」
「寂しいなぁ」フレドリクが、微笑んだ。「フレディだよ。キミの恋人、フレディだ」
キノは今、魔術が使えない。ならば、キノとフレディの体を浮かせているこの風は、フレディが発生させているということになる。フレディは、歌っていない。ただ、喋っている。いや、会話の合間を、鼻歌で補っている。キノもごくごくたまに使う、『話法歌唱』。キノのような化け物じみたヱーテル総量か、さもなければ想像を絶するほどの訓練を要する超絶技巧だ。
「助けに来た」フレディが――四年振りの幼馴染が、微笑んだ。「遅くなって、ごめん」




