第2話 君の家
月城ユイの家は、駅から徒歩八分の住宅街にある。
アラタはその道を歩き慣れていた。商店街を抜けて、細い路地を二度曲がって、緩やかな坂を上る。住宅が密集したこのあたりは夏になると風が通らず、アスファルトの熱が足の裏からジリジリと伝わってくる。Tシャツの背中が汗で張り付いていた。それでもアラタの歩調は変わらない。急ぐ理由もなく、遅らせる理由もない。
表札の横に小さな鉢植えが並んでいた。季節ごとに違う花が咲く。今はG1の夏で、オレンジ色の花が二輪だけ開いていた。アラタはその花の名前を知らない。毎回聞こうと思って、毎回忘れる。来るたびに同じことを思うのに、なぜか次に来ると忘れている。それを少し不思議に思いながら、インターホンを押した。
「はーい……あ、アラタじゃん。開いてるよ」
三秒で返事が来た。声のトーンで、ユイが何かをしながら答えたのがわかった。
ドアを開けると、廊下の奥からユイが顔を出した。エプロン姿で、手に布巾を持っていた。黒髪が少し乱れている。台所から甘い匂いがしていた。
「何か作ってる?」
「颯太のおやつ。フレンチトースト。上がって上がって」
靴を脱いで上がる。フレンチトーストだとわかったのは匂いだけじゃない。ユイが機嫌のいい時によく作るものだ。アラタはそれを、三年の付き合いの中で覚えていた。リビングに入ると、颯太がソファに転がってタブレットを見ていた。小学三年生。姉と同じ黒髪だが、顔つきはどこか違う。ユイが表情豊かで何でも口に出すタイプなら、颯太は感情を顔に出さず、必要なこと以外は言わないタイプだ。
アラタが入ってきても、颯太はちらりと一瞥しただけだった。
「颯太、挨拶」とユイが台所から言った。
「……ども」
「もっとちゃんと!」
「天城さん、こんにちは」
「ども」とアラタは言った。
ユイが振り返って呆れた顔をした。
「あんたも人のこと言えないじゃん」
「俺は客だから許される」
「その論理、意味わかんない」
颯太がちらりとアラタを見た。何かを言いたそうな顔をして、結局やめた。また画面に視線を戻す。アラタはその判断を、密かに好ましく思った。余計なことを言わない人間は嫌いじゃない。
台所からユイの母が顔を出した。割烹着姿で、手に玉ねぎを持っていた。夕飯の準備をしていたらしい。
「アラタくん、いらっしゃい。ご飯食べていく?」
「いただきます」
「即答」とユイが言った。
「遠慮するのが苦手だから」
「正直なのはいいことよ」とユイの母が笑った。その笑い方がユイに似ていた。いや、逆だ。ユイの笑い方が母親に似ているのだ。
アラタは台所の椅子に座った。ユイがフレンチトーストを皿に移す。バターと卵の焦げた甘い匂いが広がった。颯太がソファから身を起こして、「まだ?」と言った。
「もうすぐ。待って」
「……わかった」
颯太はまたソファに沈んだ。アラタはそれを見ながら、この家の空気というものについて考えた。うるさくはない。でも静かでもない。人がいる温度がある。自分の家とは少し違う種類の温かさだった。
夕方になって、ユイの母が買い物に出た。颯太が宿題のノートを広げ始めた。
台所でユイが後片付けをしている。アラタは椅子に座ったまま、特に何もせずにいた。こういう時間が嫌いではない。何かをしなければならない理由がない時間。
「ねえ、アラタ」
「なんだ」
「もし将来、誰かと結婚するとしたら、どんな人がいい?」
あまりにも唐突な質問だった。アラタは少し考えた。考えてみたが、答えが出なかった。
「考えたことない」
「嘘だ」
「本当さ。俺の中では優先順位が低いから」
「優先順位って何と比べて」
「今考えるべきことが他にある」
ユイは皿を拭きながら、少し笑った。
「アラタって、たまに宇宙人みたいなこと言うよね」
「そうか」
「じゃあ私は」ユイは手を動かしたまま言った。
「気づいたらそばにいる人がいいな」
「漠然としてる」
「いいじゃん、漠然としてて。全部決めなくていいことってあるじゃん」
アラタはユイの横顔を見た。皿を拭く手が止まっていた。窓の外、夕暮れの光が台所に差し込んでいた。ユイの黒髪が橙色に染まって見えた。
その時、颯太がリビングから声を上げた。
「姉ちゃん、この問題わからん」
「どれ」とユイが振り返った。
「算数」
ユイは布巾を置いて、リビングに向かった。アラタも椅子から立ってついていった。颯太がノートを差し出した。分数の割り算だった。
ユイが覗き込んで、少し考えた。
「えっと……分母と分子を……」
「貸してみ」とアラタが言った。
颯太がノートを渡す。アラタは問題を見て、逆数をかけることと、その理由を簡単に説明した。三十秒もかからなかった。颯太が真剣な顔でノートに書き込んだ。
「……ありがとう」と颯太が言った。アラタに向かって、ちゃんとした言葉で言ったのは初めてだった。
「ども」
ユイが「さっきと同じだ」と笑った。颯太がまたノートに視線を落とした。
夜になって、アラタは帰ることにした。
玄関で靴を履いていると、ユイが廊下に出てきた。
「また来てね」
「用があればまた来る」
「用がなくても来ていいんだけど」
「わかった」とアラタは言った。
ユイが「そういうとこ」と小さく言った。
「何が」
「わかったって言うけど、次に来る時はちゃんと用作ってくるじゃん」
アラタは少し考えた。否定できなかった。
「何でもない」とユイは笑った。
「気をつけて帰ってね」
外に出ると、夜の住宅街は静かだった。虫の声がした。街灯の光が歩道に丸く落ちていた。アラタは坂を下りながら、さっきのユイの言葉を頭の中で反芻した。
気づいたらそばにいる人がいい。
自分がその条件に当てはまるかどうか、アラタには判断がつかなかった。ただ、ユイの家に来る理由を考えると、呼ばれたからというより、気づいたら来ていることの方が多い気がした。用を作って来ているつもりだったが、用がなくても来ていたかもしれない。
それ以上は考えなかった。
家に帰ると、父がテーブルで端末を見ていた。
テクノフォースの研究部門に所属する父は、最近帰りが早くても端末から離れない。夕食を食べながら画面を見て、風呂から上がっても画面を見ている。何を調べているのかは、だいたいわかっていた。
「遅かったな」
「ユイの家にいた」
「そうか」父は端末から目を離さずに言った。
「あの子は元気か」
「いつもどおり元気だった」
アラタは自分の部屋に向かいかけて、立ち止まった。
「何を見てるの?」
「神のエネルギー値だ」父は少し間を置いた。
「また上がってる」
「どのくらい」
「今月だけで三パーセント。先月より傾きが急になってる」
アラタは父の背後からモニターを見た。上昇曲線が画面の右端に向かって伸びていた。シンプルなグラフだが、意味は単純ではない。エネルギーが上がるということは、蓄積が進んでいるということだ。
「閾値までどのくらいあるんだ?」
「計算できない。閾値がどこにあるかわからないから」父はようやく端末から顔を上げた。
「ただ、向きは変わっていない。上がり続けている」
父はそれだけ言って、また画面に戻った。アラタも部屋に入って、自分の端末を開いた。公開されているデータを引き出す。父の言った通り、曲線の傾きは先月より急になっていた。
数値は嘘をつかない。
感情がないから、データは正直だ。見たくないことでも、数字はそのまま表示する。アラタはそれが好きだった。
グラフを閉じて、今日の夕方のことを思った。颯太の宿題。ユイの笑い声。フレンチトーストの匂い。気づいたらそばにいる人がいい、というユイの言葉。
あの家に、いつまで行けるだろうか。
考えて、端末を閉じた。考えても意味のないことは考えない。それがアラタのやり方だった。
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