第5章 疑惑
ブランシュは地下に来ていた。今度は、自らの意志でもって地下を目指し、この間訪れた地下3階に下りたのである。
「ゴミ処理場だって言っていたけれど、本当なのかな…」
薄暗く肌寒い場所で心細さを和らげるために独り言をつぶやく。その独り言が少し大きかったようで、鉄製の壁に反響して自分の耳に届いた。背中に嫌な汗が流れていく。
「この間の部屋はどこだろう」
一定のリズムで、かんかんという音を立てながら通路を歩いていく。どれほど歩いただろうか。最初の曲がり角に差しかかった時、ブランシュは動きを止めた。かんかんという、鉄を打つ音が聞こえてくる。ブランシュは微動だにしていない。その音は、前方から確かに近づいてきているようだった。
「誰かいるの?」
足音が止まり、代わりに澄んだ女性の声が耳に届いた。
「あなたは…ブランシュ?」
この暗がりでよく自分を認識できるなと感心しつつも、父以外に敬称もなく呼ばれることに新鮮さを感じていた。
「こんなところで何をしているの?」
「…探検をしていたんです」
「探検? でも、この階はおもにゴミ処理の施設になっているの。おもしろいものなんてないと思うわよ」
ブランシュは言葉に詰まってしまった。
「もしかして、なにかを探しているのかしら?」
女が尋ねた。そこで、ブランシュは意を決して話す。
「少し前にもここに来たことがあるんです。その時は、本当に探検のつもりで…。ある部屋の扉が開いていて、そこはゴミ処理場だと言われたんだけど、その中に女の子がいたんです。屋敷の人は人形だろうと言うけれど、あれは人形なんかじゃない…」
「あなたは、それを確かめにきたのね?」
「…はい」
「その部屋は、この辺りだったかしら?」
「いえ、たぶん、もう少し向こうだったと思います」
「そう。女の子を人形だろうと言った屋敷の人とは、どんな人だったの?」
「お父様の傍にいる人と同じような格好をしていたよ」
「そう…」
「あの、お姉さんも屋敷の人?」
暗がりではあったが、ふと、目の前の女性が笑ったような気がした。
「私は、屋敷の人とは少し違うわ」
「…そうなんだ」
「ブランシュ、もう戻りなさい」
「え、でも…」
「その女の子のことは私も気になるわ。調査は私に任せて、あなたはもう上に戻りなさい」
有無を言わせない物言いではあったが、不思議とその言葉に棘も威圧もなかった。
「…わかりました」
うなずくと、ブランシュは踵を返す。来た道を、かんかんという音を立てながら引き返して行った。
数日後、午後のティータイムを過ごしていると突然に部屋の扉が開かれた。見なくとも、誰が入ってきたかはわかる。
「ブランシュ」
皺がれた声で父が名を呼んだ。
「はい、お父様」
ティーカップを置いて、父のもとへと歩み寄る。父の傍にはいつもの男と、もうひとり控えていた。小柄で猫背、そしておどおどとした感じの丸眼鏡をかけた男だった。常に父について動いている黒服の男とは、体格はもとより、しぐさや雰囲気も対照的であるようにブランシュの目には映った。
「次の教育係だ」
父の言葉のあとに、小柄な男は額の汗を拭きながら名乗った。
「ゴーチェと申します。どうぞ、宜しくお願い致します、ブランシュ様」
「ブランシュです。よろしくお願いします、ゴーチェ先生」
こうして名乗り合うのも3度目となると、すらすらと流れるように言葉が口をついて出ていく。しかし、どういうわけか、ブランシュよりもゴーチェの方がしどろもどろとなり、時折目が泳いでいる。ロドルフもブリュノもそんなことはなかったし、堂々とした風格であった。不思議に思いながらも手を差し出してみる。差し出された手を見て、ゴーチェは額に大粒の汗を浮かべた。表情も青ざめて見える。
「よ、よろしく、どうぞ…」
そう言いながら、なんとかブランシュの手を握った。その手には力はなく、また、大げさなくらいに震えていた。
翌日から、3人目の教育係による教育がはじまった。
これまでの教育係との違いは、ゴーチェがブランシュの部屋を訪れた時にはすでにはじまっていた。
初め、ブランシュは気のせいかと思った。だが、そうではないことを、3度目に扉を叩かれて知ったのだ。ためらうようなその音は、あまりにも軽く、小さかった。そのため、1度目はすっかり聞き逃してしまった。2度目に、こつっという音を聞いた気がした。3度目にして、ようやくノックの音に気がついたのだった。
ブランシュは自ら扉の方へと向かい、外にいるゴーチェを招き入れる。扉が開かれると、ゴーチェが俄かに後ずさった。まだ午前中だというのに、額には汗がてらてらと浮いている。
「ゴーチェ先生、おはようございます」
ブランシュから声をかけた。
「あ、ブランシュ様。おはようございます」
「ゴーチェ先生」
「は、はい、なんでしょう…?」
「あの、暑い…ですか?」
「あ、い、いえ。そんなことはございません、大丈夫にございます」
「そうですか」
ブランシュは、汗をふき続けるゴーチェを部屋に通して扉を閉めた。
「ゴーチェ先生」
部屋に入ってもなお落ち着かない様子のゴーチェに、ブランシュはどうしたものかと声をかける。
「今日は何をするのですか?」
「な、なんでも結構でございますよ。ブランシュ様のお気に召すことをなさいましょう」
ゴーチェの言葉に、ブランシュは首を傾げた。
「なんでも?」
「はい」
「…どういうことですか?」
ブランシュは尋ねた。彼は、ゴーチェの言葉の意味がわからなくて尋ねたに過ぎない。だが、ゴーチェはそれをどう受け取ったのか、顔を青ざめ、飛びのくばかりに狼狽えていた。
「も、申し訳ございません!」
突然の謝罪の言葉にブランシュは面食らう。
「…ゴーチェ先生?」
「まことに、申し訳ございません!」
「あの…先生…?」
ゴーチェは土下座をする勢いでブランシュにひれ伏した。この状況はブランシュにとって初めてのことで、どうしたらよいのかまるで見当もつかない。とにかく、その日はもう授業にはならなかった。ただ、決められた時間が過ぎ去るのを待ち、昼前にゴーチェを部屋から出してやった。ゴーチェが父にどのように報告するかはわからないが、授業ができなかったのは少なくともブランシュのせいではないはずだ。罰を受けることはないだろうと思われた。そのとおり、その日の食事はいつもと変わらない豪華さであった。
しかし、授業にならないのはその日ばかりでとどまらなかったのである。それから、毎日がそんな感じであったのだ。もう10日近く続いている。ブランシュとしては、教育を受けることは父により義務とされているので仕方なく従っているにすぎない。だから、授業がないならばそれで構わないとは思うのだ。ただ、気になるのはゴーチェのことである。ゴーチェはあまりにも挙動が不審すぎた。この日も、ブランシュの部屋に来てはいるものの、授業をするふうでもなく隅の方であちらこちらに目を泳がせている。
「ゴーチェ先生」
「…はいっ!」
ただ呼びかけただけで、ゴーチェはさらに顔を青くした。額に浮かんだ汗はこめかみを伝っていく。
「もしかして、僕が怖いの?」
そう尋ねると、ゴーチェは目を見開き、部屋の壁に背をつけるほどブランシュとの間に距離をとった。
「お父様からもらった贈り物のことを聞いているのですか?」
「…贈り物?」
ブランシュは、机の引き出しの中から黒く光る鉄の塊を取り出して見せた。すると、ゴーチェはこれまでにないほどの狼狽ぶりで、はっはっと過呼吸にでも陥ったかのように浅い呼吸を繰り返している。
「いつでも、使いたい時にこれを使いなさいってお父様からもらったんです」
ブランシュはそれを机の引き出しに戻した。
「僕は、これをロドルフ先生とブリュノ先生に使いました。お父様の言う成果をなんとかあげたくて…。それに、ふたりは僕をゴミだと言い、僕によくしてくれるナターシャさんに酷いことをした。だから、使っても構わないと思ったんだ」
ゴーチェはいよいよ苦しくなってきたのか、その場に膝をついた。それを優しく見つめながら、ブランシュは言う。
「僕は、ゴーチェ先生にこれを使うつもりはないよ」
それを聞き、ゴーチェは少しばかり色を取り戻したように聞き返す。
「…ほんとうですか?」
「はい。だって、ゴーチェ先生は何も酷いことをしないもの」
「あ…ありがとうございます!」
「だから、逃げた方がいい」
ブランシュは言った。その言葉は、なにか考えがあって発したものではない。自分でも驚いたほどに直感的なものであった。
「お父様は、何を思っているのかわからない人です。良い人なのか悪い人なのかさえ、僕にはわからない。でも、僕が先生を殺すことをなんとも思っていない。…そんな気がするんです。それを、お父様は成果と言い、むしろ僕に先生を殺すことを勧めているようにすら思える」
「…そんな…」
「だから、逃げて下さい」
「逃げる…? しかし、私は一体なにから逃げれば良いのでしょうか?」
「それは、僕にもわかりません。けれど、この屋敷にはいない方がいいと思います」
「それは、つまり、ボスから身を隠せ…と?」
「……」
「それは、あまりにも無謀な…」
「お父様が先生を殺すかどうかは僕にはわかりません。でも、お父様は僕に殺させようとしているんじゃないかと、僕はそう思うんです。なんのためかわからないけれど」
ブランシュは震えるゴーチェの体を支えつつ、立たせてやった。そして、にこりと微笑む。
「今夜、屋敷を抜けましょう」
その日の夜、みなが寝静まった頃を見計らってゴーチェは屋敷を出て行った。
翌日、ブランシュは父の声によって起こされた。夜は明けたようだが、まだ外は薄暗さと静寂に包まれている。そんな早朝に、父がブランシュの部屋に来たことは今まで1度もなかったので、とても嫌な予感がした。
「ブランシュ」
父の言葉を、ブランシュはベッドから起き上がって聞いた。
「なぜ、奴をを逃がした?」
父は、すでに昨夜のことを知っているふうであった。
「ゴーチェ先生は怯えているようでした。僕にも、この屋敷にも。ここを離れることを望んでいたのです」
「だから、逃がしたのか?」
「はい」
「奴が何を望んでいようとも、それを聞く義理はない。奴は私に雇われたのだ」
「雇われているというのは、命までお父様に差し出したということなのでしょうか?」
「そのとおりだ」
「……」
「お前には贈り物をしたな。前のふたりには使って、なぜ今回は使わなかった」
「必要とあれば使うようにお父様から言われておりました。けれど、僕は、ゴーチェ先生にはその必要がないと思ったからです」
ふんと、父がひとつ鼻を鳴らす。そして、ベッドに何かを放り投げた。それを見たブランシュは、一気に目が覚めた思いでそれを凝視する。そこで、昨夜のことを悟った。
ゴーチェはもう生きてはいないのだ。殺されたのだろう。それは、ベッドの上に投げられた、レンズが割れて型もゆがんでいる丸眼鏡が物語っていた。また、赤黒い血の痕のようなものまで付着していることが決定的と思えた。
「まあ、今回のことは大目に見よう。だが、2度目はない。よいな」
「…はい」
「本日の午後、別の者を連れてくる。そのつもりでいなさい」
そう言うと、父は用件が済んだとばかりにあっさりと部屋を出て行く。しかし、ブランシュの胸には重しが乗せられているようで、父が去ったあともベッドの上の丸眼鏡から目が離せなかった。そして、この時は、それをただじっと見続けることしかできなかったのである。