第6章 新たな教育係
父がブランシュの部屋を訪れたのは、午後のティータイムが終わろうとする頃であった。
「ブランシュ、この者が今朝話した、次のお前の教育係だ」
紹介されたのは、すらりと背が高く、短く切りそろえられた艶やかな黒髪を持つ女性である。
「こんにちは。私はクラリス。よろしくね、ブランシュ」
そう言って笑った女性は、とても美しかった。
「…ブランシュです。よろしくお願いします」
ブランシュは挨拶をしながら考える。なにか、クラリスには感じるものがあった。初めて会った気がしないのだ。その違和感について考えていると、
「どうしたの?」
との声が降ってきた。見れば、もうその場に父の姿はなかった。翡翠のように深く澄んだ緑色の大きな目が、まっすぐにこちらに向けられている。
「女の子のことだけれど」
唐突にクラリスが切り出した。首を傾げるブランシュを前にクラリスは続けた。
「ほら、この間の地下での話よ」
そこで、ようやく合点がいった。クラリスに初めて会った気がしなかったのは、実際に初めてではなかったからだ。
「あ、あの時の…」
「そう。思い出してくれた?」
「女の子、いましたか?」
ブランシュがこくりとうなずいて尋ねたが、クラリスはふるふると首を横に振った。
「いなかったわ」
「そんな…」
「すべての扉を確認したのよ。でも、女の子の姿はなかったわ。そして、人形の姿も…」
「…どういうことですか?」
「そのままよ。女の子もそれに似せたような人形も、どこにもなかったの」
「じゃあ、あれは…?」
「あなたの見間違いじゃないのだとしたら、もうどこかにやってしまったあとだったのかもしれないわね」
「どこか?」
「言ったでしょう? あそこはゴミ処理のための部屋なのよ」
「それじゃ、処分されてしまったということ?」
「そういうことになるわね」
「……」
「あなたが見たのは、本当にただの人形だったかもしれないわ」
「もし、違っていたら?」
「……」
「もし、本当にあの子だったとしたら?」
「どうして、そうまでその女の子だと思うの?」
「僕は、お父様がよくわからない。お父様なら、それが誰であっても、いらなくなったら処分することもあるんじゃないかと思うんだ」
「……」
「もしそうなら、僕もいつかは…」
「大丈夫よ」
話の内容に似つかわしくない明るい声に、ブランシュは思わず顔を上げた。
「あなたは大丈夫よ、ブランシュ。私があなたの教育係である限りはね」
クラリスが笑う。ブランシュも笑ってはいるが、その心は晴れないままだった。
「クラリス先生もきっと殺されるよ」
「私が殺される? 誰に?」
「お父様。それか、もしかしたら僕に」
「あなたが私を殺す…?」
「逃がしてあげたくても逃げられない。逃げようとしたゴーチェ先生は、夕べお父様の部下に殺されたんだ」
真剣に話をしていたつもりであった。だが、ふいにクラリスが声を上げて笑い出すので、ブランシュは面食らってしまった。
「旦那様はともかく、あなたが私を殺すことなんてないわ」
「僕は2人殺しているよ」
「そう。辛いわね…」
「……?」
「でも、それでもね、あなたが私を殺すことなんてありえないわ」
「それは、クラリス先生が僕よりも強いからってことですか?」
「ふふ。違うわ。だって、私はか弱い女だもの。これは、そうね、ただの勘」
「勘?」
「そう。女の勘よ」
そして、唐突に笑顔を引っ込めると、クラリスは真面目な表情でブランシュを見据えた。
「ブランシュ…じゃ、ちょっと女々しいわね。ブラン。そうね、これからはブランにしましょう。いい? ブラン、もう地下へは行っては駄目よ」
「…どうして?」
「あそこは暗いし、不気味な場所でしょう? 危ないわ。それにゴミ処理場なんて不衛生じゃない。あなたはもう行かないほうがいいわ」
「でも…」
「約束してちょうだい」
有無を言わせない迫力に飲まれ、ブランシュはこくりとうなずいたのだった。
「さて、今日はなにをしましょうか?」
笑顔で尋ねられる。そうした経験がなかったので、ブランシュは首を傾げることしかできなかった。
「ねえ、ブランのお気に入りの場所はどこかしら?」
クラリスが尋ねる。
「もう今日は時間がないし、ブランのお気に入りの場所で遊びましょう」
ブランシュはしばらく考え、屋敷に来たばかりの時に父から与えられた空間を思い出した。それ以来行ったことはなかったが、あの時は天にも昇るほどに嬉しかったのだ。
「お父様からもらった場所…」
「いいわ。そこに行きましょう」
クラリスは快諾し、父がブランシュに与えた部屋でふたりは心ゆくまで楽しく遊んだのだった。
「私を殺しなさい」
クラリスがブランシュの教育係となって半年が過ぎた頃、彼女はそんなことを口にした。初めはなんの冗談かと思ったが、クラリスの表情は真剣そのものだ。
「クラリス先生…?」
「さあ、殺しなさい。そうすれば、あなたは糧を得ることができるのでしょう?」
ことの発端は、ブランシュの食事制限であった。それは、もう4ヶ月もの間続いていた。日に日に減らされていく食事の量に、ブランシュもそろそろ限界に近づいていた。だが、それでも、ブランシュはクラリスを手にかけようなどとは思わなかった。それは、自分の中に、糧を失うこと以外の恐怖心が芽生えていたからだ。
「僕は、先生を殺すつもりはありません」
「今後、食事をさらに減らされるかもしれないわよ? これ以上減らされたら、死んでしまうかもしれないわね」
「それでも、僕は…」
「良い答えね、ブラン」
クラリスが笑った。
「半年前…私と会ったばかりの頃、あなたはずっとなにかに怯えているように見えたわ。それは、数日間ともに過ごしてわかった。あなたは、ボスの望む成果をあげることができずに糧を失うことを恐れていたのね。あの頃のあなたなら、もうとっくに私を殺していたかもしれないわ。けれど、あなたは2人を殺して…また、1人を助けてあげることができなくて、そこから学んだのね」
「僕は、自分が生きることしか考えてませんでした。大人なら、死ぬことも耐えられるんじゃないかって勝手に思ってたんです。でも、ゴーチェ先生が殺されることに怯えているのを見て、あれは僕自身だと思いました。…みんな、死ぬのは怖いんですね」
「ええ、そのとおりよ。人の気持ちを思いやることができたのは、あなたが成長した証拠ね。私は、もっともっと、あなたにいろんなことを学び取って欲しいと願っているの」
「先生…」
「だから、私を殺しなさい」
「先生、どういうことですか? 僕は、先生を殺したくない」
「ありがとう、ブラン。そして、覚えておいて。今、私を殺したくないと言ってくれた時に感じたもの、それが悲しみという感情よ。今度は、悲しいと感じたらそういう表情を作れるように練習しましょうね」
「先生がいなくなったら、誰が僕にそれを教えてくれるんですか?」
「大丈夫よ。手は打ってあるわ。それに、ボスはきっとやめない。私かあなたが死ぬまで、続けるつもりよ。私を殺さないとしたら、あなたが飢え死にしてしまうのよ」
「でも…」
「安心して、ブラン。言ったでしょう? 手は打ってあるの」
そう言うと、クラリスはブランシュを抱きしめてその耳元で何やら囁いた。
その日の午後、ブリュノを撃った中庭にて再び銃声が上がった。駆けつけたヨハンが目にしたのは、硝煙が燻る銃を手にしたブランシュと、仰向けに倒れるクラリスの姿であった。




