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意天  作者: 安藤 兎六羽
二章 神
53/159

二十、龍と尚――苦労人たち――




「――しかし、どうしたものでしょう……?」


 向かい合った龍どのから放たれたその言葉に、尚は身が縮み上がる思いが致します。


「……この尚めが不遜にも、おひい様の御耳に不確かな知識をお入れした為に――」


 跪き、叩頭しました。額と地面の境から重い音が致します。まるで、尚の罪科そのもののような音です。

 尚の頭上から、龍どのの戸惑いの声が降って参ります。


「尚どの! 頭をお上げくだされ! ……朱蝶どのが今や日課となった邑歩き中とは言え、この宿からそのような音を出せば、何時お戻りになるとも知れませぬ!」


 そうでした――

 今は、龍どのと朱蝶どのの宿にいるのでした。朱蝶どのはこの宿から遠くには出歩かれない。

 いつ、戻られるとも知れないのです。尚が頭を上げると、龍どのがすまなさそうに口を開かれました。


「それに、尚どのの責ではございません……己があの飾り紐を、玲華どのの物だと考え違いをしたがゆえに、このような煩雑な事に……」


「いえ、そのような……。……しかし、如何致しましょう? ……今さら、行き違いがあったなどと朱蝶どのとおひい様に申し上げても……」


「……この際、問題は姫様では無く、朱蝶どのでしょうね……。まさか、あれほど喜ばれるとは……」


「ええ……」




――時は昨日の昼まで遡る。



 ムーの合議に別れを告げ、朱蝶どのがおひい様に跪き、罪を数えておられた時です。

 おひい様は、一向に七夕の飾り紐に対する謝罪が出て来ない事に業を煮やされたのか、とうとう御自身から「紐」の一件を口にされた。


「そなた! 本当に忘れておるのか? 紺と赤と橙の三色の紐じゃぞ? 妾が、この妾が手ずから編んだというに!!」


 ああ、おひい様のこの怒りようは、心からのお怒りにございます。

 しかし、頭を上げた朱蝶どのはどういうわけか目を見開き、口をぽっかり開けたまま動く様子もございません。


「なんじゃあ? その顔は!」


 まずうございます、朱蝶どの。

 これ以上、おひい様のご機嫌を損ねられると……。


「ひ、姫様? 今のお言葉はまことにございましょうか?」


 なぜか、成り行きを静観されていた龍どのが動揺しておられます。

 声まで裏返っておられる。なぜでしょうか?


「おう! まことじゃ! ……それをこの朱蝶の阿呆めは――」


「では、姫様は……」


 そこで、龍どのは止まりました。

 いえ、正確には朱蝶どのが、掌にて龍どのを制されたのです。


「……苦節二十一年。……人間五十年とは、かの敦盛あつもりにも歌われておりますが、こんなに、こんなにも嬉しいことは……きっと無い……」


 何を言っておられるのかは、とんとわかりませぬが。

 なぜか、朱蝶どのの声が震えておられます。……いえ、泣いておられる?


「まさか、人生も終わって、蝶生まで終わって、幽霊になって、よくわからん≪神怪≫なんぞになってから、この非モテの俺に春が来ようとは…………誰が思いますか?!」


 急に膝立ちになっておひい様に顔を寄せて、訴える朱蝶どの。

 おお、珍しい。おひい様の腰が引けておられます。

 おひい様のご様子にも構わず、両掌に拳を作り、身体をたわめられる朱蝶どの。――そして――


「女子にコクられた!!」


 そう言って跳び上がる朱蝶どの。

 何がなんだかわからない尚は、その様子を正直、不気味に思うて眺めます。おひい様もどうやらこの尚めと同じ御心境のよう。

 ただ、龍どのだけがおひい様と朱蝶どのを驚きの表情にて、交互に見ておられる。


「――そ、そなた! 先ほどから何を……」


 おひい様の言葉にハッという顔をされる朱蝶どの。

 そのまま膝を屈して、また額ずかれます。


「おひい様! 失礼致しました! おひい様の御気持も知らなくて……いえ、俺が気づかなきゃイケなかったんす!!」


 呆気にとられる、とはこの事を言うのでしょう。

 朱蝶どのの常軌を逸した行いは、どのように考えても納得がいきませぬ。


「罰を! どうか罰をお願いします!! ……そして、こんな俺でもよければ、おひい様の御気持を受けさせて下さい!!!」


 そう言うなり、なぜか腕を真っ直ぐに伸ばして掌を縦に置いて、おひい様へと突き出す朱蝶どの。

 頭は下げたまま、腰も折り曲げたままの奇怪極まりない格好でございますが……。

 どのような≪意≫がおありなのか?


「……よう、わからんが。……すなわち、そなたはあの紐が妾からの物だとは気づいておらなんだ、と?」


「はい!」


「その体勢の≪意≫は知れぬが、そなたは妾の僕に戻りたい、そう考えておるのだな?」


「はい! 俺は、おひい様の……そのぅ……愛の奴隷っすから!!」


 うーむ。そう、腕を組んで唸られるおひい様。そして、ちらりと尚めをご覧になられました。

 相変わらず、朱蝶どのが言うておられる事はわかりませんが、深く反省しておられるご様子ですし……。

 尚めが頷き返しますと、おひい様は、


「……まあ、良い。赦してやろう!」


 喜悦満面の笑みで再び跳び上がる朱蝶どの。そして、そのままの勢いで屋を出て行かれてしまいました。


「うむ。なんぞわからん挙措じゃが、まあ、喜んでおるのじゃろう!」


 大笑なされるおひい様。

 姫としては頂けませぬが、常になくお喜び遊ばされているご様子。

 尚も思わず笑みが零れます。


……ふと、蒼い顔をした龍どのに袖を引かれました。

 どうされたというのでしょう?


 そのまま屋の外に連れ出され、柱の影で耳打ちされた言葉に、尚は思わず龍どのの蒼白い顔を見つめてしまいました――


「朱蝶どのは、姫様から恋慕の情を告げられたとお思いのようですが……姫様にそのおつもりは無い。……そうですね?」


「――な、なぜ? なぜ、そのような話になるのですか?!」



――そうして尚は、龍どのの言葉によって、己の無知による失策を知らされたのです……。




――そして、一夜明けた只今。

 尚と龍どのは膝を突き合わせて合議中です。


「……昨夜、朱蝶どのに相談を受けてしまいました……」


 おそろしい。問わねばならぬ事がおそろしゅうございます。


「……ど、どのような……?」


「……『ろりこん』がどうの、と言っておられましたが……掻い摘んで言えば、どうやら、成人前の娘御であられる姫様と相思となるのは、貞操観念に悖るのではないか、と……」


 邑娘だろうが、姫様だろうがそのような事はございません。おひい様も、巫祝でさえなければ嫁してもよい御年頃。

 朱蝶どのはいったい何を考えておいでなのでしょうか?

……しかし、考えようによっては好都合です。


「――では、そこを押して諦めるように御説得を……」


 なぜか、首を横に振られる龍どの。

 どうしてでしょうか?


「己がお答えする前に、ま、いっか、と仰られ……」


 無念そうに俯く龍どの。

 どうやら浮かれ倒している朱蝶どのは、問いを繰り出してはご自分で勝手に返事をされる、という事を繰り返しておられる様子。


「…………やはり、朱蝶どのに告げるほかありますまい……」


 龍どのは顔に悲愴をさえ漂わせて、そう言いました。


「――尚めも、御供いたしましょう」


 早いほうがよろしいですな、そう呟く龍どのに、尚は頷き返します。

 せっかく、おひい様のご機嫌が麗しゅうございますに、調子に乗った朱蝶どのがどのような狼藉を働いてもおかしくはありません。

 そして、そうなればおひい様は、今度こそ朱蝶どのをお赦しにならぬかもしれない――


 そのような事は尚も、龍どのも望んでいません。


「朱蝶どのが戻られたならば、お話致しましょ――」


 龍どのがそう口にされた時、


「え? 何を?」



――振り返れば、敷居を跨いで朱蝶どのが戻ってこられたところでした。

 尚は、思わず跳んでおりました――




 ―――




「――申し訳ございませぬ!! 朱蝶どの!」


 尚どのの跪拝に、一歩ほど朱蝶どのが退かれた。

 尚どのには言い知れぬ迫力がある。姫様の勘気を折り、≪神怪≫たる朱蝶どのすら退かせる気迫がある。


 龍がそのような事に、思わず感心していると、朱蝶どのがこちらを聡い狗のような眼差しで見ている。

――困惑。

 当然だ。そう、龍はこれからこの「ひと」に説明せねばならん。なぜ、尚どのが頭を下げているのかを。

 朱蝶どのがあれほど喜んでいる様子など、ほぼ見た記憶も無い。しかし、己は今からその喜びに冷や水、いや、南国育ちの龍は見た事もないが、雪崩をぶち込もうとしているのだ。


 温和な朱蝶どのだ、怒りに我を忘れるような事はあるまいが……。


「……朱蝶どの。どうぞ、お座り下さい。これより申し上げねばならない事がございます」


 少し躊躇いがちに座に着く朱蝶どのに、己は口を開く――



「――姫様に、朱蝶どのに対する恋慕の情など無いのです。すべては行き違いにございました――」


 続けて、ゆっくりと、噛んで含めるように経緯をご説明申し上げる。


 しかし、己には朱蝶どのの顔を見上げる事ができない。

 此度ばかりは、朱蝶どのの反応が読めない。


 この二月ほどで、朱蝶どのが何に怒り、何に笑い、何を哀しみ、何を喜ぶのか、だいたいは察している。

 ひと月以上心を共にし、この二旬ほどは寝食を共にし、顔を突き合わして来たのだ。……それでも、読めない。



「……という事でして、よって姫様には恋慕の情は無く、朱蝶どのと姫様は今まで通りの御関係という事です……」


「申し訳ございません!! すべてはこの尚の蒙昧もうまいによるのです! 責めは尚に!!」


 己が説明を終えると、ずっと額を床の毛皮へと埋めている尚どのから再び謝罪の声。


――沈黙。身を斬られるような沈黙。

 水底に沈んでしまったかのような錯覚さえ覚える。



「…………じゃあ……しょうがないね……」


 幾許かのち、赦免の言葉のようにも聴こえる朱蝶どのの声が、正面から漏れ聞こえた。

 だが、おかしい。龍は直感していた。この声はどこかおかしい。


 証拠に、頭を上げたはずの尚どのが、両腕を地に突き、顔を突き出した妙な体勢のまま硬直している。

……おそる、おそる、龍も眼の前の朱蝶どのの表情を確認した――


――無――


 この二旬ほど見て来た、どのような朱蝶どのの表情とも違う。

 龍が見て来た、感興と感情に彩られた百面相とはまるで違う。


――無我、あるいは、無心――そのような≪無≫の顔。



「…………」


 再びの沈黙。――痛いほどの沈黙の中、平坦な表情のまま、朱蝶どのはゆっくりと目を閉じられた。




 ―――




 次に、俺が目を開けた時、そこはムーの村じゃ無かった。


 星々が輝く光の軌跡を引きずり、濃紺の夜空に長い孤を描いている。

 円。円だ。

 光り輝く幾重もの半円たちが、無様な俺の姿を照らしてる。


――ああ、見たことある景色だ……。


 でも、しょうがない。

 だって、ショックだったんだもの……。



「――つくづく、逃げる事が好きなようだな、お前は」


 俺の眼の前の椅子に腰掛ける、全身真っ白なおじいさん――≪白帝≫は、苦笑を溢しながら、そう言った――




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