二十三、夜語り
――ゆらり、ゆらり。
身体が揺れている。しかし、この感覚は不快ではない。
四肢を投げ出して、もっと大きなものに頼り切ってるような。どこか覚えがある感覚。
――そうか。これは母親の腕に抱かれている感覚だ――
ゆっくり眼を開けると――逞しい背中と尻、そして泥土を踏み分けて、後ろへ後ろへと景色を流していく脚や踵が月光に浮んでいた。
少々、戸惑いながら横を見れば、獲物の屍骸と目が合う。
今宵狩った、鹿の屍骸だ。
……なるほど、抱かれているのではなく、肩に担がれていたわけだ。
逆側の肩に載る獲物と同じように。
「……歩けます」
「目を覚まされましたか?」
「……ええ」
そう答えると、長双が立ち止まって、ゆっくりとこの身体をその肩から降ろしてくれた。
肩が少しだけ痛んだ。だが、外れてる時のような痛みではなく、今は腕ごと布で固められている。
見れば、長双の着物の左袖が無い。
衣服を破いたのか。
「申し訳ないことです。年甲斐もなく、興奮してしまいました」
本当にすまなそうな顔で、頭を下げられた。
「いえ。それよりも公館へと戻りましょう」
そう言って、自らの脚で土を踏んだ。
---
「…………」
「…………」
無言だった。こちらもあちらも。
黙々と、しかし、肩の負傷を気遣われてか遅々とした歩みで。
この旅の間、いくらでもあったはずの沈黙。それが今はなぜか重い。
「……まさか、朱蝶どのに操気の才があるとは思いませんでした」
よほど気まずかったのか、先を歩む長双が言う。
「ええ、俺も、そう思いますよ」
「…………」
「…………」
また、森の静寂が還って来た。
あちらが気まずそうなのは、加害をしたという思いからなのだろう。
「……龍どのは、今?」
「……眠ってる、みたい、ですね」
「そうですか……」
「龍には――蛮に友がいたみたいです」
意を決して放ったその言葉に、前を行く男の脚が止まった。
こちらを振り返った顔は、冷たい月明りに少しだけ蒼褪めていた。
「――五歳前の戦の直前、龍の親父は蛮民の小さな部族を逃がしたみたいです。……国を裏切ったんです」
「そう、ですか」
「龍も親父さんのしたことを知ってた。でも、龍にとって許せないのは、父親が国を裏切ったことじゃないみたいです」
「……では、龍どのは私を恨んでいるのでしょうね? 友の仲間を殺した私を」
男は初めて腑に落ちた、というように哀しそうな笑みを顔に張り付けた。
でも、それは違う。
「いえ、龍が許せないのは、たぶん――自分なんですよ。親父さんのしたことを見ていて見ない振りをした自分。友達の仲間が殺されてるのを見て見ない振りをした自分。――何も選ばずに、無力を言い訳にした自分自身」
「そう、なのですか?」
たぶん、そうなのだろう。今ではそう思っている。
この数日の間にそう思うようになった。
択ぶ前に逃げ出していたのだ――と。
でも、問題はそこではない。どうしてもひとつ尋ねたいことがあった。
「――なんで、龍だったんですか?」
「なぜ、というと?」
「あなたほどの人が護衛役を買って出たのも、少しおかしい。でもそれよりも、なんで龍を教導しようと思ったのですか?」
単なる暇潰しには思えない。
本当は、この人は全て知っていたのではないのだろうか?
南の虞衡が蛮を逃がした事も、その子が心の中で蛮に寄り添おうとしていた、という事も。
もしくは全てには気づいて無かったのだとしても、国を裏切った男の子供を監視下に置いておこうとした、という事も考えられる。
五歳前、戦時とはいえ、国の誰ひとりとして龍の父・会の行動に気づいていなかったとは思えない。
「――そうですね。才があったから。……だけでは確かに無いですね」
「では、なぜ?」
長双は空を見上げた。
月でも見ているのだろうか。
たぶん、あの月は五歳前も同じように、この人を照らしていたのだろう。
この人には五歳前にも、こうして月を見上げる夜があったのかもしれない。
月下の――英雄は、少し迷う素振りをしてから、その口を開いた。
「私という男は、この国を守る為の剣のようなものでした。――国を守る為に、他の民を攻め、士卒を討ち、ひとを殺し――それだけだったのです」
意外なことを言いながら、男は少しだけ淋しそうに微笑みを溢した。
「既往は否定しがたい。咎められることもあるでしょう。――間違いなく、私の手は血に染まっているのですから」
「しかし、それは守る為の行いだったのでは?」
長双は力無くかぶりを振っていた。
国の英雄と呼ばれるこの男が、今、かつての己の行為を蔑んでいる。
「――私は己の築いた尸の山を忘れてはならないのです。それがどのように正当化されようとも、この私だけは己が咎を忘れてはならない。――しかし同時に、私はその咎を肯んぜねばならない。死した仲間の為に、これからを生きる者の為に」
――こういう男だからだ。こういう男だからこそ心底からは憎めない。
「――そのような血に染まっている私の手でも、ひとを導ける。役目が終わってしまった錆びて切れぬ剣が、だからこそ幼い手に握られてその膂力を鍛える為に使われるように」
この人は、本当にそれだけだったのだ。
自分の穿った思考こそが、彼の姿を歪めていた。
嬉しそうに笑う、その顔を見て納得した。
「この身にそのような使い方があるなど、思いも寄らなかったのです。――これほど心弾む事があるでしょうか? 戦ではなく、誰かを傷つけることなく、誰かを育むことができるなど」
やっと気がついた。
この人は悔いているのだ。
だけど、悔いている姿を他の者に見せるわけにはいかない。
――英雄、だから。
国威を背負うべき英雄が、蛮の憎しみを一身に受けるべき英雄が、当たり前の幸せを謳歌する姿など、誰も望んでいないのだ。
だから、彼もまた知る事すらなかった。
彼自身、何を本当に望んでいたのか、などということすら。
「――龍に聴いたのですが、蛮の者は己の事を≪ムー≫と呼ぶそうです……≪ひと≫という≪意≫だとか」
嬉しそうだった男の顔が凍りついた。
そして、打ちひしがれたように、それでも微笑みを浮かべると、小さな声で、
「……そのような事も、私は知らなかったのですね。……恥ずべきことです」
そう呟く。
今度はこちらがかぶりを振った。
違う。そういうことでは無い。
「――長双さんが、もし彼らに会うことがあったら、彼らをそう呼んで貰えませんか? ――同じ≪ひと≫だと。自分も≪ムー≫なのだ、と」
男はあからさまに驚いた顔をしていた。そんな顔は初めて見る。
長双がした事を彼らは赦さないだろう。
それでも長双が言うように、彼が単なる剣では無いとしたら、彼が誰かを育む事ができるならば。
――そして、何よりこの瞳には長双という男が、そう、映るのだから。
「いつか、あなたが言葉で彼らと語り合える日が来るかもしれませんから」
いつのまにか、そんな将来を願っている自分がいた。
そんな光景を見る為なら、きっと何でもするだろう。
彼の教えを受ける者だけでは無く、彼自身にも救いが無いなど、嘘だ。
しかし、これは、彼の為でも、彼らの為でも無い。
自分の為なのだ。――≪自分≫の願いなのだ。
……英雄はいつのまにか、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
こんな顔も初めて見た。
――≪雷名≫長双も、ただの≪ひと≫だった。
やっと、そう理解した。
---
「遅かったではないか?」
公館の入り口には、燭の灯りを翳して小さな影が立っていた。
≪巫姫≫が長双と己を出迎える。
「ご心配をおかけしましたかな?」
長双が叩く軽口を、鼻息で吹き飛ばしてから、
「冗談を言うな、何も心配など――」
目が合った。
そして≪巫姫≫の視線がこの身体の左手を射る。
「――長双さんは、先に中に入っていて下さい。俺は、おひい様とお話がありますから」
「そう、ですか」
長双が公館へと消えて、残された己と≪巫姫≫――
――その≪巫姫≫がにやりと笑った。
「そなたもなかなか食えぬと見える」
「……ふたつほど、問いたい事がございます」
さらに、深く頬を紅い唇で裂いた≪巫姫≫は静かに笑い声を溢しながら言う。
「よかろう。存分に問うが良い――南が虞衡、龍よ」
龍は朱蝶の≪意≫が未だ戻らぬ事を確かめて、ゆっくりと口を開いた――




