十、≪雷名≫
翌朝、俺も龍もテンションが低い。
俺は昨夜、厄介な人間に出遭ってしまったから。
龍はこれから会いに行かなければならないから。
(どうするべきでしょうか?)
『だから、雪がその≪雷名≫さんに話を通す前にこっちから出向くしかないでしょうよ』
いつものように厨房の仕出し口で、珍しく雪が来ないままに朝食を片付けながら頭の中で会話する。
厨房の婆さんのTHE・息子のヒットショーはいつも通りに開催中だ。
婆さんの息子ノロケを聞き流しながら、俺は茶碗を支える龍の左手をなんとなく意識する。
どういう理屈だかは知らないけども、昨夜あの≪おひい様≫に刻まれた左手の甲の創は、俺が≪スイッチ≫をなんとか切った瞬間にすうっと消えた。
まじかよ。と心の中で呟くと伴に、俺は慄いた。
――これでそなたは妾のものじゃ! 努々忘るるな!
っていう≪おひい様≫の捨てゼリフが心を颯爽と駆け抜けたからだ。
誰かがこのセリフも≪おひい様≫に関する記憶と一緒に、俺の心から連れ去ってくれれば良かったのに、って心底思う。
(朱蝶どのもご気分が優れぬようですが、なんぞ懸念でも?)
宿舎を出て、重い足取りで進む龍にそう訊かれても、俺は昨夜の一件を話すつもりは無い。
だって話そうとすれば、身体を操ってたことも、その準備期間のこともぜーんぶ話すことになる。
『なんで≪雷名≫って人が嫌なのかなって思ってさ』
そんな言葉でお茶を濁した。
(そのことですか……)
龍が頭の中で≪雷名≫の情報を語り始めるけど、俺には聞こえちゃいなかった。
俺の心は龍に≪おひい様≫の一件をいつ伝えるのかでいっぱいだったんだ。
いくらクズの俺だって隠し事が良くないってことぐらいわかってる。
特に俺と龍は二心同体で運命共同体なんだ。
小さなヒビが命取りになりかねない。
でも、いつ打ち明けるべきだろうか?
それとも打ち明けるべきじゃないんじゃないか?
中途半端が一番良くないってのはよくわかってる。人間の頃はいつもそれで失敗してきた。
――お前は、イイよな。誰にでも良い顔できるから。
なんて吐き捨てた、≪ヤツ≫の顔も名前も思い出せないのは失敗したからなんだと思う。
俺が思い出すのは学校のトイレの、個室の傷んだ木製のドアだけだ。
≪ヤツ≫はいつもその個室に引き篭もってた。
中学生の時、優等生面が板についてた俺に、クラスの委員長をやれって教師が言ってきたのは当然だったのかもしれない。
まあ、要は押し付けられたわけだ。
だから、≪ヤツ≫がトイレに引き篭もるたびに俺が迎えに行かされる。
なんで、トイレだったのかなんて訊くまでも無かった。
保健室も、相談室も人でいっぱいだったからだ。しかも≪ヤツ≫をハブってたヤツらで。
そいつらのどーでもいい話で、相談員も教師も手いっぱいだった。
……まあ、みんな気づいてただろうさ。それもイジめの一環だったなんてこと。
俺はいつのまにか一緒に責任を負わされてた。
見えない、≪人間関係≫ってのに圧し掛かる責任。
人間には見えない色が付いてる。敵か、味方か。
結局、≪ヤツ≫がどうなったのか、俺は知らない。俺が≪ヤツ≫を最後に見たのは中学の卒業式。
みんなが泣きじゃくってる中で、独りだけ能面みたいな顔してじっと椅子に座ってたっけ。
泣きもせず、笑いもせず、ひたすら無色透明になろうとしてるみたいに。
その時の顔すら、思い出せないんだから笑える。そして、卒業メロディが流れる中で、俺はなんとなくそんな未来を予想してた。
なんだ≪ヤツ≫のプランは成功するじゃん。きっと誰も≪ヤツ≫を憶えてない。同級会にも呼ばれない。過去は無かった事にできる。じゃあ、イイじゃん――そう、思ってたんだ。
――思えば、あの卒業式で、「俺はクズなんだ」って初めて自覚したんだ。
(朱蝶どの、聴いておられますか?)
龍の言葉が響いて、卒業式で歌った歌をかき消した。あれも口パクだったっけ。
『悪い、聴いてなかった。もう一回お願い』
龍は苦笑いを浮かべて頭の中で、わかりました、って言って改めて話し始める。
〓〓〓
≪雷名≫――
彼がそう呼ばれるようになったのは五歳前の≪蛮≫――異民族との戦からだ。
そして同時に彼は不名誉な名も手に入れた。
≪鼻削ぎ卿≫という名――
以下は史官の記憶――つまり正史である。
『今上暦十二歳。
皐公国、南鄙に来鼓するもの在り。
南鄙宰、皐都に告げて曰く、
「蛮方、我が鄙を征せし」と。
皐公霜、長双に命じて蛮を伐たしむる。
長双、首級二百、奴婢百を得、卿位を得る。』
――史実に誤謬は無い。しかし、その実情とは程遠い。
なぜ、長双が≪雷名≫そして≪鼻削ぎ卿≫と呼ばれるのか、史官は語らない。
確かに彼は蛮民を百人も捕え、蛮の士卒を二百人も殺した。彼のひとつ目の名の由来はそこにあり、その方法にある。
彼はまず、南鄙――南の城を囮に、蛮の本拠地を攻めた――
総勢百五十に過ぎない寡兵を従え、救援を求めた南の城を素通りした長双は、≪雷≫の如く森の奥にあった蛮の主要な聚落を強襲。非戦闘員を殺戮・略取した。
南の城を攻めていた蛮の士卒、およそ五百は反転、己が聚落を取り返さんと長双率いる百五十を攻める。
長双は蛮の環濠聚落に土塁を築き、砦と成して籠城。南鄙からの出兵に呼応して、蛮軍五百を壊滅させた。
……彼は蛮軍に囲まれた五日ほどの籠城戦の間に、蛮族の非戦闘員――主に女子供老人、二百五十を盾として用い、土塁の上から落として兵器として使い、殺した。
五日目に援軍に到着した南鄙の士卒たちが見たものは、蛮民の死体が折り重なって埋まった濠と、その死体を回収しようとして弓矢に斃れた蛮士の屍骸の山だった。
南鄙の援軍が砦に到る前に、蛮軍の士気は折れ、憔悴し切っていた。
小さな加虐・残虐は人を憤らせるが、過度のそれは人を畏怖させる。――その事を長双は良く知悉していたのだ。
そして、最後に長双は己が築いた砦ごと蛮の聚落を焼き払った。
以来、蛮より長双の≪名≫は怖れ、嫌悪され、憎まれている。
雷の如く攻め、すべてを灰燼に帰する名――すなわち『雷名』である。
だが、それだけでは無い。終戦後、長双はぽつり、と呟いた。
「多いな」と。
五百の蛮軍のうち二百は討ち取り三百は逃げ散り、主要聚落に残っていたおよそ五百人の非戦闘員も最初の強襲と籠城時の虐殺で残り二百人ほど。
国都へと首級二百を運搬するのも、二百人の蛮民を連行するのも、南鄙の助力があろうとも、戦闘で百十ほどに減ってしまった長双旗下では心許ない。
「首級から鼻を削ぎ、蛮民は半ばを埋めよ」
長双はどこまでも合理的だった。
首を丸ごと運ぶよりは、鼻のほうが遥かに軽い。首級は勲功を表する為には欠かせないが、鼻はひとつの首にひとつしか無いのだから構うまい。
そして生きた人間を連れて行くなら、己の旗下よりは少ないほうが理に適っている。
長双は蛮民の慟哭に包まれながら、すべてを平然とやってのけた。
彼は国都に持ち帰った二百個の鼻によって禄位――下卿を得た。
当時、齢二十五。にも関わらず、上卿たる夏官長を含め夏官に彼より上位のものは六人しかいなくなった。
そして、夏官長輔佐、その末席に加えられる。
≪鼻削ぎ卿≫――これが彼の忌み名の由来だ。
〓〓〓
――そんな男の家の前に俺たちは、今立ってる。
ねえ、大丈夫? ……大丈夫だよ、ね?
俺は龍の血の気の引いた体の中で心底震えてた。




