表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

兎が少女になりました

 センターの二階には事務室がちょこんとあり、大部分を集会場が占めている。何か大きな会議がある際は、床一面にパイプ椅子が並べられる。二階だけ法律の都合で天井が低かったらしく、解放感を高めるために天井が一面硝子張りという謎の工事がされていた。

 男は二階に上がると集会場に入っていった。鏡也も集会場に飛び込んだ。すると、男は同じ廊下に面したもう一つの出口から集会場を出て行くところだった。


「ああもう、面倒臭い奴だ」

 鏡也がそちらの出口に向かおうとしたとき、廊下の方から男のわめき声が聞こえてきた。

「シャックス、助けてくれ!」


 それに呼応し、天井から甲高い音が響いてきた。

 次の瞬間、天井の鏡面が歪むと、とぐろを巻いた極彩色のピンクの塊が姿を見せた。太さはバスほど、長さが五十メートルはあろうかという巨体だった。重さで床が割れ、その下半分は一階へと落ちていく。


「は……」


 上半分の巨体だけでも見上げるほどはある。それは大蛇だった。鏡也は口を開けたまま、茫然と立ち尽くした。床のヒビ割れが足元にまで走ってくるのを見て、慌てて出口へと駆け出した。

 大蛇が鎌首をもたげ、トラックさえ飲み込めそうなほどでかい真っ赤な口を開く。


「キシシ、俺がいなきゃ、やっぱ何もできないんだなてめえはよおぉぉぉっ!」


 鼓膜を破らんばかりの声の波動が空間を伝わり、鏡也は思わず耳を塞いだ。蛇は鎌首を少し後ろに引き、鏡也に向けて突進してきた。


「くっそおおお、なんなんだよ、もう!」


 鏡也は前方に飛ぶとハンドスプリングの要領で一回転し、足で出口の扉を蹴りながら外に飛び出した。

 床を転がっていく鏡也の耳に、背後の壁と床が破壊される音が聞こえてきた。もうもうと埃が舞い、大蛇の姿は見えなくなった。大蛇が鏡也を見失っている内に、鏡也は急いで階段を上り、上の階へと駆け上がっていった。


「待ってろよ、あの犯人」


 あの蛇はなんなのか。世界にいったい何が起きたのか。手がかりは逃げた男が握っているはずだ。鏡也は男を探して走った。

 五階から六階への階段を上る途中、上から走り下りてくる少女の姿を捉えた。まだ寒い時期なのに、ワンピース一枚だけを着て裸足である。髪は兎の毛のような白さで、眼は兎のように赤かった。


「ああ、鏡也、ようやく見つけたよ」

 親しげに話しかけられ、鏡也は思わず足を止めた。

「ん……すみません、あなたは誰ですか」

「鏡也がエレベーターに乗らないものだから、私だけ置いてかれてしまったよ。最上階からここまで道を探して下りるのがどれだけ大変だったことか、この屑人間」


 少女は大股で立つと、頬を膨らませて、鏡也に人指し指を向けた。身に覚えのない少女に、鏡也は目を白黒させるしかなかった。


「お嬢さん、人違いじゃないでしょうか。それより早く上に逃げないとやばい怪物が来てるんです」

「はあぁ? 一晩一緒のベッドで眠った仲じゃないか。もう自分が付けた名前を忘れてしまったのか。その残念な脳みそに刻め。私は納豆丸だ」


 今日幾度目とも知れない脳のフリーズが鏡也を襲った。


「……だって、納豆丸は兎だぜ。お前は人間じゃないか」

「おう、私が人間に見えているということは、鏡の中の世界に足を踏み入れているのだな」


 少女は一人、納得したように首を縦に振っていた。


「ああ、すまん、納豆丸。俺の残念な脳みそでも分かるように説明してくれないか」


 鏡也は現実を拒否しそうな脳を必死に解凍しながら少女に言った。


「私は鏡の中では少女であり、鏡の外では兎だ。鏡の中の世界には私の他に生き物がほとんどいない。現実と違ってどこかが壊れていることもあるが、いつも夜の内に直っている」

「お前、俺のナップサックの中に入っていただろ。いつの間に出てたんだよ」

「鏡の内と外では私の像は若干ずれる。体のサイズがそもそも違うから仕方ないだろ。こっちの世界じゃそんな小さい袋の中に私はいない」


 納豆丸をナップサックに入れていたつもりが、後ろから歩いて着いてきていたのだろうかと鏡也は認識した。


「ピンクの大蛇はなんだ?」

「そんなのがいたのか……私が知るわけないだろ。その大蛇に聞け」

「男がいたんだが。あと女が消えた」

「だから、本人に聞け」


 納豆丸もほとんど何も知らないことを鏡也は今、知った。


「役に立たねえ奴だな」

「待て、男か……ジジイならさっきいたぞ」


 納豆丸は階段を駆け上がる。鏡也も後ろから着いていった。

 五階ではタイル張りの部屋が廊下越しに並ぶ。料理教室を初めとする習い事の教室が開かれていた。その廊下を二人が走っていくと、曲がり角の奥でコート姿の男性が背を向けていた。


「あ、あいつ、さっき一階にいた奴だぞ」


 マフラーとニット帽は取り払われている。頭の薄くなり具合に鏡也はどこか見覚えがあった。


「てめえ、料理教室の爺さんだろ」


 男性は振り返る。立派な白髭を蓄えた老人は、見紛うことなき同級生だった。

 長身の彼は筋肉質の腕で連続殺人犯の男を締め、吊るし上げていた。男は白目を剥いて口から泡を吹き出している。


「ああ、お前は……」


 爺さんは悲しそうに鏡也を見てきた。顔の皺が深くなり、白い髭が垂れ下がる。鏡也は察した。爺さんへ気軽に声を掛けられなさそうな状況である。

 納豆丸は鏡也と爺さんの間に仁王立ち、爺さんとの距離を見計らっているようだった。


「鏡也、あいつは危険だよ。何か良くない香りがしている」


 彼はコートの懐から手錠と縄を取り出し、男を拘束していった。


「爺さん、どういうことだよ……」

「若造、お前が首を突っ込んでいい話ではないが、邪神を連れているならそうも言っておれんな。いいだろう、説明しよう」


 爺さんは渋茶色のコートの胸ポケットから葉巻を取り出して口に挟み、ライターで火を付けた。


「鏡の中に別世界を夢見たことはないか」


 爺さんが重いため息をつくように紫煙を吐いた。


「鏡の中にはもう一つ世界があるのだ。それを認識できるものは、その世界を鏡界と呼んでいる。生物もいる。それが鏡獣だ。全ての鏡獣は、ある一人の邪神が作り出した」

「それがワンピースのお嬢さんだよ」


 背後の方から声が聞こえ、二人は振り返る。そこにもコートを羽織った爺さんが佇んでいた。


「双子か……」

「いや、違う。これは儂の能力、分子分身モレキュラレプリカだ。鏡に自分の姿を映すことで、分子レベルで同一のもう一人の自分を作り出すことができる」

「能力……?」


 爺さんは靴音を響かせながら二人の横を歩いていくと、元居た爺さんに触れた。すると像が焦点を結んで一つになるように、爺さんの身体がスライドし、もう一人の爺さんと重なった。


「鏡獣と契りを結んだものは、このように不思議な力を使え、鏡界を認識し出入りできるようにもなる。だが、その力を悪用する者たちもいるのだ」


 彼は縄でがんじがらめに縛られた男を指差した。


「この男の能力は幻想転送ミラージュトランスレーション。鏡に映しこんだ人間を鏡界の中に取り込むことができる……男から一定距離離れると現実世界に戻されるという制限付きでな。コイツはこれを使い、何人もの女を殺害してきた。この能力さえなかったらただのひ弱な悪人だったのに……哀れな奴だ」

爺さんは感情の薄い冷徹な瞳で男を睨みつけていた。殺気とも呼べそうな冷たい気配が鏡也の肌をチリチリと焼き、鳥肌を立たせた。

「その男はどうするんだ?」

「能力者たちの集い、鏡界協会の裁判にかける。こいつの鏡獣もまた同じくだ。調子はどうだ、亀蔵よ」


 爺さんは窓に向かって話しかけた。すると、窓の光の透過がなくなってガラスのようになり、枠いっぱいに黒い大きな目玉が映った。異様さに鏡也は思わず体を引いた。


「クワックワッ、もう制圧した。意外と小さいピンクの蛇じゃったよ。この前戦った大鯰は奴の三倍はあったでな」


 窓ガラスから声が聞こえてきた。目玉が窓のサイズだとすると、全体はどれほどの大きさなのか、鏡也は皆目見当も付かなかった。


「鏡獣たちは鏡界内でも鏡の中を自由に移動できる。最初の内は驚くかもしれんな。とにかく鏡獣は危険な存在なのだ。そして、それを生み出す邪神もまたしかり」


 爺さんは短くなった葉巻を捨てると、靴で潰して火を消す。顔を上げて鏡也を睨んだ。


「そのお嬢さんをこちらに引き渡してもらおう。もっともお前さんが了解してくれるかは非常に怪しいがね」

「……納豆丸をどうする気なんだ」

「そいつも裁判にかける」


 爺さんは渋い声でそう言った。途端に彼の顔の陰影が増す。裁判という言葉に限りなく怪しい響きを鏡也は感じた。


「そんな怪しい団体に納豆丸は渡せない。話はそれで終わりか」

「ああ、戦うには十分な情報だろう」


 爺さんはコートを脱ぎ捨てていく。下には何も着ていないようで、たくましい上腕二頭筋、固い大胸筋、割れた腹筋が露わになった。


「その少女、守りたかったら、儂を倒してみろ。言っておくが手加減はしないぞ。儂の名は、安西加助。鏡獣、亀蔵との契約者なり」


 爺さんは革靴を脱ぐと裸足になった。ズボンも脱ぎ、白い道着を履いていった。


「納豆丸、逃げるぞ」


 鏡也は彼女の手を引くと、階段の方へ向けて走って行った。


「それでいい。あがくのだ」


 爺さんは厳かな声でそう言った。




 鏡也は廊下を駆けながら、納豆丸に問いかけた。


「お前、本当に邪神なのか……」

「よく分からない。いきなりあんなことを言われるなんて……。けど一つだけは確かだ。私は鏡也と一緒にいたい。もう一人の夜は嫌だ。ペットと言うものでもいいから、私をそばに置いてくれ鏡也」


 納豆丸は目を赤くしていた。もともと彼女の目は赤いはずだが、その赤みが強くなっているのだ。

 鏡也の胸裏に納豆丸との思い出が駆け巡っていく。たった一日しかなかったが、しばらく体験していないほど充実していた時間だった。特に誰かと食う飯は久しぶりだった。今、鏡也は自分と納豆丸との仲を繋ぐ絆は納豆の糸よりも粘り強いと確信していた。


「まあ、なんとかなるか」


 鏡也は納豆丸に笑いかけた。疑問も不安も数え切れず二人の前に積み上がっているが、手に手を取り合えば、超えて行ける気がした。

 納豆丸は鏡也ののんきな声を聞き、鼻で笑い返した。


「ふっ、卑小な人間め。『なんとかなる』のではなく、『なんとかする』のだ。世界の具象に働きかけようとする意志が、何ものにも負けない強い力に変わる」


 いつも通りの尊大な口調で納豆丸は言い切った。


「納豆丸、その、爺さんが言っていたような契約はお前とでもできるのか……」


 納豆丸はしばらく頭を捻っていたが、しばらくして思い至ったように顔を上げた。


「分からない。けどきっと、できるかできないかじゃなくて、するかしないかだ。鏡也、顔を下げて」


 鏡也は言われたように、首を曲げた。

 納豆丸は両手で顔を持つと、目を覗き込んできた。


「鏡也と、もっとずっと一緒にいたいって気持ちを込めるよ」


 納豆丸は鏡也のおでこにそっと口付けをした。

 途端に鏡也の身体が光り出した。ものの一秒淡い光に包まれていたかと思うと、すぐに元に戻った。

 鏡也の両手には一冊のスケッチブックと一本のボールペンが握られていた。

 鏡也がスケッチブックを開ける。始めの一ページに黒文字ですでに説明が書かれていた。


疑似偽字フェイクレター

 紙に書いた鏡文字を鏡に映すことで、その物体を具現化します。具現化したものはそう見えるだけであくまで紙なので、濡れる、燃える、破れるなどした場合、元の紙に戻ります。


「これが、能力って奴か」


 とにかくまずは鏡を見つけなければいけない、と鏡也は思った。

 爺さんと戦うのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ