兎が家に居つきました
翌朝、鏡也は珍しく早起きして朝食の支度をした。昨夜に買っておいた具材で味噌汁を作り、料理教室で習った卵焼きも焼いてみた。納豆丸は暇を持て余しているようで、机の上に新聞を広げて読んでいた。
「鏡也、『婦女暴行』ってなんだ?」
「ん……朝から重たいワードは止めろよ。女を殴ったり蹴ったりすることだよ」
「そうか、重たいのか。では、『蛇年』とはなんだ」
「干支だよ」
「干支ってなんだ?」
「飯ができた。食うぞ」
鏡也は納豆丸をどかして新聞を畳むと、机の上に朝ごはんを並べ始めた。今日の主役の納豆は真ん中に置く。つまみ食いしようとする納豆丸を牽制しながらご飯をよそった。
「鏡也、この四角い炭はなんだ」
「卵焼きだ……失敗した。またおばちゃんに教わらねえとだよ」
「ほう、いつか成功したら、鏡也の卵焼きも味わいたい」
「どうかなあ。俺は最初に自分の好きな奴に食ってほしいからな……兎に食わせないかもしれないぜ」
「なるべく早く食わせろよ。昼夜弛まぬ努力を推奨する」
鏡也は椅子に座ると納豆のパックを一つ開けて調味料をかけ、混ぜていった。
「納豆はよくかき混ぜたほうが旨いらしい。その方が栄養価も高くなるって聞くぞ」
納豆丸は次第に糸を引いていく納豆を不思議そうに見つめていた。
頃合いを見て、鏡也は粒の立ったあつあつのご飯にそれをかけていく。箸で見た目を整えると前に押し出した。
「納豆ご飯の完成だ。味噌汁と一緒に食べると更においしい」
納豆丸はうずうずと白い身体を揺らしていたが、じっと我慢していた。催したのかとも思い、鏡也はいぶかしげに納豆丸に聞いた。
「どうした、食べないのか?」
「……できたら鏡也と一緒に『いただきます』をしたいんだ」
小さくそう呟くと、納豆丸はくしゅんとくしゃみをし、いそいそと両手で顔をごしごしと擦った。そして、
「ふはははは、お前と一緒に飯を食ってやろうという私の寛大な精神の顕現だよ。馬鹿め」
と叫んだ。鏡也はびっくりして箸を落としそうになった。
「納豆丸、お前、情緒不安定なんじゃないか。まあ、確かに一人よりたくさんで食う飯の方が旨いってのはあるな」
結局、鏡也も飯をよそい、一人と一匹で手を合わせ、食前の挨拶をし、朝ごはんを食べ始めた。
納豆丸はご飯を少しかじると、「ぼちぼちだな」と呟き、納豆ご飯の上の納豆部分だけを剥がして食べていた。「ぼちぼちなら全部食えよ」と鏡也が言うと、「私は旨いものしか食べない主義だ」と納豆丸は相変わらず尊大に返した。
次は別の納豆料理でも作って満足させてやろうと鏡也は思った。
誰かと食べる飯は思いの他旨かった。
飯を食べ終えると、鏡也はパジャマから緑のチェックのフードパーカーに着替えて出かける支度をし始めた。納豆丸はふかふかの毛並のお腹を上にしてソファーの上でごろごろしている。今は翼が生えていない。どういう仕組みか分からないが、かたつむりの目のように出し入れできるらしい。
「どこに行くんだ」
「料理教室だよ。今日は茶碗蒸しを作るって聞いたなあ」
「私も連れていけ」
納豆丸はうさパンチでソファーを叩き、要求する。
「羽の生えた兎なんかと一緒に歩いていたら、俺が通報されるぞ」
「一日中家で留守番は嫌だ」
納豆でも人質にして断ろうかと鏡也は考えたが、そもそも納豆丸を部屋に残していく危険性に気が付いた。納豆丸は知恵を持っているので、部屋から好き勝手出入りでき、住人に見つかってしまうかもしれな
いのだ。大家に通報される事態が一番怖い。
しかも、下手に断ると、納豆丸は機嫌を損ね、部屋に糞尿を撒き散らす可能性もある。それこそ最悪だった。兎の糞尿が意外と臭いことは昨日の始末で体験済みである。
仕方なく、鏡也は使い古しのナップサックに納豆丸を詰めて料理教室へと向かった。
料理教室は市の生涯学習センターの五階で開かれている。鏡也は大きな窓が連なるセンターの外壁を見やり、維持費がかかりそうだと思いつつ、自動ドアから中へと入っていった。
白いタイル張りの玄関ホールにはまばらに人がいた。携帯を手にして喋る女学生や、パソコンを開いてソファーに座る会社員、受付嬢。編み帽子を目深にかぶり、マフラーとコートを着込む男性が柱の陰に立っている。鏡也はぼんやりと彼らを見ながら、エレベーターへと足を急がせた。
その時、ナップサックの中の納豆丸が動き出した。
「鏡也、鏡也。気配がする」
「そりゃ人の気配はするだろうよ。たくさんいるからな。それより、不注意に喋るなよ。誰かに聞かれたらどうすんだ」
「違うってば。ここから出して」
納豆丸はうさパンチで袋を中から叩くので、ナップサックが歪に変容した。鏡也は振り返ってそれを確
認し、額から冷や汗が滲み出た。
「おいこら、落ち着け、後で納豆買ってやるから。ナップサックが一人でに動いてたら気持ち悪いだろが」
エレベーターが到着した合図の電子音が鳴り、ドアが両側に開く。人に見られない内に乗り込んでしまおうと鏡也は一歩前に踏みこんだ。エレベーターの後面に張られた姿見に移る自分を視界に入れ。
次の瞬間、エレベーターの中から外へと歩み出していた。
「あ?」
背後でエレベーターが閉まっていく音がする。突然の出来事に頭はフリーズし、働かなくなった。確かに自分はエレベーターの中へと入っていったはずなのに、外に出ている道理が分からない。
もう一つ気付いたことは、ナップサックが異様に軽くなっていたことだった。鏡也が慌ててチャックを開けると、中に納豆丸の姿はなかった。
「どこに行きやがった、あいつ……」
その時、前方で女性の悲鳴が上がった。鏡也が顔を上げると、ホールの中ほどに立っていた女学生が、男に拘束されてナイフを突き付けられていた。
「おとなしくしろ、殺すぞ」
男は青いジャージを上下に着ていた。頬骨が張っていて、顔は青白く痩せこけ、目の下には隈が広がっていた。特徴的な顔立ちに鏡也は見覚えがあった。
「昨日のニュースの連続殺人犯……」
婦女子七人を暴行の上、殺害し、全国的に指名手配されている男だった。鏡也はそれに気が付くと、腰が抜けそうになった。
男は首に回した左手で女学生の顎を持ち上げ、顔を値踏みするように見つめていた。殺人犯には似つかわしくなく、やけに落ち着いている。白昼堂々と人を襲う辺り、精神がいかれているのかもしれないと鏡也は思った。男はまさに傍若無人に振る舞っているのだ。
幸い、男は鏡也に気が付いていないようだった。
「よし、こっちに来い」
男は泣きじゃくる女学生をカウンターの陰へと引きずっていく。男の意図するところを直感し、鏡也は背筋を震わせた。
ホールにちらほらと見えた人影はすっかりいなくなっていた。女性の悲鳴を聞き、皆逃げてしまったのかもしれない。
今、女学生を助けられるのは自分しかいないと鏡也は思った。確かに怖い気持ちはあるが、それ以上に目の前で女学生がどうにかされてしまうことの方が怖かった。
「……クソッ、やってやる!」
無我夢中の無策で鏡也は大股で駆け出した。男は女学生を引きずるのに一心なようであった。鏡也が七歩走ったところでようやく振り返る。しかし、男は一瞬、呆気に取られたように鏡也の顔を見つめて、
「なんで人がいるんだ」
と呟いただけで防御姿勢さえ取らなかった。
鏡也は最後、小さく足を踏み込み力を溜め、スピードの乗った拳で男の顔を殴り付けた。固い頬骨の感触が拳に伝わる。男はあっさり床に倒れ、ナイフが宙を舞っていった。
「へ……あれ」
凶悪犯にしてはあまりに弱く、鏡也自身驚きを隠せなかった。
女学生は目元を袖で押さえつつ、自動ドアから外へと逃げていった。彼女の姿はドアの外に出た瞬間、あとかたもなく消えてしまった。
「何がどうなってんだ……」
すると、青ジャージの男は起き上り、よろめきながら階段の方へと走っていった。
「おい、待てこら」
階段を上る男の後を鏡也は慌てて追った。




