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兎は草食動物です

「ふふふ、卑小なる人間よ。ようやく私に供物を差し出す気になったか。最初から抵抗せねばよいものを」


 兎は器用に前足でパックを抑え、口でシールを剥がしていった。鏡也は唖然としてその光景を見下ろしていた。兎は卵の一つを取り出すと前足でころころと転がし始めた。


「時に人間、これはどう食えばいいんだ?」

「……や、焼いたり、ゆでたり、あとは生で食うかな?」

「ふむ。生で食うには殻が邪魔だな」


 鏡也は自分でも間抜けだと思うくらい真面目に会話してしまった。兎が喋っている状況が異常過ぎて頭が追い付いていかない。

 兎は納得したのか、卵を前足で挟んで床に叩きつけ始めた。黄身と白身が殻から漏れ出して地面に広がっていく。兎は卵を脇に捨てると、その流動体に口を付け、ずずっとすすり、


「……まずい」

 と言って顔をごしごしと擦り始めた。


「ああ、そりゃ、お前、草食動物だもんな……」

「もっと別のものをよこせ」


 そう言うと、今度は袋の中から納豆のパックを取り出した。前足と口を器用に使い包装を破いていく。

 そこに至り、鏡也はようやく気が付いた。現在、自分の食糧が次々と兎に駄目にされている。


「くっさ」


 兎は蓋を開けて開口一番にそう呟いたが、しばらく匂いを嗅ぐとにちゃにちゃと納豆を食い始めた。小さい赤い舌が糸を引いていく。


「くせはあるが意外とうまいな」


 腹が減っていたのだろうか、兎はパックに顔を突っ込み一心不乱に納豆を食っていく。食べ終わると次の蓋を開け、また貪り、とうとう鏡也が買った分の納豆を全て食べ尽くしてしまった。


「これはなんという名前の食べ物だ?」

「……納豆って言うんだ」

「気に入った。納豆をもっとよこせ」


 兎は納豆だらけの手で鏡也のスニーカーをぺたぺたと触って催促した。

 家に帰れば納豆はあるが、手元にはもうない。それを知ったら何をしてくるかまったく想像がつかず、鏡也は急に恐ろしくなった。地面に転がるビニール袋を拾い上げると、慌てて駆け、階段を駆け上っていった。


「逃がさないぞ」


 兎の声が背後から聞こえてきて、鏡也は振り返った。なんと兎は黒い翼を背から生やし、素早く滑空して鏡也の後を追ってきていた。

 詰まるところ、あいつは兎ではなかったようだ。


「くっそ。お前なんなんだよ!」


 ドアの鍵を開けている間、兎は背後でずっとホバリングしており、ドアを開けて部屋に入った途端、体をすべり込ませて侵入してきた。

 両手を膝に付いて息を切る鏡也の後頭部に、兎は着地し、甘い声で言った。


「お前の巣は汚いな。納豆と同じ匂いがする」


 鏡也は兎の首の後ろの皮がだぶだぶのところを持って頭から引き剥がした。


「巣じゃねえ、家だ」

「そんなことはどうでもいい。納豆をよこせ」


 兎は両手をぷらぷら宙に泳がせて納豆を混ぜるジェスチャーをした。


「さっきからなんで命令口調なんだよ、頼み方ってもんがあるだろ」

「お願い、納豆をちょうだいご主人さまぁ――と小首を傾げて言って欲しいのか卑小な人間め。お前など黙って命令を聞いていればいいのだ」

「馬鹿にしてんのか……聞く義理なんざねえんだが」

「それならこうしてやる。ちょうど腹に食い物を入れ、腸の活動が活発になってきたところだ」

 兎は目を閉じ、プルプルと震え出した。鏡也はその動作に見覚えがあった。散歩中の犬がよくやっている。兎のしようとしていることを察し、背中に冷や汗が噴き出てきた。

「てめえ、ウ○コする気か!」

「ん、んふ、出る……」


 鏡也は慌てて兎をぶら下げたまま風呂場に急いだ。


「わ、分かった納豆をやるから今すぐ尻の括約筋を閉めろっ閉めろっ……つかもうどうか排便しないでください土下座してお願いしますからっ、うわっもう出てる」


 その後、鏡也は涙目で下の処理をし、ついでに浴室で兎の身体を洗うことにした。土埃のついた身体で室内を歩き回られては、たとえ納豆臭い部屋だとしてもいい気分はしないからだ。

 一畳に満たないピンクのタイル張りの浴室は、兎と自分が入るだけで随分狭く感じられた。


「ああ、気持ちいい」


 お湯を張った安いプラスチックの桶の中に兎は目を細めて浮かんでいる。鏡也は全身の毛をスポンジで擦ってやった。ずいぶん汚れていたのか、泡はすぐ茶色に染まりその度にシャワーをかけて洗い流してやる。


「もっと背中も掻いてほしい」

「はいはい、兎ならお湯とか嫌いそうなんだが、その辺はどうなんだ?」

「そういうものなのか? 特には問題ないな。むしろ擦られて良い気分だ」


 そういうものなのか、と逆に頭に疑問符を浮かべながら鏡也は兎の翼も擦ってやった。黒い羽は鳥ではなく、蝙蝠に似ていた。一枚の薄い膜に細い骨が幾本か走っているようだ。

 そもそもこの生物は兎ではない、と鏡也は思い直した。兎ならこんな変な翼を持つはずがないし、そもそも喋れないだろう。


「とりあえず、お前を兎と呼ぶのは間違っているよな。お前、何者なんだよ」

「分からない。何も思い出せないんだ。気が付いたらお前の階段の下で飢え死にしかかっていたのだ……」

 兎は赤い瞳で鏡也を見上げて不思議そうに言った。


「確かに、お前の言うとおりだ。私は何者なんだ?」


 鏡也は耳を丹念に洗い流しながら困ったように眉を下げた。


「俺が知るかよ。とにかく名前が欲しいな。名前は重要なアイデンティティだからな」

「名前か……お前の名前はなんだ?」

「俺は右左鏡也うさきょうやって言うんだ」


 兎は瞬きを数度繰り返し、鏡也の名前を反芻していた。


「鏡也、鏡也……なかなか良い。なぜか魅かれる。鏡也、私にも名前をくれ」


 鏡也は顔をしかめて、兎の尻を洗った。


「名前……俺が付けるとまるでペットみたいだぞ」

「ペットってなんなんだ……よく分からない」

「説明すると面倒だからまた今度な。お前はペットじゃない。俺に体を洗われて納豆を食って帰る。それでおしまいだ。その間の名前でいいなら付けてやるぜ」


 名は体を表すと言う。目の前の兎にぴったりの名前がないものか、としばし考えた後、鏡也は口を開いた。


「納豆丸でどうだ。お前の好物が納豆だし、さっきお前が尻から出していたものも納豆っぽい形状をしていた」


 兎は鏡也の腕を前足で軽く、うさパンチした。


「後者は余計だが、前者はとても気に入った。それで呼ばれてやろう」

「なんでお前はそんなに尊大なんだよ、納豆丸」


 名前を付けると妙な愛着が湧き、鏡也は思わず笑ってしまった。そしてその後、慌てて情を移してはいけないと思い直した。アパートではペットを飼うことはできない。

 洗い終えると、鏡也は納豆丸を丹念にタオルで拭いてドライヤーで乾かしてやった。納豆丸は見違えるように清潔になった。白い獣毛は空気を含み、もこもこと膨らんでいる。形の良い耳の中はきれいなピンク色をしているし、つぶらな瞳は鮮やかな赤色をしている。

 鏡也は納豆丸をソファーの上に落ち着けると、冷蔵庫からあるだけの納豆と牛乳を取り出した。納豆を皿へ全て盛り、牛乳をコップに注ぐとお盆に乗せて居間まで持っていく。


「ほら、食え。食ったら帰れよ」


 皿を置くと、納豆丸は納豆の中に顔をうずめた。


「……やはりこれはまずいようでうまい食い物だ。風呂上りの納豆はたまらん」

「変わった奴だぜ。俺は牛乳の方がいいね」


 鏡也はテレビのスイッチを付けると、ソファーに腰をうずめて牛乳を飲み出した。ちょうど地方放送のニュースがやっており、連続殺人が隣町で起きているとキャスターが喋っていた。頬骨の張った、ほくろのある犯人の似顔絵が貼り出されていた。


「近所じゃねえか……まったく物騒だね」


 鏡也はチャンネルを次々に変えていき、結局、全国の天気予報番組に落ちついた。緑豊かな山村の映像と優雅な音楽でなかなかリラックスできる。

 しばらくすると、納豆を食い終わった納豆丸が鏡也のところまで這ってきた。ピスピスと鼻を鳴らして鏡也の手に擦り付けてくる。


「他に納豆ないの?」

「もう品切れだ。食ったから帰れよ」


 鏡也は気だるげに玄関を指差した。


「ふふ、確かにそう契りはしたが、鏡也が寂しいと言うなら特別に私は泊まってやろうじゃないか」

「帰れ」 


 鏡也はあくまで冷たくあしらった。別れ際が肝心だと思った。ここで情を見せてしまってはずるずるとこの得体の知れない生物を飼うところまで引きずられかねない。

 兎は自分の前足を鏡也の手に添えて、身体をすり寄せてきた。


「鏡也、怒っているのか……お願い、一晩でいいから泊めて」


 鏡也が無視をしていると、兎は諦めたように肩を竦め、玄関の方にゆらゆら飛んで行った。


「私に帰る場所なんてないんだ」


 恨めしそうな声で納豆丸はそう言った。

 ふと天気予報が鏡也の住む地域になり、夜の雨は引き続いて降るでしょうと予報していた。そこでようやく外から雨音が聞こえていることに鏡也は気が付いた。カーテンを開けると、外には大粒の雨が降っていた。

 このままでは納豆丸は雨に濡れて一夜を過ごす羽目になるだろう。

 もしかしたら、風邪を引き、そのまま野垂れ死ぬかもしれない。

 所詮、鏡也の知ったことではないはずだ。納豆丸は卵を潰し、納豆を食い漁り、部屋に糞をして、鏡也に害は与えたものの、益はまったく与えていないはずだ。それなのに、納豆丸が外で震える様子を想像すると、鏡也は堪らなく胸がしくしくと鳴いた。


「さよなら、鏡也」


 納豆丸は今まさにドアノブを回して外へ出ようとしていた。

 わざわざ不幸な別れをする必要もないだろう。納豆丸と別れる時が来ても、それによって一方が不幸にならなくてもよいだろう。そう鏡也は思った。

 だから、鏡也は知らず知らずの内に、納豆丸へと呼びかけていた。


「あ、忘れてたわ……納豆は朝飯にかけて食うのが一番旨いんだよ。要はてめえの食い方は邪道なんだわ、納豆丸。てめえの食い方は納豆の本気の一割も引き出せてねえ」

「あ? なんだと」


 少し怒ったような納豆丸の声が聞こえてきた。


「私の食い方が邪道だと? 聞き捨てならんな。どうしてもそれだけは味わわねば気が済まない」

「今食ったってしょうがねえよ。朝にご飯と一緒に食わねえと納豆ご飯じゃねえんだからな。まったく久しぶりに米を炊いて、また納豆を買ってこねえとだよ」


 鏡也はソファーから立ち上がり、財布をポケットに入れ、ウィンドブレーカーを着こみ始めた。

 納豆丸は鏡也の周りを飛び回りながら言った。


「いいだろう、青二才。私が直々にその納豆ご飯とやらを賞味してやろう。まずかったら承知しないからな」

「極上の納豆を食わせてやるよ。お前こそびっくりして脱糞するなよ」


 鏡也も納豆丸を睨みつけ笑い返した。


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