第9章 もう一度四人で
最初に動いたのはダンさんだった。
「馬を出す。ベルナの組合と、東のミラ村に知らせを飛ばす」
「ベルナからの応援はどれだけ急いでも明日の昼になります」
カティアが地図を指で押さえた。宿場からベルナまでは俺たちが丸一日歩いた道だ。馬を飛ばしても片道で半日、組合が人を集めて戻るのにまた半日はかかる。
「群れは今日中に来ますか」
宿の主人が聞いた。カティアはフィオナを見た。
「掘り跡の進み方からすると、今夜か、明日の朝です。日が落ちて冷えてくると、動きが早くなることもあります」
「じゃあ、今日中に来ると思って動こう。来なければ、それでいい」
カティアは腰の剣に手を置いたまま集まった人たちをぐるりと見た。
「まず動ける人は全員東のミラ村へ逃げる。荷車には人を先に乗せて、荷物は余った場所に。山羊も連れていける分だけ。ここに残るのは今動かせない人と、その人を守るのに必要な人数だけ」
今動かせない人。カティアがそう言ったのは、宿の主人の奥さんが青い顔で伝えに来た知らせのせいだった。ダンさんの奥さんは今朝から産気づいていて、今は宿の奥で横になっている。産婆を務めるのは宿の主人の母親で、この人は足が悪く、ミラ村まで歩き通すことはできない。
「揺れる荷車に半日乗せたら、母子ともに危ないそうです。生まれて、落ち着くまでは動かせません」
「産婆さんは」
「私が残ります。あの子を取り上げるのは私の仕事です」
宿の戸口から杖をついた老婆の声が返ってきた。
「飼料はどうする。あれがなくなったら、冬を越せない」
誰かが言った。カティアは首を振った。
「全部は運べない。あの数の群れが来たら、飼料庫は守りきれない。守るのは、人と、人が逃げる道。それだけ」
一瞬人の輪が静かになった。ダンさんが大きく息を吐いた。
「……分かった。その通りだ。おい、荷車を出せ。年寄りと子どもを先に乗せろ。リタ、お前も乗れ」
「嫌。母さんがいるのに」
「だから乗れ。母さんのことは任せろ」
人の輪がばらばらと崩れてそれぞれの家へ走っていった。
俺はその場に立ったままだった。
カティアの声は農場で見張りを割り振った時と同じくらい落ち着いていた。でも丘の上で見た、血の気の引いた顔を俺は知っている。震えているのを隠しているのか、それとも震えたまま決めているのか。どっちにしても俺にはまだできないことだった。
「翔太。ぼんやりしてる暇ないよ」
「は、はい」
「石の小屋の中、見てくる。付いてきて」
*
囲いの中の石の小屋は、見た目どおり頑丈だった。
壁は俺の腕の長さほどの厚さがあり、窓は人の頭が通らないほど小さい。もともとは冬の間に山羊を入れる小屋で、奥の壁には干し草の棚が並んでいた。扉は一枚だけで、囲いの内側、西を向いている。分厚い木の扉で内側から太い閂がかかる。
「ここに動かせない人を入れる。宿より壁が厚いし、逃げ道にも近い。扉を閉めれば小さい猪なら入ってこられない」
「大きいのが来たら?」
俺が聞くとカティアは扉の木目を指でなぞった。
「来たら、壁は持つ。扉は分からない。だから、大きいのをここまで来させないのが仕事」
小屋の扉から石塀に沿って数歩東へ歩くと、囲いの石塀の東の端に小さな裏門があった。人がかがんで通れるくらいの木の門で、外側に閂がある。その外には石塀に沿って細い道が宿場の東の端まで続き、街道に出られる。
「扉を出て、この裏門を抜けて、東の道へ。中の人が最後に逃げる道はこれだけ。産婆さんと奥さんはここを板に乗せて運ぶ。街道まで出れば、ミラ村までは遠くても、猪からは離れられる」
「ここが塞がれたら」
「閉じ込められる」
カティアは裏門から外を覗いて、それから囲いの西側に目を戻した。山羊を追い込む細い通路と、横に振る門。宿場に着いた日の夕方リタが山羊の向きを変えていた場所だ。
「群れは西から来る。放牧地の端を通って飼料の匂いでこっちへ寄ってくる。大半は囲いの外を通り抜けてくれればいい。寄ってきたやつだけ、あの通路の出口で押し返す」
「押し返すって、全部カティアさんが?」
「倒すんじゃない。通さないだけ。小さいのが通路から中へ入ろうとしたら、盾で押し戻す。大きいのが来たら、私一人じゃ止められない。足を止めて、逸らして、中の人が裏門から出る時間を稼ぐ。それが私の仕事」
丘の上で「無理」と言った人の声だった。でもその「無理」をどう扱うかを、この人はもう決めていた。
*
午後はあっという間に過ぎた。
動ける人たちは荷車に乗り、山羊を連れて東へ出ていった。最後の荷車に乗る前にリタが俺の袖を引いた。
「お兄さん。門、教えてあげる」
リタは通路の出口の門の前で閂を外して見せた。
「山羊が来てからじゃ遅いの。来る前に閂を外して、手を添えておく。振る時は、押さないで引くの。こっち側に立って、自分のほうへ。押すと門が戻ってきて、顔にぶつかるから」
言われた通りにやってみた。門は思ったより軽く、引くと通路の出口を斜めにふさいで止まった。もう一度戻す。もう一度引く。三度目でリタがうなずいた。
「それでいい。父さんに見せてね」
リタは父親に抱き上げられて荷車に乗り、宿場が見えなくなるまでこちらを見ていた。
ダンさんの奥さんと産婆の老婆は、日が高いうちに板に乗せて宿から小屋へ運んだ。残ったのはその二人と、世話をする宿の主人夫婦。それから門を受け持つダンさんと、俺たち四人。
フィオナは囲いの西側の地面をしゃがみ込んで一つ一つ手で押していた。
「何してるんですか」
「地面を調べています。通路の出口の前、ここだけ土が柔らかいです。山羊が毎日踏むのに、下に古い水路の跡があるのかもしれません」
フィオナは手のひら二枚分ほどの範囲を示した。
「柔らかい土なら私の魔法で緩められます。大きなものが足を取られるくらいに。でも一度だけです。一度使ったら、固め直すのに時間がかかります」
「一度だけ」
「はい。だから、使うなら本当に必要な時だけ。カティアに決めてもらいます」
ノアは小屋の屋根に上がっていた。平らな石屋根の縁に腹ばいになって、西の放牧地をじっと見ている。
「ノア。見えるか」
「はい。放牧地の端まで見えます。霧が晴れているので、丘の手前まで。今は何も動いていません」
ノアは屋根の上から俺を見下ろした。
「マスター。私の役目は見張りと、短い報告です。見えたら、どこから、何頭か、大きいかどうか。それだけを言います」
「うん」
「朝のことがあったので、確かめる前に言います」
ノアはそう言ってまた西に目を戻した。
そして俺の持ち場は囲いの東の角だった。
小屋の扉と裏門の間、石塀が折れ曲がる角だ。角の石塀は上のほうが一か所崩れていて、昼のうちにダンさんと二人で落ちた石を積み直して塞いである。山羊なら越えられない高さだ。その石積みの後ろにしゃがめば体が隠れる。顔を西へ向けると、囲いの中が見渡せる。背中のすぐ後ろが裏門だ。
「ここで、小屋の扉と裏門を見てて。囲いの中を回り込んでくる小さいのがいたら、叫んで。こっちへ来たら、盾で止めて、裏門を出て外から閂をかける。小屋の扉は中で宿のご主人が閉める。一歩も前に出ないこと。倒そうとしないこと」
「……はい」
カティアは俺の顔を見て声を緩めた。
「がっかりした?」
「いえ」
「嘘」
図星だった。
通路の出口の脇で盾を構えて群れを待つカティアの隣。頭のどこかでそういう絵を描いていた。朝に膝が震えたのを、もう忘れているみたいに。
「翔太。この裏門が塞がれたら、中の人は逃げられない。それを見てる人間がいないと、私は通路の出口に立てない。あんたがここにいるから、私はあっちにいられる」
カティアは俺の盾の縁を拳でこつんと叩いた。
「農場の藁の山と同じ。あの時三頭目を見つけたのは誰だった?」
「……俺です」
「じゃあ、できる」
カティアは通路のほうへ歩いていった。背中はいつもと変わらなかった。でもその手が一度だけ剣の柄をぎゅっと握り直したのを、俺は見ていた。
一人になってから、俺は石積みの陰から裏門まで歩いてみた。四歩。しゃがんだ姿勢から立って、盾を構えたまま後ろへ四歩。門をかがんで抜けて、外から閂を落とす。三度やって、三度目は閂が一発で入った。小屋の扉も叩いて、宿の主人に「俺が叫んだら閂を」と頼んだ。主人は青い顔でうなずいた。
*
日が傾き始めた頃宿の主人が食べ物を運んできた。
小屋の壁際に三人で座って、冷めたパンと干し肉をかじった。ノアは屋根の上だ。長い間、誰もしゃべらなかった。食べている間だけは、何も考えなくてよかった。
「カティア。少し眠ってください。夜になったら、一番長く立つのはあなたです」
フィオナが言った。カティアは渋い顔をしたが、結局壁に背中を預けて目を閉じた。本当に眠っているのかどうかは分からなかった。
フィオナがパンを持って屋根に上がり、見張りを代わった。入れ替わりにノアが下りてきて俺の隣に座った。
俺は盾の紐を締め直していた。もう三度目だ。締めても締めても、緩んでいる気がする。
「マスター」
「ん」
「無事に帰ったら、ベルナで食べたいものがあります」
手が止まった。
「……今、そういう話?」
「はい。今です」
ノアは膝を抱えてまっすぐ前を見ていた。
「帰ったら、と言っておくと、帰らなければならなくなります。私は、帰るつもりです。マスターも帰るつもりでいてください」
言い返す言葉がなかった。
「……何が食べたいんだ」
「南門の外で食べた、串焼きです。もう一本食べたかったのに、一本しか買わなかったので」
「二本買ったじゃん」
「一本はマスターの分でした」
「あれは、俺がおごる。二本でも三本でも」
「では、二本でお願いします。三本は多いです」
こんな時なのに、ちゃんと笑えた。
「約束だ」
「はい。約束です」
ノアは上着のポケットの上に手を置いた。俺の上着だ。中の欠片のことを思い出して、俺はもう一度盾の紐を見下ろした。今度は、締め直さなかった。
*
西の空が赤くなった。
ノアはまた屋根に上がった。フィオナは通路の出口の近く、緩める地面のそばに膝をついている。カティアは通路の脇で盾を体の前に立てて立っていた。門の内側にはダンさんが立って、閂に手を添えている。宿の主人は小屋の中で、扉の閂に手をかけていた。
俺は東の角の石積みの陰にしゃがんで、小屋の扉と裏門の間を見ていた。
放牧地の向こうから低い音が聞こえ始めた。
最初は風だと思った。でも風は、こんなふうに地面を揺らさない。石塀に触れた手のひらに、かすかな震えが伝わってくる。
「西、放牧地の端。たくさん。大きいのは、まだ見えません」
屋根の上から、ノアの声が落ちてきた。短く、はっきりと。
夕日の中で放牧地の草が波のように揺れた。灰色の背中が次から次へと丘の陰から現れて、放牧地の端を北へ流れていく。囲いの前を横切るように、群れの大半が通り過ぎていった。カティアの言った通りだった。
息を止めて、俺はそれを見ていた。
そして、流れから外れた影が一つ、こちらへ鼻を向けた。
囲いの石塀に沿って、俺の持ち場のほうへ。
「東の角、一頭。小さいです。マスターのほうへ」
ノアの声が、今度はまっすぐ俺に向かって落ちてきた。
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