第10章 最初の一体
来た。
石塀の外側を灰色の背中がこちらへ寄ってくる。農場で見たのと同じくらいの大きさだ。俺の腰ほどの高さで、肩の板が夕日を鈍く跳ね返している。鼻を地面につけて、ふんふんと匂いを嗅ぎながら、石塀の切れ目を探すように歩いてくる。
叫べ。叫ぶのが仕事だ。
「東の角、一頭来てます!」
声は出た。裏返ったけど、出た。通路のほうから「見えてる! 下がって!」とカティアの声が返ってくる。
下がる。盾を構えたまま裏門まで四歩。
一歩目で目の前の石積みが鳴った。
猪が石塀の外から積み直した石に鼻先を突き込んでいた。昼に俺とダンさんで積んだ石だ。山羊には越えられない。でも猪は越えるんじゃなく、押した。がらがらと石が内側へ崩れ、灰色の体が崩れた石の上を踏んで、囲いの中へ滑り込んできた。
俺と裏門の間に。
足が止まった。裏門は猪の向こうだ。かがんで抜けるのに三つは数える。背中を見せてそこへ走れば、その三つの間、俺の背中はあいつの正面にある。
「翔太! 小屋へ!」
カティアの声。振り向けば小屋の扉は左手の十歩先。でも猪はもう崩れた石から降りて俺のほうへ一歩踏み出していた。扉はまだ閂がかかっていない。中には動けない二人がいる。俺が扉を開けて飛び込んで、閂を落とすまでの間に、あいつは十歩を詰めてくる。
駄目だ。
俺はその場に立った。盾を胸の前に立てて、半身になる。カティアが教えてくれた構えだ。手が震えているのが盾の縁の揺れで分かった。
猪が顔を上げた。小さな黒い目が、俺を見た。
「来る!」
屋根の上からノアの声が落ちてきたのと同時に、猪が地面を蹴った。
速い。農場で見た時より、ずっと速い。見ている側と、向かってこられる側では、同じ速さが別のものになる。
考える前に盾が前に出ていた。
どん、と左腕に衝撃が来た。腕ごと押し上げられて盾が顔の横まで跳ねる。骨の芯まで響くような痛みが肘から上へ走り、踏ん張った足が土の上を半歩滑って、背中が石塀にぶつかった。それでも、盾は手から離れなかった。
猪は盾に当たった勢いのまま俺の脇を抜けて囲いの奥へ走り込んでいった。土を跳ね上げながら、大きく弧を描いて向きを変えようとしている。
今だ。斬れ。
右手が剣の柄を握って半分抜きかけた。
「マスター。盾」
ノアの声は短かった。
はっとした。左腕は跳ね上げられたまま盾が顔の横にあった。胴が空いている。打った後は戻す。打っていなくても、戻す。
盾を胸の前へ引き戻した。
その瞬間向きを変えた猪がもう一度突っ込んできた。
二度目は、見えた。
正面から来る。真っすぐに。盾を斜めにして半歩だけ体をずらす。カティアがやっていた動きの、何十分の一も上手くはなかった。でも猪の肩の板は盾の表面を削るように滑って、灰色の体はまた俺の脇を抜けていった。その隙に右手で剣を抜き終えた。
左腕がしびれている。盾を持ち上げているだけで肘が勝手に下がろうとする。
猪が弧を描く。後ろ脚で土を掻きながら体を回す。
農場で見た、あの瞬間だった。
肩の板に守られていない脇腹が、俺の正面にさらされる。カティアが踏み込んだ、あの一瞬。
足が出ていた。
一歩。剣が届く距離。右手の剣を、脇腹へ振り下ろした。
手応えがあった。木剣が杭に当たる時とは全然違う、重くて、柔らかくて、嫌な手応え。甲高い悲鳴が上がった。
そして俺は、盾を戻した。
左腕が焼けるように痛んだ。それでも、盾は胸の前に戻った。訓練場で何十回も繰り返した、あの動きのままに。
猪が体をよじって俺のほうへ牙を向けた。でも、その牙は戻した盾の縁にぶつかって、横へ逸れた。
もう一歩踏み込んで、同じ脇腹へもう一度剣を叩き込んだ。
猪の脚が崩れた。
灰色の体が横倒しになって、土の上で二度、三度と脚を蹴った。それから動かなくなった。
*
息ができなかった。
いや、していた。でも、吸っても吸っても足りなかった。盾を構えたまま俺は倒れた猪を見下ろしていた。動かない。本当に動かない。
「翔太!」
カティアの声が近づいてきた。でも俺はまだ盾を下ろせなかった。
「もう動かないよ。盾、下ろしていい」
カティアが隣に来て俺の左腕に手を添えた。その手を借りてようやく盾が下がった。通路の出口は、ダンさんが見ているらしい。
「……倒せた」
「倒せた」
「倒そうとするなって、言われてたのに」
「小屋に走ってたら、扉の前で追いつかれてた。あの位置なら、立って正解。それと、打った後に盾が戻ってた。それで十分」
言われて初めて膝が震え始めた。倒す前じゃなくて、倒した後に。
「座って。少しだけ」
カティアに肩を押されて崩れた石積みの石に腰を下ろした。
左腕の袖をまくると、肘から上が赤黒く腫れていた。骨は折れていないらしい。指は動く。でも、触れると息が止まるくらい痛かった。
「打撲。今日のところは我慢。帰ったら冷やす」
カティアが短く言って通路のほうへ戻っていった。
屋根の上からノアの声が降ってきた。
「マスター。無事ですか」
「……無事。腕は痛い」
「見えていました」
ノアの声は、いつもの調子だった。でも次の言葉までに、一拍の間があった。
「盾、ちゃんと戻っていました」
「言ってくれたから」
「一度だけです。あとは、マスターが自分で」
俺は左腕を見下ろした。腫れた腕と、血のついた剣と、動かない灰色の体。
格好いい場面じゃなかった。石塀に背中をぶつけて、腕を腫らして、半分泣きそうな顔で剣を振っていた。誰が見ても格好よくはなかっただろう。
でも、倒した。俺の盾と、俺の剣で。
胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。それが笑いなのか何なのか分からないまま、俺は空に向かって大きく息を吐いた。
*
西の空はもう半分が暗くなっていた。
群れの大半は囲いの前を通り過ぎて放牧地の北へ流れていった。通路の出口ではカティアが小さいのを二頭、盾で押し返したという。フィオナの地面は、まだ使っていない。
俺は崩れた石に座ったまま盾の紐を右手で緩めていた。左腕はもう盾を支えられそうになかった。
「マスター」
屋根の上の声がさっきまでと違っていた。
「西、放牧地の端。大きいのが出てきました」
顔を上げた。
夕闇の中、放牧地の端に、ひとつだけ別の高さの影があった。周りの灰色の背中が小さく見える。丘の上から見た、あの一頭だ。
群れは北へ流れている。でも、そいつは違った。
群れの流れから外れて、鼻を上げた。風の中の匂いを嗅ぐように首をゆっくりと回す。そして、その鼻先が止まった。
飼料庫の方向だった。
「大きいの、群れから離れました。向きは、こちらです。囲いへ」
ノアの声が、はっきりと落ちてきた。
俺は裏門を見た。それから小屋の扉を見た。崩れた石積みと、その間に座っている自分の位置を確かめてから、右手で盾の紐をもう一度締め直した。
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