第5章 昔の誰かが見た海
奥側の床に出ると、背景板はまだ回っていた。
箱はノアとフィオナが抱えている。両手が要るから、二人とも灯りを持てない。フィオナの手提げの灯りは俺が持った。カティアが前。俺が後ろ。隙間が開くまで、ここで待つしかない。
「フィオナ。あの図面、もう一度見せて」
カティアが言った。
フィオナが組合で写してきた古い図面のことだ。先代が持ち帰った報告に付いていたという紙で、劇場の形が線で描いてある。二人は箱を床に下ろし、フィオナが鞄から紙を出した。ノアが灯りの下でそれを覗く。
「ここです」
ノアが紙の端を指した。奥側の床の左の壁から、客席の脇を通って入口の広間へ戻る細い廊下が描かれている。回る床を渡らなくても戻れる道だ。
「図面どおりなら、左の幕の裏に扉があります。待たずに戻れます」
「見てくる。翔太、灯り」
カティアと俺で左の幕の端をめくった。幕の裏は壁で、壁に木の扉があった。扉は開いていた。開いていたというより、枠ごと内側へ倒れていた。
その向こうに廊下はなかった。
天井が落ちている。石と土が廊下の幅いっぱいに詰まって、灯りを向けても奥が見えない。石の隙間から、細い根が垂れていた。
「駄目だ」
「駄目ね」
幕を戻して二人のところへ戻った。ノアが紙を見ていた。
「図面は図面。今の建物じゃない。それだけ」
カティアがあっさり言って、ノアはうなずいて紙をフィオナに返した。フィオナが紙を鞄にしまいながら言った。
「崩れたのは、たぶん屋根が落ちた時です。入口の広間の光と同じ割れ方でした。図面が描かれた時には、まだ通れたんだと思います」
「前の人たちの道ね。私たちは私たちの道で帰る」
それで終わった。ノアはもう背景板の隙間を見ていた。
*
待っている間に、それは始まった。
最初に気づいたのはフィオナだった。
「翔太。板の隙間。光が青い」
俺は灯りを下げて隙間を見た。背景板はさっきまで、絵の描いてある面を客席へ向けて回っていた。だから奥側の俺たちに見えるのは板の裏側だ。木の枠と布の裏の継ぎ目。
その隙間から、青い光が漏れていた。
屋根の割れ目の光じゃない。あれは白い。これは、稽古場で見た海の青だった。
隙間が俺たちの前を通り過ぎるたびに、青が一瞬だけこぼれて、消える。音がした。拍手じゃない。水の音だった。岸に寄せて引く、ゆっくりした波の音が、床の下の歯車の音に重なっている。
「記録だ」
言ったのは俺だった。
「客席から見た時にはなかった。回る床の上で何か映ってる」
「はい。今まで見ていなかったのではなく、今始まったのだと思います。音も、今からです」
ノアが隙間を目で追いながら言った。
隙間が開くたびに、少しずつ見えた。
板と板の間に、人が立っている。背中だ。長い髪を結い上げた女の人の背中が、青い光の中にある。その向こうに、海があった。本物の海じゃない。でも稽古場の布の波より、ずっと海だった。青い光の上に白い線が走って、消えて、また走る。波だ。その上に、丸い光がひとつ浮いていた。
月だった。
「……月」
フィオナの声がいつもより低かった。
隙間が閉じて、次の隙間が開く。女の人の背中は同じ場所にあって、手が上がっていた。海の上に、黒い影が浮いている。船だ。帆が一枚。月の光を背にして、ゆっくりと岸から離れていく。
女の人の手が船に向かって振られた。
隙間が閉じた。
「カティア。終わりまで見てもいいですか」
フィオナが言った。箱の脇に膝をついたままカティアを見上げている。
「次の停止は、どのくらい」
「縁の灯りはまだ半分以上残っています。しばらくは止まりません」
ノアが答えた。カティアはフィオナに目を戻した。
「じゃあ、止まるまでは見ていい。止まったら渡る。渡る時は見ない」
「はい」
フィオナは隙間に目を戻した。
俺も見た。女の人の背中と、月と、船。板が回るから、同じ場面を少しずつ違う角度から見ることになる。向こうの客席からなら、きっと正面から全部見える。でも俺たちは裏側だ。女の人の背中と彼女が見ている海を、彼女の後ろから見ている。
昔この舞台の裏で働いていた誰かも、こうやって見ていたんだろうか。
次の隙間で、別の人が見えた。女の人の隣に、男が立っている。腰に短い剣を差していた。男は船のほうを向いて、剣を抜いた。斬るためじゃない。刃を立てて、顔の前に持ってきて、それから下ろした。それだけだった。
「……今の」
カティアの声だった。
「今の、見た?剣。抜いて、立てて、下ろした」
「見ました」
「もう一回。次の隙間で、もう一回見える?」
「同じ場面なら、板が一周した時にまた見えると思います。止まるより前に一周します」
カティアは隙間の前から動かなかった。盾を構えたまま首だけが板の動きを追っている。
「カティアさん。見張りは」
「見てる。両方見てる」
嘘じゃなかった。カティアの目は確かに隙間と幕の上を往復していた。でも隙間に戻るのが早かった。
*
俺はふと柱のほうへ目をやった。
右の柱の根元の床に、青い光が落ちていた。
隙間からこぼれる光とは別だ。もっと高いところから、斜めに。見上げると、背景板の一番高いところ、海の絵の板の上の縁を越えて、月の光が奥側へ漏れていた。板の上を越えてくる光だ。それが右の柱の根元に、小さな丸を作っている。
丸い光は板が回るのに合わせて、ゆっくりと床の上を滑っていた。
「フィオナさん」
俺は声を落として呼んだ。
「柱の根元。床に月が落ちてる」
フィオナが振り向いて、俺の指した床を見た。
「……あ」
フィオナは膝をついたまま、箱から手を離して、柱のほうへ寄ってきた。俺の隣。灯りを床に置いて、両手を膝に置いて、床の上の丸い光を見た。
「板の上を越えてきてるんです。隙間じゃなくて」
「はい。隙間から見る月より、こっちのほうが月です」
フィオナは丸い光に手を伸ばして、触れる手前で止めた。光は手の甲の上に乗って、青白く揺れた。
「保管庫では、私が壁を見せました」
「水の底の」
「はい。今度は翔太が月を見せてくれました。呼んでくれて、うれしいです」
俺は返事ができなかった。フィオナは床の光を見ていて、俺の顔は見ていなかった。それでよかった。
ノアがいつの間にか俺の反対側にいた。
「私は、帆が光る瞬間を見ます」
「帆?」
「船が月の前を通る時、帆の布だけが一度白くなります。二周前に見ました。次も見ます」
ノアは隙間に目を戻した。自分で見る場所を決めて、動かなかった。
カティアは剣の場面を待っていて、フィオナは床の月を見ていて、ノアは帆を待っていた。俺は三人を順番に見て、もう一度床の月を見た。
四人で四つの違う物を見ていた。同じ場所で。
隙間の向こうで、船はさっきと同じ場所にいた。帆の向きも同じだった。男がもう一度剣を抜いた。立てて、下ろした。
「見た」
カティアが短く言った。それ以上は何も言わなかった。でも盾を持つ手がいつもより軽く見えた。
縁の灯りが、三つになった。
「フィオナ。箱」
「はい」
フィオナは床の月に一度だけ目をやって立ち上がった。
*
音が変わって、床が止まった。
渡った。十歩。箱を抱えた二人を真ん中に、前後を挟んで。客席の通路を上がる間、俺は後ろを振り返らなかった。後ろの隙間の向こうで、海はまだ鳴っていた。
入口の広間の左の小部屋に箱を置いた。棚の上。扉から見える場所に。ノアが蓋を指一本分開けて金具を確かめた。
「一台です」
四人で座った。
満員の客席の拍手が、閉めかけた扉の向こうで一度鳴った。ここまで来ると、もう誰も振り向かなかった。
小部屋の床は石で冷たかった。でも屋根の割れ目からの光が届いて、保管庫より明るい。扉を開けておけば客席へ続く扉まで見通せる。カティアは扉の脇に座って、そこを見ていた。
フィオナが鞄から干し肉とパンを出した。カティアが水袋を回した。しばらく誰もしゃべらなかった。腹が減っていたのだ。全員。
干し肉を噛みながら、カティアが一度だけ右手を動かした。刃を立てて、顔の前に持ってきて、下ろす。パンを持った手で。
「本当の剣でやるのとは違うね」
「違いますか」
「違う。でも、ああいう場面で剣を抜くっていうのは、悪くない」
カティアはそれ以上言わなかった。フィオナが口元に手をやって、干し肉を噛むふりをした。
パンを噛みながら、俺は自分の腕を見ていた。震えは止まっていた。
食べ終わってから盾を持ち上げた。腕を伸ばして、肩の高さで止める。十数えた。震えない。下ろして、もう一度上げた。二十数えた。
「何してるの」
「確かめてます。腕」
カティアが見ていた。
「それで」
「大丈夫です。さっきは棚を浮かせた後に震えた。今は震えない」
盾を下ろした。カティアはしばらく俺の腕を見てから客席の扉に目を戻した。
「言っておく。一台で帰る道もある」
カティアが言った。
「一台で規定の報酬。棚の作業は、持ち上げる人と支えを入れる人と引き出す人で三人。残り一人が見張り。作業中に幕這いが来たら全部置いて下がる。それができる体と時間があるかどうか。それが決めること」
誰も、すぐには答えなかった。
俺は、自分が何を言いたいのかを先に考えた。盾が欲しい。それは本当だ。でも今、頭の中にあるのは、床に落ちていた月と、二階の正面の四つの席だった。
「取りに行きたいです」
言った。
「盾のためです。それは隠しません。でもそれだけじゃなくて。あの海と月を、オルネさんの舞台で四人で見たい。二台ないと、月は出ない」
カティアは何も言わなかった。待っている。
「角材を当てて、棚が安定しなかったらやめます。その場で。一台で帰る。それでいいなら」
言い終えて、息を吐いた。
ノアが口を開いた。
「往復は停止を二度待ちます。待ちが長く出ても、日が落ちるまでにはかなり余ります。角材は二本、棚の脇にあります。長さは足りると思いますが、当ててみるまでは分かりません」
フィオナがパンを置いた。
「翔太。腕が震えたら、支えが入る前でもやめると約束して」
「約束します」
「じゃあ、私も行きます」
カティアが、水袋の口を閉めた。
「日が落ちる前に宿場に戻る。それは動かさない。今からなら間に合う」
カティアは俺を見た。
「やめる時は、翔太が言っても私が言ってもいい」
「はい」
「じゃあ、戻る」
四人で立った。
箱は小部屋に残す。扉を閉めて、客席の扉へ向かった。
通路を下りる途中で、ノアが隣に並んだ。
「マスター。角材は私が当てたいです。棚の脚と壁の間に、私の手なら入ります」
「カティアさんに言っとけ」
「はい」
ノアは半歩前へ出た。俺は盾の紐を確かめた。緩んでいなかった。
満員の客席の向こうで、床の下の音がまだ回っていた。その音の中に、波の音が混じっている。
もう一度、保管庫へ。
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