第4章 一台目の発見
幕の上から、影が落ちてきた。
落ちたんじゃない。飛んだ。黒い塊が幕の端を蹴って、床へ向かって斜めに来る。カティアの盾がその真下にあった。
がん、と鈍い音がした。
塊は盾に当たって床へ跳ね、転がらずに四本の脚で着いた。初めてまともに見えた。胴は俺の頭くらい。脚が長くて、関節がどこにあるのか分からないくらい曲がっている。灰色の毛が布の埃と同じ色をしていた。脚の先に黒い爪が並んでいる。
そいつは床を蹴った。カティアじゃなく横へ。俺のほうへ。
盾を出した。半身。足は動かさない。
爪が盾の表面を引っかいて、ぎぎ、と嫌な音を立てた。腕に重さが来る。でも猪より軽い。はるかに。盾は顔の横まで跳ねなかった。胸の前に残った。
そいつは盾を蹴って横へ逃れた。
カティアの剣が、逃げる脚の付け根を払った。甲高い声がして、灰色の体が床を転がり、転がった勢いのまま幕の裾に飛びついた。爪が布に食い込む。そのまま幕を駆け上がった。床を走るのと同じ速さで、垂直に。幕の上の端を越えて、暗がりへ消えた。
布の上を何かが走っていく音がしばらく聞こえて、やんだ。
誰も動かなかった。
「追わない」
カティアが言った。盾は下ろしていない。
「幕這い。板に書いてあった名前のとおりだね。あの速さで布を登る。木も登るはず。さっき見た板の道を使ってるんだろう。それだけ覚えておく」
「爪を布に掛けて、脚を交互に出していました。爪が掛かる物なら、たぶん何でも登ります。登る時は、こちらを見ていませんでした」
ノアが幕の上を見たまま言った。カティアがうなずいた。
カティアは幕の上と、閉じたままの背景板の隙間と、保管庫の扉を順番に見た。
「怪我は」
「ないです」
「ありません」
「ないです」
俺は盾を見た。表面に爪の筋が三本斜めに走っていた。借り物の盾に、傷。修理代が頭に浮かんで、消えた。胸の前に残っていた盾だ。それでいい。
「翔太。盾、胸の前に残ってた。二人の前からも動かなかった」
「はい」
「猪に殴られた甲斐があったね」
カティアが笑った。俺は盾の傷を指でなぞった。
*
保管庫の扉を、カティアが押し開けた。
中は真っ暗で、埃と古い布の匂いがした。フィオナの灯りが入ると、壁に沿って木の棚が並んでいるのが見えた。棚には布をかぶせた箱や巻いた布や、何に使うのか分からない木の枝のような物が積んである。奥のほうは棚が倒れていて、灯りが届かなかった。
「広くない。入口に一人残る。私が立つ。三人で探して」
カティアは扉のところに盾を構えて立った。
棚を順番に見た。布をめくって箱を開ける。ほとんどは板切れや色の抜けた布だった。
三つ目の棚で、フィオナの灯りが金色を照らした。
彩灯だった。稽古場で見たのと同じ形の箱で、前面に青い板が差してある。表面の金具が埃の下で光っていた。傷が一本もない。
「あった」
俺は両手で持ち上げた。重い。オルネさんの物より重い気さえした。表面の金具を袖で拭くと、埃の下から磨いたような色が出てきた。
「これ、きれいだな。新品みたいだ」
「見た目はですね」
ノアが隣から覗いた。
試験用の魔石をノアの胸の袋から受け取った。後ろの口にはめる。輪を右へ回す。
光が出た。
青い丸が棚の板の上に落ちた。きれいな青だった。
「光った!」
「はい。次は板です」
青い板を抜こうとした。動かない。指で挟んで引く。がたがたと揺れるだけで、抜けない。
「……固い」
「輪を戻してみてください」
輪を左へ回した。光の丸が縮まない。縮まないまま、ふっと消えた。
もう一度右へ回す。光が出る。左へ回す。消える。
「光は出ます。でも輪を戻すと狭くなる前に消えます。板は抜けません。三つのうち動くのは一つです」
ノアが順番に言った。
「オルネさんの言い方だと、置いてきていい物です」
俺は彩灯を棚に戻した。きれいな金具が、灯りの中で何でもない顔をしていた。
「見た目で選ぶの、剣の時に卒業したと思ってたけど」
扉のところからカティアが言った。
「卒業してません」
「正直でいい」
四つ目の棚の下の段に、もう一台あった。
こっちは埃をかぶって、表面の金具は黒ずんでいる。前面の板は白で、角が欠けていた。持ち上げると、底に擦った跡がいくつもあった。使われていた跡だ。
魔石をはめて輪を回すと、白い丸が出た。板はすっと抜けて、借りてきた青い板を差すと丸が青くなった。輪を戻すと、丸は縮んで点になってから消えた。
「三つです」
ノアが言った。
俺は彩灯を抱えたまま、動けなかった。できた。オルネさんの机の上で一度やった動きが、ここで、自分の手で、同じように動いた。
「持ち帰る価値があります」
「持ち帰る」
フィオナが横から手を伸ばした。
「翔太。壁に向けてもいいですか。一度だけ」
俺は彩灯を渡した。フィオナは輪を回して光を広げ、青い板を差したまま、保管庫の石の壁に向けた。
石の壁が、青くなった。
ただの青じゃなかった。石の粗い表面に光が当たると凹みが暗く、出っ張りが明るくなって、壁全体が揺れているように見えた。稽古場の布の波と同じ色で、波よりずっと細かい。
「水の底から見た壁みたいです」
フィオナが言った。ノアがその隣で、同じ壁を見ていた。
「海の板を、石に当てるとこうなるのですね」
「板は同じでも、当てる物で変わります。面白いです」
二人はしばらく壁を見ていた。俺もだ。カティアだけが、扉から外を見ていた。
*
「翔太。奥」
カティアの声でフィオナが光を奥へ向けた。
倒れた棚があった。背の高い木の棚が、斜めに倒れて壁にもたれている。棚の板は折れて、積んであった物が床に散らばっていた。
その下に、金色が見えた。
棚の一番下の板と床の隙間に、箱の角が挟まっている。前面に黄色い板。稽古場の物と同じ金具。
「二台目」
言ったのは俺だったか、ノアだったか、分からなかった。
二台。二台なら盾に届く。それだけじゃない。海と月が同時に出る。四人で並んで、二階の正面で。
「マスター。指が動いています」
「動いてない」
「数えている時の動き方です」
宿場の食堂で言われたのと同じ台詞だった。俺は指を握り込んだ。
俺は棚に近づいた。持ち上げれば下から引き出せる。
「カティアさん。重さだけ確かめます」
「浮くかどうかだけ。浮いたら、すぐ下ろす」
斜めになった板に両手をかけて肩で押した。棚はわずかに浮いた。言われたとおりにすぐ下ろした。手を離すと、指が勝手に震えていた。
「……駄目だ。腕が」
「それじゃ持ち上がっても、支えてる間に落とす。今はやらない」
カティアが扉から言った。俺は震える指を見ていた。彩灯を何度も持ち上げて、箱を開けて、棚の物を動かして。気づかないうちに、腕を使いきっていた。
「ここで休むのは無理。狭いし、奥の布の陰は見えない」
カティアは倒れた棚の周りを見ていた。
「支えを入れるなら、ここ」
ノアが棚の脚の横の床を指した。
「棚の脚と壁の間に何か挟めば、持ち上げた分だけ戻らなくなります。長さはこれくらい」
ノアは自分の腕を広げて見せた。フィオナが灯りを床に向けて、散らばった物の中から角材を一本引き出した。棚の板を支えていた物らしい。端が折れているが、真ん中は太くて硬い。
「太いです。使えるかは、当ててみないと分かりません。もう一本あります」
二本の角材を棚の脇に立てて置いた。
「今日やるかやらないかは、まだ決めない」
カティアが言った。
「一台目を入口側へ運んで、休んで、それから。翔太、箱」
棚の上に、彩灯がちょうど収まる大きさの木の運搬箱が一つ残っていた。中に布が詰まっている。彩灯を布でくるんで箱に収めると、ぴったりだった。前の人たちも同じことをしていたらしい。
箱は一人で持てる。でも両手が要る。
「箱はノアとフィオナ。私と翔太が前後。入口まで戻って休む」
箱を抱えたノアが、蓋を指一本分開けて中の金具を確かめた。
「一台です」
「一台」
俺は腕を揉んだ。まだ震えていた。でもこの腕で箱を運んだんじゃない。試したんだ。光らせて、板を抜いて、輪を戻して。
「一台でも、規定の報酬は出る」
カティアが言った。
「それは忘れないで。二台目は、休んでから考える」
扉を出た。奥側の床の向こうで、背景板がまだ回っていた。
棚の下の二台目が、頭から離れなかった。
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