後篇
あれから一年。
セイント様と逢瀬を重ねる度に、婚約者だからという義務感は薄れていった。
まあ、以前のようなお邪魔虫がいないおかげで、自由に交流出来たのが大きいとは思うが、それを差し引いても……お顔を見て話をして、文を交わして、少しづつ互いを知っていく時間で、私は自分の意思で、この方を支えたいと思うようになった。
それは、以前の婚約では全く感じられなかった心の変化。
彼の知的で穏やかな人柄に触れる度、婚約という契約に付随する義務ではない何かが芽生えて、胸が、心が温かくなるのを感じた。
そして勉強のために子爵家に招かれていたある日。
私はやっと、その何かの名を知った。
執務中のセイント様に午後の休憩を知らせに行ったとき。
入室の許可を得てドアを開けると、いつも通り執務机で書類を読んでいるセイント様がいて、すぐに顔を上げた彼は、私を見てふわりと笑った。
応えるように、私もいつも通りに微笑み返し、いつもと同じことを言おうとした。
なのに……。
彼の笑顔を見た瞬間、不意にこみ上げてきたものに全身が硬直する。
……私、セイント様が好きだ。
前触れも何もなく、唐突に浮かんだ思考。
ただ姿を見ただけで自然に笑顔になる程、私はこの人が恋しい。
……自覚した瞬間、頬から火が出そうな程熱くなって動悸が激しくなる。
突然真っ赤になって固まった私に驚いた彼に、どうした? と声をかけられて、もっと顔が熱くなって……。
誤魔化すことも出来ずに、私は彼を見つめたまま、か細く胸中を吐露した。
『私、セイント様が好きです』
脈絡のない突然の告白。
セイント様もさぞかし驚いたことだろう。
でも、今言わなければこの動悸と頬の火照りはなくならないと本能が知っていた。言った後、ドクドクと喉の奥で心臓の音がする時間が凄く長く続く。
やがて、セイント様が静かに立ち上がる。見上げるお顔がどんどん近くなって、彼の影に私がすっぽりおさまる距離まで来て、酷く近く、そっと囁かれた。
『ありがとう、私もミーナが好きだよ』
言葉を鼓膜が拾った瞬間、私はなりふり構わず目の前の体躯に飛びついていた。
ぎゅっと抱きしめて、その確かさに涙がこみ上げる。ミーナ、と少し驚いた声が聞こえたけれど、もう止まらなかった。
『好きです』
その行為がはしたないと思うことすらなく、縋り付いてもう一度。溢れる気持ちを素直に声にする。
縋り付いて繰り返す私をどう思ったのだろう? しばらく身体を強ばらせていたセイント様は、やがて静かにそっと私を抱き返して……あやすように背中を撫でてくれた。
あの日……私は名実ともにセイント様の婚約者になった。
共に幸せになろうと言ってくれた彼は、ちゃんと私に<恋>という<幸せ>をくれた。
……ならば、私も同じものを貴方に返したい。
子爵夫人に相応しい婚約者としてではなく。
私として、セイント様に、認められ、褒められ、好かれ、愛され、貴方を幸せにしたい。
初な恋心から溢れた無限の願望は、大いに私を奮い立たせた。
多分、私の幼い変化など、大人のセイント様は簡単に見抜いたのだろう。
彼はいつも絶妙なタイミングで、私の暴走を止め、根を詰めすぎなくていい、そのままのミーナが好きだよ……と欲しい言葉を欲しいときにくれて、その度、私はただ幸せに身悶えた。
愛しい人から与えられる優しさと身の内から勝手に溢れる愛情を糧に、無限に頑張る力が沸いてくる<恋>という好循環は、彼に出会うまでの日々が思い出せないくらい鮮やかに私の毎日を彩った。
しかし……恋とは素晴らしいものだと感じればこそ。
どうして姉はこういう気持ちにならないのだろうか? という疑問が消えなくなった。
私はセイント様の役に立ちたい。
彼を支えたい。
彼の隣に胸を張って並び立ちたい。
恋する気持ちと共に溢れる欲は果てしなく。もう絶対に誰にも彼を渡すまいという気持ちが私を貪欲にさせ、セイント様のためのどんな努力も幸せの一部だと思っている。
……でも姉は、不名誉を被ってまで新たに婚約者となっても、あの男のために何も変わろうとはしなかった。
その結果、この一年で姉の纏う雰囲気は随分変わった。
あの男は最近姉に元気がないと相談してきたが、私に言わせれば……随分前から姉の様子はおかしかった。そしてあれは、元気がなくなったのではなく、やっと現実が見えて余裕が消えたのだ。
姉は今更、自分が茨の道に進んだことに気付いたのだろう。
だが、それは自ら引き寄せ、選び取った苦労。誰も肩代わりは出来ない。
出来るとすれば婚約者のあの男だろうに……彼は的外れにも、私やセイント様に相談するような無能、期待は出来ない。
誰ももう、姉を救えない。
そんな苦労をしなくていいよう両親は何度も止めたのに……思いやりを踏みにじったのは姉自身だ。
今も鮮明に思い出せる、父から婚約者の決定を知らされた日の姉の姿。
髪を振り乱して、自分たちは同じ家の娘なのに、わざわざ姉を格下の家に嫁がせるなんて、愛がないと両親を詰って喚いていた。
これでは嫁いだ後、姉は妹に跪かねばならず、娘にそんな屈辱を与えて平気なのかと詰め寄られたお母様の哀しそうな顔、忘れられない。
親として子ども達を誰より愛し、性質を理解しているからの苦渋の決断だったのに……その思いやりは、一筋も姉には届かなかった。
例えば、伯爵家からの申し込みが、姉とセイント様の婚約が正式に整った凄く後なら、これほど揉めなかったのだろうか? 同時だったから姉は変な野望を持ってしまった?
……否、あの姉ならば私の婚約がもっと後だったとしても、同じ行動を起こしていただろう。
タイミングの問題ではなく。
多分、姉妹という関係に抱く感情が、……歪んでいるのだ。
これまでの人生の節々で感じてきた姉の根底にある感情の発露をはっきり見たのが、あの日だった。
ミーナより下に見られるなんて耐えられない!!
詰まるところ、姉の行動の根底にあったのはそれ。
両親が、姉に伯爵夫人は無理だと判断したことにより、妹の私が姉より良い家に嫁ぐことが、許せなかっただけ。
寧ろ、婚約者変更の理由が、顔合わせの後相手の外見が気に入らなかったとか、そういうものであった方が再考もあり得たかも知れない。けれど、姉の性質を知る両親には、身勝手な自尊心を満たすためだけに決定を覆すことは出来なかった。
何故なら、伯爵は腐っても高位貴族だ。階級が一つ違いとは言え、下位貴族に分類される子爵とは明確な差がある。伯爵令嬢だから伯爵夫人に相応しいというようなものではない。
血統と共に、絶対に必要なのは個人の資質。
だからこそ、両親は姉が将来苦労しないよう差配したのに……姉は己を過信して、茨の道へ進んだ。
姉の過信。
それは、大して努力しなくても、なんとなく、それなりのことが出来てしまうという才能が生んだものだ。
正直、あの騒動の前までは、姉の学院での評判は悪くなかった。
顔も悪くないし、所作も美しい、過不足ない伯爵令嬢と思われていた。
しかし、実際の姉は、生まれ持った才にあぐらを掻いて何一つ本気で取り組まない、向上心のない女だ。
両親がその本質に気付くまで、姉は一を聞いて十を知るような優秀な子と評価されていた。
おかげで一歳違いの私は、姉に比べて物覚えが悪い、不出来な子と言われたものだ。
『姉の方は優秀なのに、妹は随分と凡庸ね……』
幼い頃、家庭教師が私たちを見ながらそんなふうに言っていたのを覚えているし、きっと姉も覚えているのだろう。だから姉は、ずっと私を見下している。
それは今も変わらない。
ずっと、私を不出来な妹だと思っている。
私からすれば、いつの話をしているの? といった感じだ。出来なければ努力するのは当たり前で、私は常にそうしてきた。
その姿勢こそが、私にあって、姉にない資質。
姉は、両親にどんなに諫められても変わらなかった。変わらないまま、いつでもそれなりの結果を出してきた。
なんとなくで、それなりに出来てしまう器用さは才能なのだろう。
しかし姉の才能は、あくまで一度か二度手習いを受けるだけでそれなりのことが出来る程度。決して、すぐ覚えて忘れないものではない。
何かを本当に自分のものにするためには、やはり他人と同じように、反復動作や復習という努力が必要なのだ。
でも姉は、その努力をしなかった。
……否、しないとは言っていない。
その時が来たら本気を出すと言うから、性質が悪い。
本気さえ出したら、自分にはいつでもなんでも出来ると思っているのが厄介なのだ。
だから両親は兄とも相談して、姉を子爵家に、私を伯爵家にやることにした。
姉を信用出来なかったから。
姉と、家の未来のために。
失礼な言い方だが、子爵夫人なら高位貴族と関わる大きな行事に頻繁に出る必要もないし、万が一姉に至らないところがあっても、どうにか出来るかも知れない。そういう思惑があっての、縁組みだった。
しかし姉は自らを過信し、優しい環境を拒否した。
多分姉は、伯爵夫人という役目を不出来な私にこなせると両親が判断したなら、自分が本気を出せば余裕だと考えたのだろう。
けれど、高位貴族の夫人の役目が、生半可な覚悟で務まるわけない。私だって今、セイント様に励まされながら頑張っている最中だから尚更、判る。
変な話、伯爵家は貴族社会の中では高位貴族だが、その中では一番格下だ。更に伯爵家の中にも順位があり、元婚約者の家は、そんなに家格の高い家ではない。
つまり、付き合う相手はほぼ格上ばかり、社交を担う夫人に求められる知識は多岐にわたり、家のため常に阿る付き合いをしなければならないのだ。
あの姉には絶対に荷が重い。
高位貴族の夫人が、ぼんやりと表面を撫でただけの中身のない会話を許してくれるわけないし、目上の相手を適当に遇うなど、どんなトラブルに発展するか判らない。
だから今こそ、姉がずっと出し渋っていた本気を出すべき時なのだが……今更本気になったとて、手遅れだったのだろうな。
何しろ姉は、ずっと親の諫言も聞かず、楽を選んで、努力による積み重ねを軽んじ、疎んできた人だ。そんな人がすぐに真面目に頑張れるわけがない。
あの婚約者にバレるくらいなのだから、もう表面を取り繕うことも出来なくなっているのだろう。
さりとて、プライドの高い姉には、自分に伯爵夫人は荷が重いと認め、誰かを頼ることも出来ない。
……ざまぁみろ。
と実の姉に思う私は酷い女だろうか?
でも、一年前、私とセイント様は、婚約者に捨てられた男女、余り者同士の婚約と噂され、学院でも社交界でも随分笑われた。あの屈辱は忘れられないし、セイント様を好きになって、余計に濃くなった気がする。
こんなに素敵な男性を、身分だけで判断して見捨てた姉が憎らしい。
もちろんそれがなければ私たちは出会えなかったのだけれど、それとこれとは話が別。
私の好きな人を貶めた姉が、嫌い。
血を分けた姉だけど、心底嫌い。
セイント様を貶めた女とはもう関わりたくない。
だから……最近の私は、無駄なあがきなどせずに、さっさと父と姉の約束が履行されればいいとさえ思っている。
父が婚約者の交代を打診するために姉に出した条件。
それは、自らの意思で伯爵家へ嫁ぐことを決めたのだから、この先絶対に、何があっても、婚約の解消も離縁も認めない。
もし勝手に関係を解消するようなことがあったら、行く先は幽閉か除籍だと脅した。
そんなことあるわけないと笑い飛ばした姉はもういない。
だって姉は、嫁ぐ日を指折り数え、早々と式のことについて母に相談している私を、ずっと恨みがましい目で見ている。
そして、どうして……と声にならない問いが聞こえる度、私は輝く笑顔で言うのだ。
「お姉様、ありがとう。お姉様のおかげで私今、とても幸せです」
正真正銘、嫌味だ。
程々にしなさいと兄に窘められてしまうほどに判りやすい嫌味と憎悪をぶつける度、姉は奇妙に顔を歪めながらその場から去って。最近は顔を合わせることも稀になった。
捨てた婚約者と見下してきた妹が幸福そうに寄り添うの目の当たりにするのはどれ程の屈辱だろう?
姉の妄想では、伯爵夫人になる姉は無条件に、子爵夫人にしかなれない私より幸せになるはずだった。
私は、姉を羨むはずだった。
でも現実はそうなってない。
どうしてなのか、姉は本当に理解出来ていないのだろうか?
……まあ、理解したくないのだろうな。
だから姉は、ブツブツと現実に文句を言って逃避しているのだ。
その姿を元気がないと言えるあの婚約者もどうかと思う。多分、あの男も無意識に姉の精神を削り続けているのだろう。
誰にも助けてと言えない姉の現状を少しばかり哀れんで、でも、当然の罰だと切り捨てる。
これは姉が招いた結果。
姉が選んだ未来。
私は私の未来へ向かうのに忙しい。
隣にある、私の未来を見上げる。
私の動作に気付いて見下ろしてくるセイント様が眩しい。
私を見て、私に笑いかけてくれるセイント様が愛しくて愛しくて……。
相手がどんな人だったとしても、私は私として幸せになる道を探す覚悟はあったけれど、今は思う。
彼が私の夫になる人で良かった。
だから、心から、言える。
お姉様、婚約者を取り替えてくださってありがとう。
お姉様もどうぞ自分の選んだ方と幸せになる道を探してください。
そしてどうか、幸せな私たちにはもう関わらないでくださいね。
……やっぱり嫌味かしら?
紛れもない本心なんだけどね。
読んで頂きありがとうございました。
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