前篇
『ああ、私が幸せそうなのが気に入らないんでしょうね』
婚約者とのカフェデートの最中。
突然やってきて勝手に言いたいことを言って、勝手に答えを待つ元婚約者にそう告げたら、眼玉が落ちそうな程目を見開いた。その顔が余りに間抜けでつい吹き出してしまう。
淑女らしくない態度を隣の婚約者に窘められて、慌てて居住まいを正してから、コホンと咳払いをしてもう一度正確に言い直す。
「最近お姉様に元気がないのは、私が幸せそうだからですよ」
それ以外に原因などないでしょう? と小首を傾げて問うと、元婚約者はアホ面を真っ赤にさせて、テーブルに両手を突いて腰を浮かし怒鳴り始めた。
「どういう意味だ!! ミーナ! 君は、そんなにラーナを貶めたいのか!? 自分の至らなさを棚に上げて、姉である女性を貶めるなんてっ……」
「話を聞く気がないなら最初から相談などするな。不愉快だ」
理性を失って怒鳴りつける男を婚約者がぴしゃりと叱りつける。
「そもそも、ラーナ嬢について我々に相談するなんてどうかしている。頭がおかしいのではないか?」
「真面でしたら、そもそも婚約中に堂々と浮気して、妹から姉に乗り換えるなんて恥ずかしい真似しませんよ」
「ああ、そうか」
「ええ」
なるほど……と頷く婚約者の素直さに勝手に笑みが零れた。だからつい、貴方のそういう素直なところが好きですと告げると、彼は途端に頬を染めて、恥ずかしそうに頭を掻く。
あ、可愛い。
ついぞ異性には抱いたことのない感情を抱きしめて、婚約者と見つめ合う。彼の目にも私と同じ感情があって、勝手に胸がドキドキした。
その勢いのまま彼と語り合おうとするのを、すっかり存在を忘れていた元婚約者が遮った。
「き、君たちは……僕のことまで馬鹿にするのか!!」
怒鳴られてハッとして、二人でそちらを向く。
答えを得たくせにまだいたのか。
「事実を述べたまでですけど……本当のことを言ってしまって気分を害したのならごめんなさい」
「ミーナ!!」
「だから、我が婚約者を呼び捨てるのはやめろ、不愉快だ。どうやら君には礼節の心がないらしい。私たちはこれで失礼する、ミーナ行こう」
促され愛しい彼の手を取ってさっさと立ち上がる。
「ミーナっ、君はラーナが心配じゃないのか?」
今指摘されたことを早速破るこの男は本気で頭が悪い。
呆れながら最後にもう一度念押ししておいた。
「ですから、お姉様に元気がないのは、念願の伯爵夫人になるご自分より、私の方が幸せそうだからですよ。疑うなら、直接そう聞いてご覧なさいな?」
力を込めて言ってすぐに身を翻した。
「あの男は、本当に救いようのない……」
「わざわざ声に出して言わなくてもちゃんと知ってます。だってずっとああでしたから。ラーナ、ラーナ、ラーナ……ずっとお姉様と私と比べて私を貶めてばかりで。いい加減、現実を知って困れば良いのよ」
言いながら久しぶりに元婚約者と過ごした日々を思い出した。
あの男と婚約したのは十三歳の時。
婚約が解消になったのは、十五歳の時。
原因は、彼と私の姉ラーナが恋仲になったこと。
……本っ当に、不名誉な出来事だった。
私の実家はそれなりの伯爵家で、子どもは兄と姉と私の三人。跡取りは長男の兄なので、私と姉はいづれ嫁に出されることが決まっていた。
それは貴族の娘として当然のこと。
両親からは、ちゃんと持参金付きで貴族家に嫁に出す用意はあるから心配するなと言われていたので、特に不満も不安もなかった。
そして、私が貴族学院に入学した頃、あの元婚約者の実家である伯爵家ととある子爵家からほぼ同時に、姉妹のどちらかを嫁にもらいたいと申し込みがあった。
家格の違う二つの縁談を前に、多分両親は悩んだのだと思う。
私たちの幸せのためにたくさん悩んで、決断したのだろう。
両親は、姉のラーナを子爵家に、妹の私を伯爵家に嫁がせると告げてきた。
普通なら、顔合わせをして相性の良い方を……などがあるのだが、あのとき両親は、一方的に事後報告で私たちに承諾を求めた。
親の判断に従うのもまた貴族の娘の勤め、私に否やはなかった。
しかし姉は……知らされた途端、怒り狂っていた。
『どうして私の嫁ぎ先が格下の子爵家で、ミーナが伯爵家に嫁ぐのよ!!』
その理由、両親も兄も何度も説明した。
姉に伯爵夫人は荷が重い、とはっきりと。
しかし姉は、そこに込められた親心など全く理解せずに、ただ爵位だけを見て文句を言い。ミーナより私の方が優秀なのに!! と、婚約者の変更を要求し続けた。
姉がごねることは当然父も予想していたのだろう。
既に正式に回答した後、今更無理だと突っぱねていた。
そして後日、それぞれ婚約者となる男性に引き合わされた。
私の婚約者となった伯爵令息は一つ年上で、姉の同級生。
第一印象は、正直可もなく不可もなくという感じで……一目で嫌う要素もなかったが、すぐに心惹かれると言う程の魅力もなかった。
多分向こうの私の印象そうだっただろう。
だから顔合わせを終えた日の日記には、悪い人には見えなかった。このままゆっくり交流を深め、いずれ良い夫婦になれたら良いなと思う。という、なんとも無難な感想が記されていた。
まあ、私の望みは叶わなかったけどね……。
原因は、姉がまさかの行動に出たこと。
父に婚約者の変更を突っぱねられた姉は、ならば……と伯爵令息に直接接触して、自らを売り込んだのだ。
……その行動力だけは素直に尊敬する。
彼も最初は、突然親しげに話しかけてきた同級生が、婚約者の姉と知って無碍に扱えず困惑していた。もちろん私も姉の行動に抗議した。
しかし姉は止まらず……最初は偶然、半年後には必然的に、彼と私の逢瀬の場には必ず姉が居合わせるようになった。
多分彼も学年の違う私より、四六時中一緒に過ごせる姉の方が親しみが持てたのだと思う。いつのまにか、登下校の馬車やランチ時、彼と過ごせる少ない時間に、婚約者の同意の下、姉が同席するのが当たり前になった。
そして、彼の目はまったく私を写さなくなった。
彼が笑顔を向け、話しかけるのはいつも姉。
婚約者との交流の時間なのに、まるで私の方がおまけかお邪魔虫のような立ち位置になって……更に時を経ると、彼はあからさまに姉と私を比べて、溜め息をつくようになった。
婚約者との交流を持つための時間なのに、私と彼に会話らしい会話はなく。ひたすら姉の自慢話を聞かされる時間……はっきり言って苦痛だった。
『ラーナはこんなに優秀なのに……、ラーナなら……』
姉の自慢話終わりに何度も繰り返された、婚約者の失望混じりの呟き。
姉はいつも、彼の隣で申し訳なさそうに聞いていた。
『ごめんなさい。ミーナはまだ子どもだから……、この子も努力しているから、怒らないであげて……』
眉尻を下げて謝罪する姉は、たった一歳差の知識不足を、あたかも十も開きがあるように大げさに言って、彼を宥める。
そんな姉と黙ったままの私を見比べて、あの男はいつも哀しそうに言っていた。
『……ああ、ラーナが婚約者だったら良かったのに』
そんな茶番を何度見せられた後だったろう?
ある日、もう何もかもが嫌になって……だったら望み通りにしてやろうと思った。
本来なら、正式に婚約を結んだ後に相手を取り替えるなど、余程の事情がない限り、不誠実で不名誉なことだ。家にも、姉の婚約者にも迷惑をかけるから、我慢していた。
姉がどう足掻こうと彼の正式な婚約者は私だと思っていた気持ちも、学院で見知らぬ人からヒソヒソされる度削れて……もうない。
私だけが我慢していても、二人がこの調子では不名誉な結末は変わらない。
だったらもう良いじゃないか。
婚約者ではない女、ましてや姉に懸想していることを隠しもしない男に嫁いで一生を棒に振るなんて馬鹿らしい。ずっとずっとこんな扱いを受けるなら、結婚なんてしなくていい。
そもそも私は、お父様が決めたから従っただけ。
彼自身にも、伯爵夫人の座にも執着心はない。
そんなに欲しいのなら全部お姉様にあげる!!
自棄にも似た気持ちを抱いて家に戻って、すぐ両親にことの次第を打ち明けた。
婚約者との交流の席には必ず姉がいて、二人は想い合っている。私はもう結婚など望まないから、どうか彼との婚約を解消して欲しい。
ずっと堪えていた悲しみと怒りを思いつくまま、泣きながら伝えた。
私の訴えに顔を青ざめさせた両親は、すぐに家族を呼び集め、その場で姉に真意を問いただした。
何故、妹の婚約を壊すような真似をした!? と開口一番父から責められた姉は、少し驚いた後、泣いている私を見て、やっと身の程が判ったのねと笑った。
『ミーナの察しが悪すぎて、このままじゃ婚約破棄も視野に入れてるって彼も言ってたの。そうなる前にちゃんと自分で言えて偉かったわね、ミーナ』
うふふと笑う姉は、良かった良かったと胸を撫で下ろしているが、一体何が良いのかその場にいる誰にも判らなかった。
『ラーナ、何が良かったというのっ。これじゃ、貴女は妹から婚約者を奪うことになるのよ』
『あらお母様、私も何度も言ったじゃない。そもそもが間違ってるって。姉を差し置いて妹が伯爵夫人になること自体が間違いなのよ』
胸を張って宣言する姉を前に、母は今にも倒れそうになって、慌てて兄と一緒にその背を支えた。
『彼も地味でどんくさいミーナより、華やかで成績も良い私の方が未来の伯爵夫人に相応しいって言ってくれてるし』
『馬鹿なっ。不貞の果ての婚約解消など家の恥!! お前達はそれでよくても、姉に婚約者を奪われたミーナがどんな目に遭うと……』
『嫌だお兄様、物言いが悪いわ。私はただ、相応しくないミーナを彼の婚約者にあてがってしまった我が家の不備を正しただけ。心配しなくても、私が彼と婚約するから、ミーナはあの男に嫁いで子爵夫人になれば良いのよ』
あの男と姉が呼ぶのは、当時の姉の婚約者で子爵家当主のことだ。
『そんな不実な真似出来るわけがないだろう!』
怒りに拳を震わせて、けれどお母様の側を離れることが出来ないお兄様が怒鳴る。それでも姉は、薄く笑うだけだった。
誰に何を言われても、そうなるのだと信じて疑わず頬を紅潮させる姉を睨む力もない私は、黙ってお父様を見た。
最初の一言以降黙っていたお父様は、姉の発言の度に眉間に深く深く皺を刻んで、絞り出すように言った。
『……ラーナ、お前はどうあっても伯爵家に嫁ぎたいのだな』
『はい。ミーナより、私の方が伯爵夫人に相応しい』
『いいだろう……。いくつか条件がある、お前がそれを飲めるなら、我が家の有責で婚約者の変更を打診しよう』
『旦那様!!』
『父上!!』
『ええ、ええ、お父様!! 伯爵家に嫁げるなら、どんな条件でも飲んで見せます!』
姉は条件を聞く前から激しく頷いて父に走り寄り、その手を握ってありがとうと繰り返していた。
それから三家で話し合いがもたれ、すべての手続きが終わったのが、一年前。
婚約者の姉に乗り換えたいと言いだした息子にも非があるとして、私と彼の婚約は互いに瑕疵のない婚約白紙となった。
そして何故か。
姉の婚約者までも姉との婚約解消にあっさり同意し、私を新たな婚約者とすることに同意した。
結果、家としての契約はそのままに、姉妹を入れ替えることで、この話は決着が付いたのだ。
そして私は、姉の婚約者だったセイント様と出会い直した。
以前セイント様とお会いしたときは、姉の家族と婚約者としての対面だったので、肩書き以上の詳しい人柄を知る機会はなかった。
私が知っていたのは、彼が私たちより少し年上なだけなのに、子爵家の跡取りではなく既に当主であること。婚約者に求めているのが、貴族学院卒業後すぐの結婚と結婚直後からの子爵夫人としての差配であること……など。
成人してすぐに子爵夫人としての振る舞いを求められるのは、年若い娘には負担だ。しかし、結婚自体は卒業後、まだ年数がある。それまでの期間を、セイント様との交流と婚家について勉強の時間に充てればいい。
いい話だ……と私も思った。
これなら姉でも大丈夫と両親が思ったのも頷けた。
しかし、当事者である姉だけは、この縁の旨味に全く興味を示さなかった。否、相手方の事情すら知らなかったのかもしれない。
ただ爵位にしか興味なく。そして姉は、ある意味実力で伯爵夫人の座を得た。
そのやる気だけは本当に尊敬するが、……同時に激しく軽蔑している。
姉の幸せのためには、伯爵夫人という肩書きが絶対に必要だったのかも知れない。
なら、他にも手段はあった。
もっと穏便に、誰も傷つけない方法が絶対にあった。
なのに……一番醜悪で卑怯な手段で、あの男と姉は私と家から名誉と矜持を奪ったのだ。
家同士の話し合いが穏便に済ませられても、最早学院での私たちの評判は変わらないし、社交界での各家の評判も地に落ちたままだ。
姉に婚約者を奪われた女。
妹の婚約者を奪った女。
妹から姉に乗り換えた男。
婚約者に捨てられた男。
契約を簡単に違える家。
一度まといついた悪評は、滅多なことでは消えない。
本来なら背負う必要のなかった重荷を背負って、私とセイント様は、もう一度婚約者として出会い直した。
彼が過剰に苛烈な性格とは聞いていないが、普通ではあり得ない侮辱を受けた後だ。激怒していてもおかしくない。
私は彼に余計な醜聞と屈辱を与えた家の女で、憎い女の妹。
待ち合わせ場所のカフェの個室で会ってすぐ、まずは謝罪から始めようと目を伏せた私を、しかし、彼は素早く片手を上げて止め、穏やかな声で言った。
『ミーナ嬢、謝罪は既に受け取っている。君が謝る必要はない。……私たちは同じ立場だろう? ならば、手を取り合って、共に幸せになろうじゃないか』
せめて……そんな気持ちを言外に滲ませて、柔らかく微笑んだセイント様は、加害者である我が家からは絶対に言えない言葉を先んじて言って、後ろ向きになっていた私の心を掬い上げてくれた。
……本当はもう、婚約者なんていらなかった。結婚もしたくない。
でも、婚約は家と家の契約。契約が破棄されなかった以上、私にはセイント様に嫁ぐ義務がある。
そして、姉の不始末は我が家の咎。私は咎人の身内として、セイント様からどんな酷い扱いを受けても黙って受け入れるしかないのだと諦めを持っていたのに……。
彼は私を、恥をかかせた家の者ではなく、元婚約者の裏切りに傷つけられた同志として受け入れるという。
彼と幸せに……?
思い浮かべた途端、無意識に零れたのは涙。
家族、友人……誰から言葉を尽くされても慰められることのなかった心が、ホッと息をついた。緩んだ心の証のように零れる涙を止めることが出来ない。隠すように両手で顔を覆って、私は何度も頷いた。
『はい……、私も、セイント様と、幸せになりたいです』
『ではこれから仲良くしよう、婚約者殿』
少し戯けて言ったセイント様は、まずは好きな食べ物でも披露し合おうか? と必死に涙を拭う私の乱れた顔を見ないようにカフェのメニュー表に視線を落として、僕はケーキよりもプリンが好きなんだと教えてくれた。




